あなたのまなざしが今ここに落ちている奇跡

文章を読む時、その文章の内容そのものが面白いと思ったのか、自分が元々興味があるから面白いと思ったのか、の差は大きいような気がする。

自分が興味のある内容については読みたくなるのも、面白く感じやすいのも当然だろうなと思う。言うまでもないことかもしれないが。いくら興味があっても文章があまり得意ではないなどの理由で読みづらかったり、根本的な考え方が合わなかったら面白いとは感じないだろうから、もちろんすべてではないだろうけど。

手当たり次第にスキをつけていくのだろうと考えられる人もnoteには多いが、たまたま興味のある内容を載せたからスキをくださったのだろうな、と気付く時もある。それはそれですごくありがたい。こういう内容に興味のある人が多いんだな、とわかるのも興味深い。
でも、結局それは私が書いた文章でなくてもいいということだよな、ということも同時に自覚する。たまたまその人が興味のある内容を私が書いていて、たまたまそれを見つけたというだけのことだ。

もちろん私も9割方興味のある内容を読んでいるのに過ぎず、誰が書いているか、ということよりもどれだけ正確な情報や知りたい情報を探し出せるか、ということに終始しているのは間違いないだろうと思う。文章など結局、読みやすければそれでいいのだ。

が、1割はそうではないのだ。まったく興味のなかった内容でも読んでしまうことがある。その人の視点の切り取り方が面白いとか、文章のリズムが好きだとか。要するにその人が書いているから読んでみたくなるのである。
きっかけは興味のある内容を読んだから、だと思う。興味のある内容について書かれた文章を読んでみて、独自の視点や言葉の紡ぎ方に興味を持つ。読者登録なり何なりして更新されるブログをだいたい欠かさず読んでみる。まったく興味がなかったり知らなかった内容の方が多い。それらのすべてを面白く感じるわけではないが、こういう世界や考え方もあったのか、と気が付き、知識が増えていく。その過程が面白い。

決して文章のプロである必要はないけど、やはり書くことそのものが好きなんだろうな、と感じる人が多いし、その視点や文才を買われたのだろうと知り、やはりなと頷くことも多い。ブログは長く続けていて、思考もぶれない人が多い気がする。自分が感情的でウエットな人間のせいか、わりと冷静でドライな文章の方が個人的には好きだ。

この「1割」を目指さなければいけないな、と最近とみに思う。興味のないことに目を通してもらうことはとても難しい。興味を持って下さい、と迫れば迫るほど人は逃げてしまうもの。北風と太陽である。ある程度相手に好意的でなければ、興味がなければないほどその相手を面倒に感じる。スルーしてくれる程度ならまだいいが、嫌悪感を持たれてしまうとつらいことになる。
スルーされずに読んでもらって、なおかつ面白いと思ってもらうのは、とてもとても難しいことなのである。

私はほとんどフィギュアスケートの話ばかりしているブログをこのnoteのほかに持っているので(こちら→「うさぎパイナップル」)ここではフィギュアスケートを例に挙げてみるが、たとえばフィギュアスケートにまったく興味のない人が、私の書いたものを読んで「テレビで試合を見てみた」と言ってくださったらそれは最高に幸せである。奇跡のような喜びだ。

そもそも、フィギュアスケートに興味のある人にすら読んでもらうのは難しい。毎日それなりの文章量と熱量をもって書いていても、それを毎日読んでくれるのはおそらく読者としての自分だけだろう、と諦めている。
特定の選手のことしか興味がなく、しかもその選手を褒めちぎらなければ読もうともしない、という層も少なくない。プロが直接選手に取材をして丁寧に書かれた記事すら自分の思っていた内容と違うからと難癖をつける人もいるのに、個人のブログなんてまず読まれない。強固なフィルターを自分自身にかけている人の、そのフィルターを突破してしまうほどの力を持った文章を生み出すのは、たぶん生涯に幾度もない、奇跡なのだろう。仮にその力を持っていたとしても、知られないまま埋もれていく名文が、この世に一体どれだけあるのだろうか。

だから、あなたの文章が、作品が、表現が好きだともっとちゃんと伝えた方がいいのかもしれない。無名な人はもちろんだけど、どうせたくさんファンがいるから、有名な人だから、などと思わずにファンレターなり何なり出すべきなのだろう。もちろん返事は来ないだろうけど、色々な話を聞いていると、本当にしっかりと自分の作品なり演技なり人となりなりを愛して見つめてくれたファンの言葉は、素直に褒めてくれる誰かの言葉は、どれだけ立派な人であろうと必要とされているのだな、と感じることがある。そこまで有名でない人ならなおさらだろう。

その言葉が次の作品を、展開を、人生のエネルギーを生んでいく。何かを好きだという気持ちと、素直に好きだと伝える勇気は、たぶん幸せしか生まない。
自分で自分を褒める行為は鼻につくこともあるが、本当に素晴らしいと思ったものを他者が適度に伝える行為は信用も生む。だからこそ名誉を金で買ったり、興味もないのに繋がって箔をつけたりする輩がいるのだろう。

私は「大ファンの選手が手を振ってくれたのにびっくりし過ぎて固まってしまい手を振り返せなかった」というどうしようもないチキンで(たぶん生涯後悔するんだと思う…)、何年もファンレターひとつ出せなかったスケーターも多いのだが、もっとちゃんと「ファンです、応援してます」と言えなきゃ駄目だな、と改めて感じている。スケーター以外でも同じだ。読まれないファンレターの数を増やしたとしても、きっとそれでよかったのに。

その人に運があれば、誰かがその人を見つけて、その人は自分を振り返らずに広い世界に出て行ってしまうだろう。それならそれでいいのだ。自分の愛したその才能が、もっと多くの誰かに愛されることの方がずっと大切なことだからだ。もちろん寂しさは残るけれど、仕方がない。喜びの方がずっと大きい。そうやって見送ってきた背中も、いくつかある。

文章を書くことは大好きだけど、私には人を動かす力のある文章は書けないのだろう。3年近く続けても駄目だったもの。たまに揺さぶることができたかも、と手応えを感じても、それは結果的に地雷を踏んだだけかもしれない、と気付いた時の切なさ。ある意味人の心は動かせたのだろうけど、たまたまその人の揺れ動く心が私の位置でスイッチを踏んだだけなのかもしれない。
見切りをつけなければ、という思いと、諦めきれない思いとで心は常に揺れている。

せめて、私が愛した様々の、名称や名前だけでも、誰かの心に残ったらいいと、願っている。あなたが今ここを、この記事の締めくくりを読んでくれたということは奇跡で、その奇跡を自分で確かめることができるようでできないのがつらいけど(noteのビュー数はあまりあてにならない印象が…)、奇跡は起きているのだと信じたい、そんな午後である。

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