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令和解毒時代 《令和消毒時代(5)》

消毒時代だとか感染時代だとか、そういうのが続いてしまっているので、ここですこしだけ箸休めを!

夏のビール!今日の写真は夏の空とビールです。

先日、真夏の炎天下の中に外のお掃除などをしていて、隣家の範囲もついでに掃除していたら、隣人から御礼としてビールをいただきました。もう長い期間、お酒は飲んでいなかったのですが、せっかくのご好意なので、本日いただいております。少しの、そんな時間を自分に与えようと思ったのです。

個人的には、お酒を最後に味わう儀式という気持ちで珍しく飲むことにしました。写真にあるグラスは、ビールが泡立ちがよくなるっていうグラスで、きめ細やかな泡を味わうためのグラスです。もう3年くらい前になるでしょうか、父のために購入してひとつは父の元にあります。一回だけ一緒に味わって、あれからずっと自宅の食器棚に眠っていたのですが、確かにこのグラスで飲むビールの泡は格別で、なんとなく最後にもう一回は味わいたいなって思っていたのです。

最後とは言っても、なんだかんだの付き合いで今後も飲む可能性はないわけではありませんが、個人としてはもうお酒は特に必要はないと思っています。数年ぶりに、そして最後にこのグラスで泡を味わう日に決めました。好きな音楽を聴きながら束の間の、そんな時間です。

お酒だけではなく、タバコも辞めてからもう何年も経ち、いま思い返しても、もう戻らないことだろうとしみじみと感じています。まぁ、今日はそんな感じでお酒の時間にかこつけて、ダラダラと書いてみたいと、これもなんていうか、あの頃の過去の自分を“味わう”時間。そして、なんとなく離れてしまったものや時間に対しての『味わってさよならする』そんな感じの儀式のつもりです。

たぶんアルコールって人体的にはあまり必要ないと思っているんです。確かに日本の神事などでも御神酒としてお酒は必須なのですが、実はそれって『清め』なんですよね。お酒とは異なりますが、本来のアルコールの本分って医療でも消毒として使用しますからね。三々九度やああいった儀式も、やっぱり『清め』なんだと思うんです。清めとして、人体にも取り込む。それが正しい使い方なのかなって。

そういった例えば『塩』や『酒』というものとはなんなのかっていう話は、実はもうちょっと知っていることはあるのですが、今日のいまは、そういう話ではないので、なんていうか、これまでの地球人や日本人として愉しむとか楽しむとか、嗜むとか、そういった感覚を、最後に味わっておこうという思いなんです。だから、今日はあくまでも現代までの地球人としての話だけにしたい気分です。


そして飲み終えて

前半の内容を書いた時点、つまりはほぼ飲み終えてから約2時間が経過して今に至ります。途中、友人と電話もあり楽しい時間を送ることができました。そしていま。やはり普段お酒を飲んでいないので、少量でも少し酔った感覚を味わえるものですね。多少の“疲れ”のような感覚も久々に味わえました。以上、これにてお酒に感謝して終えます。

過去にはお酒の良し悪しも充分に知ったと思える半生がありました。他人には決して言えないような時期もありました。感想として、やはりコミュニケーションとしては悪くないツールだとは思います。お酒の席や関係だからこそ分かり合えたり、楽しいこともより楽しく共有しあえることはとても悪くないと思いました。だけれど、悪いこともこれまたよく知っています。ほどほどに嗜むのなら“悪くはない”ですよね。

この“悪くはない”っていう感覚ですが、そういった感覚もお酒を飲まない方には、わかってはもらえないものです。愛煙家と嫌煙家の諍いは絶対に和解や終戦はありえないだろうと思ったりしますが、この謂わば「愛酒家」と「嫌酒家」や「下戸の方」などの意見や感覚も同じに思えますよね。

だけど、確かに利点も多くあることは事実だとは思えます。そしてもっと確かなのは悪い効果も必ず多分にあるのですよね。お酒を知る人と知らない人、知りたくもない人とは、たぶん永久に平行線なんだよなって、結論として思っています。何事にも利点は見いだすことは可能ではあるはずなんですけどね。

しかし、一番には、記憶をなくすだとか、平常では起こらないことが起きるとか、自分も相手も平常ではない感覚になってしまうっていう事実。いまとなっては、謂わば、ある一定の時間を『無意識』な自分になってしまうということに、いささか恐怖心を覚えます。よくよく考えてみたら、これって怖いですよね。

