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うたふ兎🐇
2023年2月28日 06:42
世の中の決まりに抵抗するのと、わざと逆をやるのとは、似ているけれど違います。逆をやるというのは決まり自体はどこかでもっともだと受け入れていて、だからそっくり逆ができるのでしょう。抵抗は貫徹できない不満を伴います。逆をやるのは偽の貫徹による酔いを伴います。
2023年2月27日 06:47
言葉を漢字のような文字のイメージでとらえると、世界の全てを文字にし尽くすことはできないと思えます。言葉を音声のイメージでとらえると、世界の全てに音声が結びつくと思えます。これが道元と空海とを比べるヒントのように思います。中国とインドとの違いかもしれません。
2023年2月26日 07:01
道元禅師の正法眼蔵を拾い読みしました。中国の禅僧の言葉を和語でつなぎながら説明しています。この言葉を聞いてこうこう思う人はまだ悟りが浅いぞ、という展開が多いです。これという正解は示されません。一生が修行中、答えは歩むこと自体、という応援歌なのでしょう。
2023年2月25日 07:09
自立して生きたいという力とその逆の力。一つのロープを引っ張り合っています。ロープの真ん中に括った赤い布は両方の力持ちの真ん中より左だったり右だったりしてたえず動きます。ロープは一人の人間です。赤い布の位置と動きは人によって違っていて、それがきっと個性です。
2023年2月24日 06:54
忘れ上手。学校では覚える練習はしても忘れる練習はしないです。体験したことを全部覚えている必要はないです。でもぼくも忘れるのが下手で、よくくよくよします。休日とは体を休めながら程よく忘れるための日なのでしょう。日曜夜には思い出してくるから困ります。
2023年2月23日 07:28
あらゆるできごとは予想通りにいかないとすれば、できごとに期待をしないで自分の信じる生き方をしてよいのでしょう。もちろん肘が外に曲がらないように世界の法則からは逃げられません。心にも法則があります。たぶん自分で歩いているつもりでも運命の背中に運ばれています。
2023年2月22日 06:48
他の人を批判する言葉を耳にするのが最近苦手になりました。自分が満足するために他人に何かさせたいという気持ちが見え隠れするからです。それは自分が生きるために必要な抵抗とは似て非なるものです。他人に要求しないで自分のなすべきことをなす人が好きです。
2023年2月21日 06:50
子どもの頃ある歴史ある町に出かけた時のことです。名物の焼き餅をぼくは全て乗り物の床に落としてしまいました。その町の名にそのイメージが付き纏うこととなりました。今日その餅はぼくの住む町でも買えることがわかりました。落としたことを忘れる時が来たと思いました。
2023年2月20日 07:00
20世紀は「豊かさかイデオロギーか」の時代とすれば21世紀は「情報か資源か」の時代かもしれません。前は豊かさを掲げた側が今は資源でなく情報を掲げます。ここに歴史の大きな示唆があると思います。ラスボスの出るステージはまだのようです。ぼくもまた歴史の当事者です。
2023年2月19日 07:23
美しく豊かで強いものを求めるのは自然なことです。たとえ自分になくてもそれらを否定しなくていいと思います。生きてゆく力になります。それゆえ生きてゆくことを曲げてまで求めるのは違うのです。それらにひざまづいてはいけないのです。いかに神々しく清らかに見えても。
2023年2月18日 07:08
古事記や万葉集を読むときに大事なのは、昔の人が非論理的だという思い込みを捨てることだと思います。意味が通らなかったり腑に落ちなかったりするのは、後世の文字起こしの問題かもしれないのです。何を伝えようとしているのか、先入観なく古人の心を尋ねるのは楽しいです。
2023年2月17日 07:06
夾竹桃が爆心地に根付いて花開くように。暴力はいっときのことで人を決定的に支配することはできません。広島の復興はこのことを世界に雄弁に語ります。市民が敗北主義にならずにさまざまな障害と戦い続けた結果です。「広島」の カープ、心ない言説に負けないで!
2023年2月16日 06:59
悼むとは悲しい顔をすることでなくて死んだ人と会話することだと思います。花も供物も会話に入る準備です。挨拶だけでもいいし、思い出を語るのでもいいし、それぞれの思うように語るのです。答えの返ってくることのない会話を悲しむだけでもきっと気持ちが通じるでしょう。
2023年2月15日 13:41
著者は感染症等の専門家として国際協力に携わる傍らで長塚節の研究を続けている碩学である。 この書物は長塚の長編小説「土」におけるオノマトペ(擬声語・擬態語)の語彙分析を通じその用例、音韻等の事例を詳細に紹介する。その分析を通じて、長塚とその作品の文学史における位置づけが読者の心象に形成されてゆく。 わたしはこの著者の実証的プロセスが、『土』における農村の描写と方法的に通底すると感じている。