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コンテンポラリーアートとしてのサーカス第一章 Nouveau Cirque(ヌーヴォー・シルク)とは

長文の為、六章に分けて記します。

ヌーヴォー・シルク発祥の地、フランス

他の舞台芸術の歴史は十分に文書化されていますが、サーカスの進化を描く試みは殆どありません。道化師、アクロバット、動物の曲芸のサーカスは、もはや過去の残像であり、最も進化し、画一したフランスの現場の現実は、より現代的なものへと着地しました。

フランスで発祥した新しい芸術表現ヌーヴォー・シルクとは何なのか。日本人にあまり伝えられていないフランスの現状を、現場からの声として伝えていきたいと思います。
かつて、ヌーヴォー・シルクを日本にどう紹介すればいいだろうと考え、トップアーティストの一人であり、異端児とも称され、私も所属しているカンパニー・リメディアを率いるカミーユ・ボワテル と話した事に加筆し、綴ってゆきます。

まず始めに、
触れたことがない人にとって〝サーカス〟とイメージするものとは、全く表現の根底が違います。

現在のヌーヴォー・シルクというのは、コンテンポラリー・アートです。
もはや単一の分野(ジャグリング、トラピーズ、綱渡りなど)に焦点を合わせておらず、ダンス、劇場、音楽、ビデオアート、ハプニングのコンセプト、ビデオプロジェクションとの混合など、他のあらゆる芸術作品との透過性が複数の分野にまたがった表現に進化しています。

そこに至るには、懸命な努力、決意、状況の結果として、フランスでヌーヴォー・シルクは新しい芸術的規律が生まれました。

つまり、ヌーヴォー・シルクというのはコンテンポラリー・アートとしてのサーカスです。

その発祥は1970年代後半、フランスの政府政策としてサーカスの実験を始めた事に起因します。

サーカスの歴史

サーカス輪っか

古代サーカス
サーカスの起源を古代ローマの円形競技場キルクス・マクシムスCircus Maximusに置くことがあるが、言葉としての繋がりはあっても、近代サーカスとは区別したほうがよいだろう。
このキルクスは古代ギリシアの競馬場に原型を持ち、イタリアの先住民族エトルリア人がローマに伝えたとされ、ローマ帝国時代、ヨーロッパ各地に建設されて、競馬、戦車の競走、格闘技、狩猟競技などのスポーツをはじめ、見せ物も上演した楕円形の野外大競技場=劇場であった。近代の娯楽形態としてのサーカスは、必ずしもその歴史的延長線上にあるわけではない。

近代サーカスは、曲馬を主要な演目として発展し、そこに新しいショー形式が取り入れられ、興行として成長してきたものである。
従ってここでは、イギリスのアストリーの曲馬興行を起点として、近代サーカスの歴史をみることにする。

近代サーカス
250年前に英国で誕生したという〝近代サーカス〟とは何だろうか。
英歴史家ジョージ・スペイトは、「人間の身体技能や訓練された動物によるエンターテインメント。直径42フィート(約13メートル)のリング内で行われ、観衆は周りを取り囲むようにして鑑賞する」と定義している。
空中ブランコや道化師によるパフォーマンス、曲芸など、現在でも観ることが出来るサーカスの原型は、250年前の1768年に英国で誕生したとされている。その基礎は、英国人のフィリップ・アストリー、近代サーカスの父と呼ばれる馬術師が築きました。

サーカスの語源となった円形ステージ
フィリップ・アストリーは1768年の復活祭に、ロンドン中心部のウォータールーで初めて曲馬ショーを開催する。このとき、会場となったオープン・スペースを円形に使った。これまで通常の曲馬は、直線上で行われていたため、観客はショーのすべてを間近で見ることが出来ずにいたが、円形にしたことで、全てを視野に収めることが可能になったのだ。

また、円に沿って馬を走らせることで馬の背に微妙な角度が付き、パフォーマーが馬上でアクロバットをする際に有利に働くことも分かった。
現在でも、世界のサーカス・リングの標準はアストリーの定めた直径42フィートで構成されています。

そして〝サーカス〟という言葉は、ラテン語 circus(キルクス)で、「円」または「輪」を表す意味です。

曲馬ショーからサーカスへ
曲馬ショーを成功させたアストリーは、すぐにほかのパフォーマーを雇い入れます。バンドが音楽を奏で、道化師が曲馬ショーの合間に芸をし、曲芸師や綱渡り、芸をする犬なども加わっていきました。

1768年、近代サーカスの誕生である。

アストリーのサーカスは大好評を博し、彼は大きな1つのチームとなった団員たちと共に、英国内だけではなく欧州や米国でツアーを行い成功を収めます。こうしたアストリーのサーカスに影響を受け、世界各地にサーカス団が増えていき、サーカスの始まりとなります。