自分が確実に存在しているのに、どこか自分じゃないとか、覚えていないだとか、そういった効果を真剣に捉え考えると、これって確かに恐ろしいことだと、人間として生きていて思う現在の自分がいますし、よくよく思えば、普通にコミュニケーションはお酒なしで充分じゃないか?って、思えてしまう現在の私になったんですよね。

そう、必要ないんです。少なからず自分という認識が乱れるようなものなのですからね。あぁ、だけれど、確かに各料理に合うっていうお酒がありますよね。どうでしょう。そういうのも、もしかしたらある意味『錯覚』なのかもしれませんね。そう、きっと錯覚なんだっていう真実って、もっともっとこの世界にはあるのだと思えます。

別に、みんなそれぞれ自由でいいとは思いますが、私はもう必要ないなぁという感覚を味わえました。ありがとうございます。さて、今日はこんな感じのを書きたかったのです。


夏の写真はコントラスト強めで

今日の画像は加工してあるんですが、もちろん用途による話ではありますが、青空や空気感や、夏の画像って“コントラスト”が強めのほうが、なんか「夏だなぁ」って感じる私がいます。

かつてデザインや画像処理や編集加工を職業としてもやっていましたので、どうしてもそういう感覚がいまでも強く残っています。だけどもしかするとそういうのは80年代くらいに身についた感覚なのかもしれないなぁって思っています。

そうですね。もしかするとそういう感覚も同じように『錯覚』なのかもしれないですよね。イメージとは時に人間自体を支配しちゃうことも多いですから、夏って思い込んでいる共通の感覚の錯覚があるかもしれない。まぁ、それもまた人間って面白いなぁって思います。

昨今の日本は、四季も季節毎の天候なども、一昔前とはだいぶ変化してきましたよね。『いまの夏は、あの頃の夏ではない』そういう感覚が自分の中に感じています。そして現在は新型コロナウイルスなどの感染リスク対策によって、多くの大人も子供も、昔ながらの夏を、きっと味わえてはいないことでしょう。

少年だった頃のあの夏休み。いまでも青い空と白い雲が胸の中にありますが、これからの日本の夏を生きる子供たちは、どんな夏を思い出のイメージにしていくことだろうって、結構真剣に思っています。まぁ、そういった環境としての、謂わば地球規模での変化って、受け入れるしかないものですけどね。

外出をしないから、イコール“宿題”や“勉強”を多くするのではなくて、たとえ屋内でも、ちゃんと夏を全身で味わってほしいものだなぁって、いまを生きる子供に願っている自分がいます。別にお酒のことではないですが、かき氷の不健康な鮮やかなシロップだって、いつまで味わうことができるか未来はわからないですからね。

それにしても、夏の労働のあとに“ビール”っていう、なぜか古き良い日本の固定的な感覚。そういう感覚のままに、私は飲まない人なのに、大人の男の人にはビールだと思い込んで贈ってくれた昭和時代のようなそんな認識。よく自分よりも高齢者とお酒を交わすこともありましたが、「とりあえずビール」や「男は黙って…ビール」とか、そういう固定された感覚。それもまた“悪くない”よなっていう気持ちで、なんかその真心がとってもありがたかったです。

夏はビールという、これもまた錯覚かもしれませんよね。まぁ、今日はそんないかにも雑談でした。皆様もよい夏をお過ごしくださいませ。ありがとうございました。…っていうか、なんかつまんない文章ですね。やっぱりダラダラ書くとこういうものですね。ここからやり直そうと思います。


夏はビール?

お酒を飲む人は「酒は百薬の長」とか、タバコを吸う人はたまに「インディアンの話」などを取り上げたりしますが、かつてのインディアンが吸っていた煙は、現在の化学薬品の混入したタバコとは全くの別物ですし、もっと自然物であって、ある意味で神聖なものでしたよね。たぶん有害的な要素や依存性などもあまりなかったのではないでしょうか。

先述のようにそんな愛好家とそれを嫌ったりする人の間は永久的に平行線で和解とか双方を理解することは難しいです。「百害あって一利なし」と言われてしまうお酒やタバコへの評価は、これもまた現代では一般的な価値観ですし、近年はどんどん辞める人や呑まない人や吸わない人、最初から興味がないとか、誘われるだけでも不快になる人もどんどん増えてきている兆候にあるそうです。

特に世代差に表れている気もしますよね。先述の『夏はビール』とか『男はビール』とか『とりあえずビール』っていう感覚が、いまとなってはとても昭和的とも言えますが、かなり世代間としての固定意識があると私自身そう思っています。いまだにアニメ『サザエさん』の波平さんとマスオさんは、いっつも晩酌していますし、テレビCMでは『プハーッ!うまい!』っていう画をたくさん継承しています。

