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【致命的錯覚】 文章を書くのが苦手、という病。


これはかつて、

父が私に言ってくれた言葉だ。


だから私は学生時代、

体育の成績は常に2だったが、

美術は常に5だった。


サッカーの授業なんてあろうものなら

キーパーにしてもらって、

ゴールの横で棒立ち待機。

友人も全てを察して、


「みんな! 大河のところに絶対にボールを行かせるなよ!!!」



我ながら無茶苦茶なことをやっていたと思う。


このやる気のなさを教師に咎められても、


「体育は捨ててるので、 成績はお好きにどうぞ」



しかも座学はしっかりやっているという、

生意気にもほどがある中学生だった。




自分の得意なこと、

好きなことにこそ時間と労力を割け、

後悔だけはするな。


これが我が家の教育方針だった。


そして、

この言葉には続きがあるのだが、

それは後ほど。




あなたは文章を書くのが得意だろうか?


あるいは、好きだろうか?


この質問を聞いて

いま心の中で


「全然、 超苦手…」



こう思ったあなたに、

さらにもう一つ質問がある。


“どんな文章” が苦手だろうか?


恐らく、

多くの日本人が生まれて初めて書くであろう文章は、


似顔絵に添える[父母へのメッセージ]

あるいは、

小学校の国語の授業で書く[作文]

あるいは、

夏休みのラスボス[読書感想文]


この辺りだろう。


【来い…!!!】


他にも人生を振り返ってみると、


・ラブレター

・評論文

・メールやLINEのやりとり

・自己PR文

・反省文

・レポート

・企画書

・業務に関する書面

・結婚式の祝辞

・葬式の弔辞

・ブログ

・電子書籍(コンテンツ)

・その他


などなど、

私たちは人生の中で、

“さまざまな種類の文章” に触れていることに気が付く。

そして、

必要な場面も目的も違うので、

当然ながらそれぞれ、

“求められる文章の質” も違う。



お気づきだろうか?



そう、[文章]と一言でいっても、


“文章” には様々な種類と特徴があるのだ。



私は普段、

noteの他にも、

様々なデジタルコンテンツを執筆しているのだが、

自分のコンテンツを人に勧める際、

根拠のない謎の自信はあったものの、

やはり根拠がないことに

人並みに葛藤していたことが一時期あった。


【自信はあるけど、何を根拠にしてるんだろう?】



そんな杞憂を粉砕する、

とある “note” と出会うことになる。



その記事によれば、

いわゆるライターが書く文章も


・小説家ライティング

・メディアライティング

・評論ライティング

・セールスライティング

・コンテンツライティング


以上、5つに分類できるというではないか。



私が書いている文章は一体 “どれ” なんだろう?


たしかに、今まで不思議に思っていた。


ウェブ上には多くの「ライター」と名乗る人々がいるわけだが、

そんな方々の文章を読む度に、


「ん? これがライター…?」


「す、すげぇ…これが本職のライターか…!」


と、バラバラな印象を感じることが多かったからだ。



個々のキャリアや能力の違いもあるだろう。


でも、

それ以前に何かが違う気がする…。

この違和感の正体こそが、


文章の “種類の違い” だったのだ。



個々の文章がそれぞれ優れているかどうか以前に

そもそも “文章の種類” が違う。


何なら、

私が “求めている文章の種類” も違うのだから、

さまざまなライターの文章に対して

違和感を覚えるのも当然だったのだ。



以前の私は正直、

セールスライティングとコンテンツライティングを混同しており、

もっと言うと、

小説家ライティングという概念を持ち合わせていなかった。



“文章を書く” という行為を

[ライティング]という大きな枠組みで捉え過ぎてしまっていたのだ。


そのせいで私は、


“自分の強み” を見落としてしまっていたのである。


【自分ひとりだとなかなか気付けない】


[ライティング]という大きな枠組みで捉えてしまうと、

ただ漠然と、


「自分なんてまだまだだし、自慢できるだけの根拠としては弱い気が…」


と、逃げ腰になってしまいがちだ。


しかし、


先の5つの分類をもとに細分化してみると、


「おや? 自分は小説家ライティングの能力でいうと、界隈の中では優れているんじゃないか?」


「ここに他の文章の要素も掛け合わせることができれば、これは立派な武器になるじゃないか…?!」


こうやって私の場合、

自分の強みが徐々に明らかとなり、

こんなエッセイ調の文章を次々に生み出すことができるようになった経緯がある。


【大河さん、覚醒】


さらに、

この生み出した “我が子たち” が更なる評価を生み、


「大河さんの文章術・文章に対する考察はライターのそれではなく「小説家」や「脚本家」のそれです。あまりにも独創的で美しい。」


「このボリュームをストレスなく読み続けられるのはまさにプロの所業。」


「大河さんの文章は異質。彼にしか書けない文章です。誰もマネができません。一度読んで見れば違いが歴然と分かります。」


こんなお声を頂くようにもなり、

晴れて、


「これが私の強みです!」


と、胸を張って言える “根拠のある自信” を手に入れることができたのだ。


【ほんの些細なキッカケ】


だから実は、


あなたの文章に対する苦手意識も、

種類を細分化していくことで、


「あれ? 自分はこの文章は別に苦手じゃないかも?」


「そっか、今まで苦手に感じていたのはこの文章のことだったんだ!」


「むしろ、自分はこの文章は得意じゃん!強みじゃん!」


という重大な事実に気づくことできるかもしれない。



その上で、


「でも、別にこの文章は書けなくてもいいや」


「よし、だったら、こっちの文章も書けるようになりたいから、そのためには小説やエッセイを読んで勉強しよう!」


こんな新たな可能性と遭遇できるかもしれない。



「自分は文章が苦手なんだ…」


と、“勘違い” して、


自分の可能性をバッサリ切り捨ててしまうのは、あまりに勿体ない。


人生において必ずしも、


“全ての文章” をマスターする必要があるわけではないのだから。



兎角、


日本の教育は “平均点” を取らせることに躍起で、

凹んでいる部分を補おうとする傾向がいまだ強く、

そんな “呪い” に縛られている日本人が実に多い。


ちなみに私はこれを、


“五角形の呪い” と呼んでいる。


【優等生におなりなさーい】


と、ここで、

冒頭の父の言葉に戻る。


「綺麗な五角形になんて、ならなくていいんだよ」



この言葉の続き、

それは、



そんなことが言える

あんたが一番かっこいいよ、

と、

大人になった今になって思う。


そんな大事なことを思い出すキッカケを、

自分の強みを気づかせてくれるキッカケを与えてくれた、

運命のnoteに感謝。


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