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オリジナル連載小説『雨の奥』

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ある雨の日のお話。梅雨が終わる頃、終わります。 毎日少しずつ書いています。ぜひ読んでください。
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雨の奥[二十四]最終話

雨の奥[二十四]最終話



気づけば、闇が落ちた川沿いを歩いていた。見上げれば、半月。雨は、もう、やんでいた。

自分が二十年間父だと思ってきた人とは、血が繋がっていなかった。

自分が母としか思っていなかった人には、一人の女性としての人生があった。

家族というコミュニティ、自分が成長してきた場所の正体は、こんなにも脆くて繊細で危うかった。

ああ、もうすぐハタチになる。大人になる。

大人になったら、彼らの気持ちも

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雨の奥[二十三]

雨の奥[二十三]

父と母の、母と私の、私と父の、微妙な距離感。

小さな頃から手に取るようにわかった、家族の間に棲みつく違和感。

そんなものの答えがきっと、今の話の中にあったのだろう。

平凡な家庭での、何不自由ない生活。その裏には決してありふれてなどいない一つの物語があったのだ―などと、まるで他人事のように考える。

母は、あの時の選択を正しかったと思っているのだろうか。いや、母ではなく、「澄子」としての彼女は

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雨の奥[二十二]

「そのあと、澄子さんはコウタさんと結婚し、おなかにいた子どもも無事に生まれました。しばらくして、彼と揉めたけれどどうしても『透子』にするって譲らなかったの、と彼女はあなたを抱きながら私に教えてくれました。

それから毎年、あなたの誕生日にはあなたの写真が彼女から送られてきます。一年に一度ですが、その写真を通して私はずっとあなたの成長を見守ってきました。だから私は、今日あなたを見たときもすぐにわかっ

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雨の奥[二十一]

雨の奥[二十一]



「私は、彼女を少し見つめ、やっとのことで口を開いて言いました。

『最後に、一つだけ願いをきいてくれないか。

実は、子どもの名前考えていたんだ。

女の子なら、透子。男の子なら、透。

透き通るように美しい心を持った人になりますようにって。

よかったら、採用してくれないかな。』

『…いい名前ね。彼が認めるかわからないけれど。』

『そうか…。

子どもには、ずっと黙っておくのか。本当の

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雨の奥[二十]



いや、いくらなんでもおかしすぎないだろうか。

母の言葉に納得してしまったこの男もたいがいではあるが、それよりも母の態度に血が繋がっていながら驚く。そして、失望する。

自分勝手な決断を、子どものため、なんて言葉で飾らないでほしい。

相手の男が自分の子どもだと信じて疑わないということも、まあそういうことだから、腹が立つ。

目の前の男の肩を持つ気もないが、彼は彼なりに責任を感じて頑張ってい

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雨の奥[十九]

雨の奥[十九]

「きっと、何度も頭の中で練習したのでしょう。彼女は、粛々と言葉を編んでいきました。

彼女の言葉に一片の嘘もないことがわかるくらいには、私たち、濃い時間を過ごしてきていました。

私に言えることは何もありませんでした。

悔しかったですよ、もちろん。

本当に本当に悔しくて、あんなにも自分を嫌になったことは後にも先にもこのときくらいです。

だけどどこかで、彼女の言った言葉に納得してしまっている自

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雨の奥[十八]

雨の奥[十八]

「『コウタはね、前の会社の先輩なの。

会社がつぶれてどうにもなくなったときに、私の面倒を見てくれてたの、実は。

私にあなたがいることも彼は知っていた。だけど、それでもいいって、ずっと言ってた。

このおなかの子はね、間違いなくあなたの子。

でもね、それをコウタは知らない。自分の子だと思ってる。

だから、これを機にこっちにおいでよ、赤ちゃんできたんだからこっちおいでよって。

私、おかしいよ

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雨の奥[十七]

雨の奥[十七]



話についていけない。まさか、あの母が悪者になるストーリーだとは思わなかった。

「彼女からの連絡はなく眠れない夜を過ごしながらも、退院の日が来て私は退院しました。およそ、1週間と少しぶりの帰宅だったと思います。

家のドアを開けると、いつかのあの日のように、澄子さんがぽつんと座っていました。澄子さんの物がなくなり、がらんとしてしまった部屋で。

彼女は、私がこの日この時間にこの部屋のドアを開

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雨の奥[十六]

雨の奥[十六]

「コミュニケーションは、相手とコンテクストを共有するからこそ成り立つ。どこかで聞いたことはあったんですが、このときほどそれを実感したことはありません。私の用意していたコンテクストにおさまり切らなかった澄子さんの言葉は、私たちが編んできたコミュニケーションをいとも簡単に破りました。

とりあえず愛想笑いをしてみた私に向けられた澄子さんの表情を読み解くことすら、もう私にはできませんでした。

『私ね、

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雨の奥[十五]

雨の奥[十五]

「あれは…夏期講習のバイトで忙しかった夏も終わり、ようやく外が涼しくなってきた頃でしたかね、私は、研究室で倒れました。

やっぱり少し無理をしすぎていたようです、あの頃ほとんど寝ていませんでしたから。

連絡を受け、だいぶ大きくなったおなかを抱えて病室に駆け込んできた澄子さんの顔も、なんだかものすごくものすごく久しぶりに見たような気がしました。

でも彼女の姿を認めた瞬間、心からほっとして落ち着い

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雨の奥[十四]

雨の奥[十四]



長い間、黙っていた気がする。男は私が何か言うのを待っていたのかもしれない。

それでも、脳内で思考を攪拌し、何一つ言葉にはしない私をちらと見て、彼は口を開いた。

「それからというもの、私はこれまで以上に必死に毎日を生きるようになりました。将来のことを考えると、あと一年頑張ってきちんと院を出た方がいい。そう思ったので、研究に全力を注ぎながら、バイトにも没頭しました。

今考えると、本当によく

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雨の奥[十三]



…きっと、これが私なのだろう。この男が言うことが本当なのであれば。

涙の意味はわからないと言われても、泣くという行為が存在したという事実が私を苦しめる。

だってそれはつまり、自分が生まれて初めてしたことが、人を泣かせることだったということだから。いや、この時点ではまだ生まれてはいないけれど。そして、私は他にどうすることもできなかったのだけれど。

この先、どんな話が待ち受けているのだろう

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雨の奥[十二]

「その言葉を聞き、澄子さんと目を合わせた瞬間、私の目から涙が溢れ出しました。

あのときなんで泣いたのかは、自分のことなのに今でもわかりません。嬉しかったのか、不安だったのか、驚いたのか、情けなかったのか―。

うれし涙やくやし涙、なんて言葉がありますけど、本当に心が震えて涙が出るときって、その涙の種類を区別することなんかできないと思うんです。

澄子さんも私も、ただ涙腺を緩め、心の奥底の振動に合

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雨の奥[十一]



男は、柔らかな一重瞼を細め、遠くの思い出を手繰っている。目の前の男は今、目の前にはいない。

しばらくすると、話が始まった。

「でも、私がもうあと一年で院を出るという年の三月、突然澄子さんの働いていたメーカーがつぶれたんです。もともと規模は小さめでしたが、業界では気鋭のメーカーだと聞いていたので、まさかと思いましたよ。それが、突如破綻してしまったらしく。澄子さんは、念願かなって手に入れた大

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