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あえてゼネラリスト的で在ろうとする/徹底的に分散してみる

私はシステム開発を仕事にしている人間ですが、システムエンジニアの界隈でキャリアステップを考えたとき、専門職的な側面が大いに重要視されることからも「技術力」という言葉が頻繁に登場します。

エンジニアでない人たちからすると「技術力」というのが具体的に何を指すのかがかなり分かり辛いと思います。また、分かり辛いと同時に、一辺倒、一色、同じ軸のうちで程度の深さ(例えば「コミュニケーション能力」とか、とある国家資格とか)によって測られるものと思われているところがあると思います。

実際にはそうでなく、たとえば「世界史の専門家です!」という人間が存在しないが「フランスのN世紀の研究をしています」のような狭い範囲の専門家は存在するという構造と似ています。

ニッチな技術が大量に存在する中、それぞれの技術の専門家になるということは現実的に不可能です。その表面を撫ぜてほかの技術と組み合わせてサービス提供するまでのステップ全体が「システム開発」と呼ばれるわけです。

同時に、とある技術に対しての深い造詣がある人間は、別の技術に対しても一定の知見や想像力があったりします(歴史は繰り返すのと同様、関係ないように見える技術間には、ベースとなる仕組みの似ている部分があります)。

単にこの「とある技術に対しての深い造詣」を「技術力」と呼称することもできます。一方、仮に、この「知見」「想像力」のことを「技術力」と呼ぶこともできるかなと思います。いずれにしても「技術力」が無ければ、システム開発を実現することはできません。


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さて、私ですが、チームで手を動かす形で実装をした経験が少ないこと、そもそもプロマネやシステム企画的な仕事ばかりさせられてきたこと等から「とある技術に対しての深い造詣」がありません。
一方でコンピュータサイエンスにかかる学位を持っていること、そこそこの資格を持っていること、プロマネのように横串管理ができるような業務に従事してきたことから、一定の「知見」「想像力」を有しています。

年齢を重ねていくと、特に国内のシステム開発の現場ではあるあるですが、全体管理的な業務に近しいことをやる機会が増えてきます。それはつまり「深い造詣」を持たないままに「知見」「想像力」を有せよということで求められているということになります。このような状態のまま仕事をしている人は、自分のスキルの無さ(表面的であること)に一定の不安を感じたり、キャリアステップを見返すときに、やや取り返しが聞かないような感覚に陥ります。もっと言うと、特にシステム開発の現場においては、スキハラのようなことがよく発生するため、コンプレックスに感じるケースもあると思います。

これに対するソリューションはいくつかあると思います。

一つ目は、ゼロに戻る意思で転職活動をして「深い造詣」を獲得しなおすように努力することです。年収は一度大きく下がるかもしれないけれど、その覚悟でやり直す。

二つ目は、並行して学習・自己研鑽することです。チーム開発を副業として経験するのはかなり難易度が高いですが、不可能ではないと思います。

三つ目は、そしてこの三つ目こそ私が意識し始めていることなのですが、徹底的に表面だけを削り続けて、あえて何かに注力せず、分散した状態のまま、無心で学びを繰り返すことです。


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一度、システム開発から話を逸らします。

さて。
派生して考えますと、何かに対して徹底的な専門家になるというのは、人生においてシンプルかつ重要な活動です。ラベリングできますし、アイデンティティも維持しやすい。シンプルなので努力の仕方が分かりやすいですし、その活動に対する成果ということで結果が出やすい。収入にも寄与します。

一方、何かを徹底するということには重大なリスクがあります。それは、その活動が社会的に不要なものと相成ったとき、圧倒的先駆者によってそのアイデンティティが潰れてしまったとき、会社が倒産してしまったとき、その人が次に取ることのできるアクションが無くなってしまうということです。

全財産の投資先をいち企業の単株にする人はいません。投資信託や複数ジャンルにばらけさせたり、多少の現金を保有することでリスクヘッジを行います。それと同様に、スキルセットや活動内容には幅を持たせたほうが良い。もしくは、幅を持たせられるような余白を用意しておいたほうが良い。単身で働くより結婚相手とダブルインカムで生活していたほうが良い。片方しか家事子育てができない/片方しか収入を得ていないという状況は、常にリスクです。

とは言ったものの、たとえば普通に仕事をしている人たちも、特定のスキル一辺倒だけで生きていることはありません。レストランのホールで働く人は火入れしかできないということはありませんし、医者は特定の科を名乗りつつも様々な治療を行うことが(理論上は)可能です。

獲得してアイデンティティ化しているスキル以外にも、特にその「幹」のような部分から、枝葉のように獲得しているものがあります。幹や主枝に多少のダメージがあっても、側枝が生きていれば光合成ができます。一方、幹それ自体がやられてしまった場合はこの限りではありません、例えばロボットやAIの台頭で多少の職業が置き換わる可能性が叫ばれていますが、そのようなことが今後も起きるでしょう。印鑑文化の縮小とか、対面ミーティングの価値の弱まり等、幹自体が弱っていくケースは存在します

つまり、リスクヘッジというものは意図的に行っておくことが重要だということです。幹から枝葉のように出てきた程度のリスクヘッジは、根こそぎやられた場合、共倒れする可能性があります。

纏めると、理想論だけ書くと、幹を複数本育てることができることができれば、その人のスキルセットは安心であるということになります。そんなことができるわけがない、と思いますよね。私もそう思います。でも、幹にしなくてもいいのであれば、どうでしょう。


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段々と長文過ぎて、胡散臭い書き方になってきてしまったので、端折りつつ書くようにしたいと思います。