そういった、お父さんの夏はビールを飲んで野球観戦的な画は、もはや日本の食卓からは既に消えて久しい現実だと思えます。しかしそんな中でも変化はちゃんとあって、そんなCMに起用されるタレントには、たぶん“男性”だけではなく、必ず“女性”を起用していることです。『男は黙ってサッポロビール』なんて言ってた時代から比較すると、確実に時代は変化したのです。

それももちろん広告としての“イメージ戦略”なだけで、現実は本当にそこまでビールをプハーッてゴクゴク飲んでいる女性が、どれほどいるのかは不明ですし、きっとその点においてもきっと世代差は確実にあるのではないかと思えますが、そんな謂わば“常識化”や“ステイタス化”されたイメージというのは、世の中に溢れていて、誰もがそんな“普通”という観念を受け入れて過ごしているのが、これまでの社会や世界だったと言っても過言ではないと思われます。


夏のビールもわるくない

この『わるくない』という言葉で言い表したかったのは、つまりは『どんなものにでも別の一面がある』または『よくないとされるものにでもよい反面は必ずある』そして『よいとされるものにでもよくない一面は必ずある』というようなことを表したかったのです。

まぁ、はじめは別にただビールの話でダラダラとしたブログを書きたかっただけなのですが、徐々に、そんな気持ちになってきて、この『悪くない』っていう意味合いの話に流れてしまいました。

なにが言いたいのかというと、つまりはたぶん、この世界や人生に起こるすべては『思い方次第ですべては“悪くない”』っていうことを、私自身は言いたいのだと感じています。ただ、久しぶりの少量のビールなどでとりとめのない文章になってしまったわけですね。

そこんところをもっと寛容に!っていうのも多様性というスローガンの意味のひとつです。しかし、どうしても現在の世界を見ると、そんな多様性と言う言葉が広まるにつれて、なぜか比例するように人々の意識や価値観は偏っていくのを感じることが多いです。ジェンダーや人種などに対してもそうですし、どうしても双極的に対立が生まれていて、どちらもが相手側に『認めろ!』と『認めなければ“悪”』だとかっていうぶつかり合いに時代は向かってしまったのではないかと、多様性を履き違えた人類文明の末期症状にも感じる昨今です。

そんな中でも企業CMや今回の東京オリンピック開会式などを見ると、どうも日本はまさに『多様性』というものを、最も履き違えているのではないかと私は感じています。あまり民族紛争や人種的な摩擦などがなかった平和的な国でもあったためだとは思いますが、どうも、そういった謂わば『違い』に関して、日本人は『表面上のあり方をすり替えればいい』という感じの、つまりは『良いことをしている』という意識でいるのではないかと感じるのです。

なにがただしいとか間違っているではなくて『悪くない』。という意識が、なんか相応しいんだよなぁって、漠然すぎますが、そう感じるわけです。なんか話が別の方向に発展しかかってしまいそうですが、本分の『ビール』に話を戻します。


当たり前を見直す時代

私はお酒はもう不要っていうことを書いていますが、これもまたあくまでも個人的な話で、各々が好きなようにすればいいのであって、おすすめしているわけではないので、別に意見や異論をぶつけたり、当人も知らない場所などで、いちいち他人のことに反論をつぶやいたりしないでくださいね。みんなそれぞれでいい。それがそうならそれで“わるくない”のですから。

だけど、ここであえて述べたく思っているのは『当たり前を見直してみてもいいんじゃない』っていうことです。そう“わるくない”と直訳されるフランス語の『pas mal』は、日本語的に置き換えた活用ならば、もうひとつ“いいんじゃない”っていう意味にもなると思います。

いまでも人口の半分以上を占めるであろう昭和生まれあたりの方は、まだまだきっと『夏はビール』という共通認識の中に生きている人が多いと予測します。人が集まればなぜかお酒を飲むし、なぜか大半がビールなんですよね。そんな感覚がまた面白いなぁ、悪くないなぁって見ている私なのですが、代表的にお酒やタバコを例にあげていますが、例えば、その他には、お肉とかミネラルウォーターとかお菓子とかコーヒーだとかなんでも当てはまります。

それこそ飲食の話だけではなくて、なぜ一日に3食たべるのか?とか、どうして北枕はだめなのか?とか、本当に肉や魚や野菜とかなんでも全部を食べないと健康で大きくなれないのか?勉強できないのか?とか、なんで書類を発行するためにまた書類が必要で何人もの判子を押さねばならないのか?とか、そういうすべての“わるくない”事柄に対しても、それが本当に正しかったり、また本当に必要なのだろうか?ということを見直してみても“いいんじゃない”って思える時代だと感じるのです。