サーカス団

王室から庶民までが楽しめる娯楽
新たな娯楽となったサーカスにいち早く飛びついたのは、流行に敏感で、かつ入場料を払うことができる中流階級の人々でした。すぐに貴族や上流階級の人々も興味を持ち始め、アストリーの死後、サーカスは王室の後援を受けるようになっていきます。
特にビクトリア女王は様々なサーカス団を宮殿に招待し、1840年代にはウィンザー城やスコットランドのバルモラル城でも公演させています。

そして19世紀末には、サーカスは庶民の為の娯楽として普及し、 ビクトリア時代の最も人気の高い楽しみの一つとして、その地位を不動のものにしました。この時代のサーカスの多くは木造建築の中で行われ、英国全土の都市には「ヒッポドローム」「サーカス」「アンフィシアター」と呼ばれるような、サーカスのための建造物が次々に建設されていきました。

繁栄と危機
この頃から、欧州と米国のサーカスに構造の違いが見られるようになっていきます。

欧州のサーカスは、アストリーの考案した単一のリングを舞台に見立てるスタイルを踏襲し、コンセプトは変わらないものの、リング上で行われる芸はより複雑に、かつ洗練されていきます。
第二次世界大戦期にピークを迎え、パリには4つの恒久的なサーカス団があり、その全てのサーカス団が大勢の聴衆を集めていました。

米国では、天井の高い大きなキャンバス地のテントを複数使い、より大きな動物を登場させるなど、大規模な仕掛けの芸が人気となっていきます。

しかし、1970年代に入るとこれらは全て変わっていくことになります。

映画とテレビの台頭は、エンターテイメントの好ましい形態としてサーカスに取って代わり、パフォーマンスの革新は数十年間見られず、動物の権利は社会的関心事として浮上していきました。

それは危機の時代であり、多くのサーカス団が倒産していきます。

1978年にフランス政府が介入し、この210年の伝統の責任を農業省から文化省に移しました。象徴的な変化と同様に、これはサーカスのパフォーマーに他のアーティストと同じように資金支援への権利を与える政策でした。

時代の流れに足並みを揃えて
1978年からフランスでは、政府や演劇界を巻き込んでの、大掛かりなサーカス学校設立の動きが起きていきます。
その結果、サーカスを総合芸術の一つと捉え、演劇やバレエの専門家を教師に招いた学校が、フランスに200校あまりも誕生する事に繋がります。

ここから育ったパフォーマーたちが、現在〝ヌーボー・シルク〟と呼ばれる新ジャンルのアートの中核を担っています。

かつてサーカスは、大きなバラエティーショーでした。
道化師、アクロバット、動物の曲芸のアクトで構成され、シルクハットの団長が司会し、といった要素は見事に表現されていたため、1970年代までの200年間、フランスのサーカスの形態は殆ど変わっていませんでした。

変わったのは聴衆でした。

20世紀の社会は、2つの世界大戦と、映画やテレビなどの新しいエンターテイメントを提供する技術の開発が目まぐるしく進歩していきました。

もはやサーカスの変化は、文化を継承する為の必然であったと云えるのではないでしょうか。

サーカス子供

フィリップ・アストリー(Philip Astley、1742年1月8日 – 1814年1月27日)はイングランドの馬術家。サーカスの発明家。「現代サーカスの父」と呼ばれる。
1742年、英中部スタッフォードシャーのニューカッスル=アンダー=ライムにキャビネット職人の息子として生まれる。
軍隊を経て、曲馬の学校や円形のリングを持つサーカス劇場を作り、近代サーカスの基礎を築いた。
1814年、パリで死去し、パリ東部ペール・ラシェーズ墓地に眠る。

若くして乗馬スキルに秀でた軍人だった。
17歳で英国陸軍の軽竜騎兵隊(Light Dragoons)に入隊、騎乗兵として活躍したアストリーは、貴族の邸宅で馬の調教をしていたというドミニク・アンジェロに乗馬の才能を見込まれ、馬術を習う。
アストリーはその後、七年間戦争で実践を積んだ結果、退役時には馬上で行う曲芸、曲馬のプロになっていた。
陸軍を退役した後、アストリーが考えていたのはロンドンに馬術の学校を作る事。1768年、ロンドンの中心部ウォータールー、現在セント・ジョンズ教会のある辺りに、アストリー馬術学校を建設。午前中は乗馬や曲馬のクラス、午後は一般人に向け、自らの曲馬を披露し、この芸が予想以上の大人気に。
曲馬芸の大成功が転じてサーカスの興行主となったアストリーは、英国内外に19のサーカス用劇場「アストリー・アンフィシアター」を建設する。1つはパリにあったが、フランス革命が勃発し、アストリーは帰国を余儀なくされる。後にパリを訪れ、自分の円形劇場をナポレオンが兵舎として利用していると知ると、使用料を請求したそうだ。
アストリーのサーカスはビクトリア時代に人気を博し、文豪チャールズ・ディケンズやジェーン・オースティンの作品でも言及されている。オースティンの著作「エマ」の54章には、「彼らは2人の息子をアストリーズに連れて行くつもりだった」とあり、アストリーズという言葉がそのままサーカスを意味していたことが伺える。

第二章 フランス 文化政策としてサーカスの再興へ 続く


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