私は最近、自分の幹を持たないようにしようという意識を心掛けるようになってきました。そもそも、普通に(まっとうに、一定の努力をして)生きていくには、お金が必要ですから、どこかしらが(多少)幹にはなってきます。それはアルバイトかもしれないし、フリーランスかもしれないし、私の場合はごく普通の会社員としての活動が、誇れるほどではないが幹として存在します。

重要なことは、その幹をアイデンティティとして意識しない(枯れるならその程度のものだった)と放っておくということです。

「ゼネラリスト的で在ろうとする」とタイトルに書きましたが、私はかなり多趣味で、休みの日というものが何日あっても、それがどの程度一人であっても、全く飽きることがありません。それらの「趣味」が、どこからが趣味で、どこからが仕事なのかということをできるだけ曖昧にして、その流れの中で生活していくというのが、私の夢です。

たとえばエッセイを書き続けることがエッセイストやライターの道になるかもしれない。エンジニアとしての活動がいつか起業した時に使われるかもしれない。植物についての知識がいつか農業に携わったときに活きるかもしれない。投資家としての経験で個人投資家として生活できるようになるかもしれない。


徹底しているのはただ2つ、
「どれか一つに注力し過ぎないようにすること」
「やりながら学ぶ意識を持つこと」

これだけです。

一点目については、リスクヘッジ云々のところで記述した通りの理由です。何かに意識を向けすぎて、それがアイデンティティになってしまうことを避けるため。また、他に時間を割かなくなってしまうことを止めるためです。

二点目については、ただ種をばら撒くだけでは駄目だということです。ただ漠然と何かに取り組むだけでは、成長がありませんので、芽吹きもしません。とどのつまり何もしていない状態と変わらないのでは、リスクヘッジも何もありません。(なにより楽しくありませんし)

やるからには徹底的にやる。料理/掃除/ゲーム/植栽/スポーツ/投資/開発/エッセイ/脚本/読書、全てがトライ&エラーの繰り返しであり、中途半端にやるだけでは何の意味もありません。逆に言えば、これらはなんでもない日常の活動のひとつであり、私に限ったことではなく、植栽がペットの観察になるかもしれないし、スポーツがゴルフになるかもしれませんが、それらを淡々と楽しむだけではなく、ほんの少し襟を正して「スキル」として解釈して経験するだけで、全く違った世界が見えてきます。

否、見えてくるかもしれません。というか見えてくるんじゃないかな?と、最近思い始めたところです。


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システム開発のところに話を戻します。

システム開発においては、やはりゼネラリスト的な立場でものを考えられる人間は必要です。それはシステム企画なのかプロマネとしてなのか分かりませんが、専門的で在ろうとする意識で仕事をしている開発者各位だけでは見えない領域というのが必ずある。

逆に言えば、専門的でもあろうとしつつゼネラリスト的側面を意識しなくてはならない、ということを理解している開発者は超優秀であり、私なんぞは足元にも及ばないということになりますが、少なくとも隙間産業的に、つい見落としがちな領域であろうと思います。

私は長い間「「深い造詣」を持たないまま」システム開発に従事していることに一定のコンプレックスがありました。それと同時に、自身の趣味の多さ、視野の広さについては、言語化の難しいながらに特異性を感じていました。

今更収入の少ない世界に飛び込むほどのモチベも無く、趣味の多さは飽きっぽさの証明でもありますから(実際、集中力の低い、飽きやすい自覚があります)、どういう形で自分の人生を創っていこうと考えて悩んでいましたが、そもそも私は特定のスキルや領域、ジャンルに専ら取り組むということが全く興味が無い。

とすると、やるべきことは「幹」を育てることではなく、集中せず、分散して、大な荒れ地を耕し、多少の横串をとおしつつ、幅広く様々なところに投資していくことなんじゃないでしょうか。

リスクヘッジもしつつ、自分の幅を広げて、虎視眈々と学びを繰り返して機会を増やし続ける。目の前にある幹を大きくするよりも、苗を何度もいくつも植えこんで、うっかり大きく成長しやすい場所に植わった苗が、たまたま大木になる。その大木は決してアイデンティティではなく、ただ育っただけの大木である。私はその大木には興味も無く、開墾前の土地や、耕している途中の領域にばかり目を向ける。


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システム開発に従事する者としてのコンプレックスについて思考を進めていたら、自身のスキルセットや「仕事」という言葉の領域拡張(趣味との重なり方)、ひいては人生全体におけるゼネラリスト的で「在りたい」という自身の願望にまで思考が及びました。

ITにおいて、とある技術の専門家として在れなかった私が、実はITという枠どころか何に対しても専門家的で在りたくないと思っていたことに気づくという繋がり。哲学の大切さを再認識しました。人生は長いので、色々と悩むことは多いと思いますが、一つ大きな飛躍になったなと思っています。いい経験でした。


社会人のアイデンティティについては頻繁に取り立たされるものですが、きっと「何者」かで在ろうとする/したいことについての議論が多いだろうと思います。「何者」はラベリングが必要であることから、専門家として解釈されやすいものと想像しますが、必ずしもそうではない。

あえてゼネラリスト的で在ろうとすることの彼岸を、しばらく眺めて生きてみようと思います。

似たような悩み/コンプレックスを抱えている方がもしいらっしゃって、この記事で少しでも緩和されることがあれば、とても嬉しいです。



※記事を書いている時にたまたま目にした成田悠輔氏の発言に対する切り抜き動画で、以下のような発言がありました。言葉にインスピレーションを受けて表現したため、言葉の被っているところがあればご容赦ください。

・(自分は)できるだけバカにされたい
・選択と集中をしないでひたすら分散してみる
・アイデンティティを感じないように頑張っている

※著者が見た動画での切り抜きの為、本意でない可能性があります。出典は控えます
※上述の為、この引用部分の発言は、著者の発言として置き換えて責任を持ちます

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