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私は「大学」生になりたい


そうか、私は大学生ではなかったのか・・・。

本を読みふけっている時に、こう思ってしまった。

近年、大学では、ますます専門分化がすすみ、教養課程がほとんど消えてしまっている。

そういえば、

私は大学の一回生なのだが、もうすでに専攻分野の科目を勉強していた。

まぁ、一年生から多少なりとも専攻分野についての知見を広めることも重要だとは思うが。

さらに私の場合、2年の段階からゼミに入ることになっている。

専攻分野に触れる機会はますます増えるばかりである。

(最初の二年間は、教養を鍛えるという考えは大分前に消え去ったようだ。)

そこで私が思ったことが、

「あれ、私、大学生じゃない・・・!?」だ。

専攻分野が優先されて履修対象となっている、これってある意味「専門学校」の生徒とほぼ同義なのではないだろうか。

まともに教養も学ばす、論理的に思考を発展させる力もなく、言葉も碌に操れずに、専門の分野にだけは中途半端に詳しい。

あらら・・・。

職業能力開発学校の間違いだろうか?

私は「大学」生になりたい!

故に、そういった状況に陥っている自分に私は落胆し、そのことになんの疑問を抱かない周りの人々に恐怖した。

これが「不知の無自覚」というやつかとも思った。ソクラテスさんまじぱねぇ。

だから

私は「大学」生になりたいと強く希求した。

これは職業能力開発学校に通う者のことではなく、

あらゆる権力から乖離した、大学で学ぶ者として生きるということである。

考えろ

私は今、あらゆる分野の本を読んでいる。

この際、専門と関係ないし・・・!、と思う輩は、相当心疚しく思われる。

今の大学生は、個人的に、考えることを放棄しているように見える。

人間とは何か?

社会とは何か?

生きるということは何か?

言葉とは何か?

働くとは何か?

こうしたことについて、あらゆる文献を閲覧し、自分なりにまとめ、曲がりなりにも自分が「これだ!」と思う意見を一応完成させ、持っているひとはどれほどいるだろうか・・・?

さて、ここで引用をしよう。

フランスでは、大学は、国家権力、政治権力、経済的権力、そしてあらゆる宗教からも自由であるべきであり、それこそが「学の独立」だと考える。同時に大学それ自体もなんの権力も持たないことを理想とする。大学は、自分の頭で考え、判断し、行動することのできる、いわゆる自律的な市民を教育する場であり、一流企業の職にありつくための登竜門ではない。難波菊次郎、2008、「学校教育の真の目的」、『きちんとした日本語がいい人生をつくる』、PHP研究所、170

おぉ。

これこそ大学のあるべき姿ではないだろうか。

どうやら日本の大学は、ほとんど全てが

「一流企業の職にありつくための登竜門」らしい。

登竜門は、「仮面ライダー」くらいでいいのだ。

そしてお馴染み。

この事に関し、疑問や驚異を抱くものは少ない。ソクラテスは偉大だなと実に感じる。

(いやだから、「不知の無自覚」はもう充分である。)

今日も「大学生?」は自分自身を憂うのである。

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