見出し画像

タイムマシン

 なんだかとても学校に行きたくなくなった。起床を催促する母の声を無視して寝坊したふりをした。枕に顔を埋めて静かに泣いた。
 政治のことも、外国のことも、病気のことも、全てが私にはわからないペースで進んでいく。ついていけないスピードで世界が加速している。少しだけ疲れてしまった。なんで泣きたくなってしまったのか、なんで学校に行きたくなくなってしまったのか、よくわからない。ただ、自分の生きている世界にどうしても明るい展望を持つことができなくて、この世界に灯りを灯すようなことが小さい私にできるはずもなくて、今朝はそのことが少しだけつらくなってしまった。
 なんとなく行きたくないからという理由で学校を休むことを私の心は許さなかった。世界に対する自分の無力を悟りつつ、学校を休んだ罪悪感が後の自分を苦しめることを恐れる。そんな惰性で学校に行く。とても足取りが重い。それでも熱は無いし、朝ご飯にはしっかりサンドイッチを三つ食べた。父が作る、茹で卵を潰して作るたまごサンドイッチをふたつと、レタスとトマトとハムのやつ。寝坊をしたふりをしていただけあって、もう確実に一限には間に合わないし、朝にうつ伏せで泣いていたから顔も浮腫んでいる。出席点を稼ぐためだけの出席には本質的になんの意味もないことを自覚しつつ、通勤ラッシュが過ぎたいつもより少しだけ空いているバスに乗る。
 堂々と遅刻をしてきた私のことを英語の先生は責めなかった。
「みーさん、遅れるなんて珍しいね。体調とか悪いのかな?大丈夫?」
みーさん、というのは私のあだ名だ。本名で私を呼ぶのは家族くらいだ。
「体調は大丈夫です。遅刻してきてすみませんでした。」
先生があえて避けたのであろう遅刻という言葉を自ら用いて自分の罪を明確なものにする。
「そっか、なにかあったら言ってね。それじゃあ今はここまで進んでるからね。」
何かを察したような顔をする教師がなんとなく癪に障る。いや、彼女は何もしていないのだけれど。席に着く。漫然と、黒板をノートに写す。
 授業が終わってもなんとなく居心地が悪かった。教室ってこんなにうるさかったっけ?いつもは楽しく聞こえるはずのみんなの声が、今日は騒音にしか聞こえない。なんだか頭も痛い。黒板の文字が消されるのをなんとなく目で追っていた私のところに、仲の良いクラスメートであるレモンが近づいてくる。
「みーさん今日なんかあった?…いや、ないならいいんだけどさ、ちょっと心配になっちゃってね?遅刻も珍しいしさ…いや、なんでもないならほんとに大丈夫なんだけどね!お節介だったらごめん!」
彼女なりの精一杯の気遣いをしている様子がなんとも痛々しい。そしてそんな彼女をなぜか私は冷静に見つめている。私は体調が悪いわけではなくて、ただ明るい未来が見えなくてなんとなく悲しい気持ちになってしまって、などと説明してもわからないだろう。どうしよう。とりあえず、何か返事をしなくては。
「レモン、あのね、なんか今日は色々考えちゃってね…」
レモンは真剣な面持ちでこちらを見つめる。この子の明るい笑顔を、私の非自明な憂鬱で曇らせてしまうわけにはいかない。
「んーん、なんでもない」
口角を上げる。目を細める。
「大丈夫?さすがになんでもないことはないでしょ?ねえみーさん、ほんとに心配だよ」
ほんとに心配そうな顔でほんとに心配だというレモンはきっとほんとに心配してくれているのだろう。彼女の高くて柔らかい声が耳元を覆ったとき、不意に涙が溢れてきてしまった。
「どうしたの?ごめんね、とりあえず保健室行く?」
レモンに謝る筋合いはない。彼女にはすぐに謝ってしまう癖がある。優しすぎるのだろう。普段と違うトーンのレモンの声を聞いたクラスメートの視線が私に向く。この場から逃げ出したくなった。
「ほんとに大丈夫?ごめんね!」
私は立ち上がって教室から逃げ出した。立ち上がったときに椅子を倒してしまった気がする。この際そんなことどうでもいい。とにかく泣き顔を見られたくない。トイレに駆け込んだ。
 スカートのポケットからスマホを取り出す。レモンたちから心配のLINEや不在着信が入っていた。ごめんね、と思いながらミュートにする。授業のチャイムが鳴る。個室の外に人がいないことを耳で確認してから、大きな声を上げて泣いた。

 一時間タイムマシンに乗って、一時間後の世界に着いた。この一時間は永遠と思われるほど長かった。ずっと床のタイルの数を数えていたような気もするし、これからの人生についてほとんど意味をなさない妄想をしていたような気もする。タイムマシンから降りて、トイレの個室の扉を開いてみても、そこには一時間前と全く変わり映えのしない世界が広がっていた。洗面所で顔を洗う。メイクが落ちるのはこの際仕方がない。乾いた涙で目元が汚れて見えるよりマシだと思う。鏡の前で、笑顔の練習をした。レモンたちが探しに来る前に教室に向かう。加速する世界が絶望に到達する前に、まずはレモンに謝ろう。


この記事が参加している募集

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?