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”大人”用懸垂の雨垂れ


散歩中に思いついた散文です。


視界の悪さ良好

久しぶりに外に出た今日は、雨足がほどほどの日だった。

やれ外出自粛だ、やれコロナだとよく聞くが、元から人通りの少ない近所は、いつもどり静観としている。

近所の公園へ足を運べば、おや・・・。

目新しい遊具が、公園に設置されているではないか・・・!最近は、公園の数が少なくなっているとよく聞くから、逆に遊具を新たに敷設するのは珍しい・・・。

雨足は以前変わらず、むしろ強くなってくる。

新しい遊具には、「大人用」と記されている懸垂のようなもの。


大人用・・・

どうでもよいような一言半句について考えてしまう私は、懸垂と雨の中で、じっくり考えていた。

「大人」とは? そして逆に「大人ではない」とは?


経済的な自立を果たしたらなのか?

結婚したらなのか?

処女や童貞を卒業したらなのか?

就職したらなのか?

自分の仕事をこなせるようになってからなのか?

通過儀礼を終えたらなのか?

なにか偉業を達成したらなのか?

空気をよむことを完ぺきにこなしたらなのか?

自分の夢を諦めたらなのか?



私は、その「大人用」の懸垂に自然と手をかけてよいのかと悶々と思案を巡らせる。

そうだ、「大人」と「子ども」は、その境目が曖昧かもしれないが、分かることが一つある。それは「変化」しているということだ。

でも不思議だ。「子ども」が「大人」に変化し得ることはあっても、「大人」は「子ども」に変化することは、ほぼ不可能のように思えてしまう。なにか不可逆的な要素が、大人に備わっているとでもいうのだろうか?

「大人」とはなんだろう。

それは身体的な区別や、ライフステージや、意識や、年収や、あらゆる要因が関わってくる問題。

自然は、目に見えた変化や進化を見せてくれるが、人間の精神はそうはいかないのだろうか。


雨足を後にし、家屋へと帰っていた私は、そうめんを茹でる。

熱い。

冷水に浸した直後のそうめんは、熱い。次第に、その熱さは、水へと伝わってゆく。分子の運動の活発さが、そうめんから水へと伝播していく。

そうめんは冷たい。

さて。

子供はどうだろう。彼らは、「大人(とされている)」人の近くにいても、勝手に「大人」になることはない。

「大人」というものは、勝手に伝播していくものではないらしい。


なら「大人になる」のではなく

「大人と見なされている」「〈大人〉という枠組みに、異なる段階にある?人間を当てはめている」「〈大人〉という枠組みを、存在するものとして作り上げている」

と考えた方が、結局理解できる唯一の方法のように思える。


言語は恣意性の塊だ。

通過儀礼というものがあるのも、勝手に「大人」というものが生まれないからだろうに。社会学者のアンソニー・ギデンズは「国民国家」を想像の共同体と呼んだ。なら「大人」も、想像の区分ではないのだろうか。


「大人用」の懸垂は、極めて異質。作為的。人為的。

もしそうでないとしたら

「大人用の」の懸垂から垂れる雨は、どうして「大人」にならないのか?

なぜ太宗雨は、破雲雨は、通草腐らしは、「大人」にならないのだろう?

「大人」とは何だろうという前に、そもそも「大人」が存在しないということを忘れてはいけない気がする。


この「大人用」の懸垂と、そこからの雨垂れ。

一方は、極めて不自然で、人為的で、

もう一方は、なんと自然で、美しいことか。


なんの気なしに見かけた、降雨の日の懸垂の遊具

それは自然では絶対に見かけることのない、人為と自然の調和。自然の中にあるとてつもないイレギュラー。

いやこれはもはやイレギュラーではない。

今私のいる「社会そのもの」「自然では説明のつけようがないこの意識」が、そもそもイレギュラー。私から見たら、その大人用遊具は、この文章を書いている私の意識とまったく同質のもの。

身体という自然に生起している、意識というイレギュラー、異物、インタンジブルな存在。

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視界の悪さ良好

久しぶりに外に出た今日は、雨足がほどほどの日だった。

やれ外出自粛だ、やれコロナだとよく聞くが、元から人通りの少ない近所は、いつもどり静観としている。

近所の公園へ足を運べば、おや・・・。

目新しい遊具が、いや、


そこには、「私」という存在となんら変わりない姿が、”ぽつり”と居るだけでした。




今日も大学生は、想っている。



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