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愛されたいなんて

らしくないタイトルをつけたなって
心の中では思っているが
今残しておきたいことだから
書き記しておこうと思う。

これは、後輩と将来の話をしていて
「何者かにはなりたい。」
という言葉が出てきた時の話である。

”何者か”っていうのは
なんとなく言わんとすることはわかる。

要するに、やりたいことは
まだ見つかっていませんが
自分の得意で飯を食っていきたい
≒自分しかできないことで!
ってことだろうな
ってその時は解釈をした。

だけど、僕はこの解釈に
なんとなく違和感を覚えていた。
たぶん方向性としては合っているのだと思う。

けど、多分この解釈は不十分だ。
いや、今の時代においては不十分なんだろうと。

そのモヤモヤの正体を最近知ることになる。
その正体は、無条件で愛されるという
承認欲求が加わると
今っぽい解釈だなって思った。

なので、簡単に言うと
「大谷のように無条件に愛されて、認められて、
自分しかできないことで生きていきたい」
と言うのが僕にはしっくりきた。

けど、こんなことは大抵の人間が
できずに志半ばで倒れていくだろう。

だけど、こう思っている人は少なくない。
実際、こんな斜め上から話している自分でさえ
これは思っている時はあったが、
実際役職などを持っていくと
どんどん変わっていった。

愛されるより、愛するほうが
先だろうと気付いて、
認められるよりも、認めるほうが
先であることに気付いて、
自分しかできないことを探すより、
自分ができることを全力でしていって、
自分しかできないことまでに昇華させていった。

というかそう言う風に考えられるようになった。

そして、顔も知らない人に
そう思われることよりも
目に見える人を大切にすることに
変わっていった。

そこで、また気付いてしまった。
この欲求は、家族が欲しいと言う欲求が、
現代風にフィットしよう
と変に淘汰されて、
到達したものだと言うことに。

多分、そう思われたいと言うのは
昔からあったけど、
今の時代は色々と繋がり過ぎて、
対象者が目に見える人達から、
目に見えない人達を含んで
広くなり過ぎていると思った。

むしろ、会社の部下達にさえ
それをすることができなくなった。

またの機会には話すが、
それをしたことによって
僕は心を壊した。

なんでこんなリターンのないことを
やってんだろって
途中で気付いたが、
それが仕事だと思ってやればやるほど
心が壊れていった。

そう。
十数人でも、多分できない。

だから、無条件にそれらを与えられる対象者は
絞らなくてはいけない。
その人数単位が、家族なんだろう
ってなんとなく気付いた。

最後に、自分が愛したいと思う人以外から
愛されなくくても生きていける。

無条件に、
誰からも愛されたいなんて
心が持たないわ!
って言う話でした。

ほなまた!

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