戦術の『消毒革命の話』で、ウイルス対策のために消毒を強化したことによって風邪すらひかなくなったということを書きましたが、それと同じように、案外気がついていないのではないかって思うんです。なにがって、普段から日常的に当たり前のように行なっている数々の物事の中に、もしかしたら『不要なもの』が混ざっていたり、『間違った使い方』をしているものなどがあるんじゃないかってことです。


不要不急の再認識と再構築

新型コロナウイルス対策として『不要不急』という言葉が多く耳にすることになった今、先の『働き方改革』などもそうですが、通例や日常として謂わば“平常”として捉えてしまっている数々の事柄が、きっと我々の人生や社会の仕組みや生活の中に、もちろん時代性や地域性などとともに、本当は溢れているのではないかということを、少し考えて見直してみる機会が現在の世界には多くあるのだと感じています。

人間ですから、なにかの作用に対して反射的や刹那的な欲求などとして、それこそお酒を求めたりってことはあると思います。それもまた今を乗り切ったりする手段のひとつなのですよね。そしてつまりは人間は、改善を求めながらも、もしかすると常に “平常” という『そこに留まる“安心”』に無意識に手をのばしてしまう特徴があります。しかし、それって本当に“必要”なのかどうか。そういうのを見直すということです。

多くの人々が、いま現状にあるマスク着用や自粛的なウイルス対策に対して『はやく平常に戻りたい』という認識をしていることは理解に及ぶものですが、例えば飲食店の経営の自粛に対して、現在の困難を作り出しているのは、本当にウイルス蔓延ということが理由なのかって、どこかで考えてしまうんです。

その苦境に対して、政府が要請をしたんだから補償として補助金を支援しろというのも、確かに国家形成として正しくもあるのはわかりますが、本当の解決にはならないと思うのです。そこで改善をするのなら、一時的な支援金も有効ですが、本当の逼迫した原因にあるのは、実は突き詰めていくと、もしかしたら現代の社会構造の基盤にも値する『経済の仕組み』や金融システムや現代の資本主義自体の構造にこそ、原因があるのだと思える私がいます。

実は、いまが異例だとか異常なのではなく、そもそも有事でも災害などでも、そういった自体に対して、本当に人間が生きていくために、実は現状の世界の構造が、つまりは『適していない』のではないかということです。まるで被害者のように「このままではお店がつぶれちゃう」とか、そういう意識にほとんどの人間がなっていますが、本当の立ち行かなくなっている原因は、別のところにあるかもしれない。

例えば『晴れの日が続けば繁盛するけど、雨が降ったから経営破綻になった』と言っている経営者がいたのならどうでしょう。たぶんほとんどの人は『それって別に雨が原因じゃなくて、雨も風も雪も雷だってこの世界はあるのだから、それに備えてないあなたが原因なんじゃない』って、思うとおもうのです。

そうして、何百年とか千年とか人間の社会は、常に変化してきたのですから。その中には数々の商売をはじめ『その当時は最先端で常識だと思っていたもの』が、長い歴史の中で絶えたり、また新たな常識に生まれ変わったりと、ずっと進んでいるのです。ちょっと数百年前なんかは電話も車もインターネットだって無くて、新たな環境に適応できない産業や商業は、自然に消えていきました。

それがこの世界の大前提なのに、『ウイルス』が吹き荒れたからうちの店は潰れたから、政府のせいだとかっていう、その思考回路自体が、この世界にあって、そもそも不適合なのではないでしょうか。流転する世に存在して、いつだってそうしてすべては一過性として、社会も商業もずっと変わってなどいないのです。


新時代を受け入れる

なんか話がぜんぜん『ビール』じゃないですよね(笑)とりとめもないというか、別の話になってしまうので、この辺でこの話は終わりにします。

言いたかったのは、お酒でもタバコでもお肉でも、それこそ人種や性別やお金や人生や社会という概念でも、本当は思い込んでいるだけで、常識だと錯覚したまま何世紀も人類はずっととどまったまま、そこから先へ進むことを、どこかで拒んでいるのかもしれないですよね。

ニュースなどで繁華街などで、居酒屋がダメなら路上でお酒を飲もう!とかっていう、まぁそれも自由というものなのかもしれませんが、私はすこし懐疑的に見ています。『本当にみんなそんなにお酒が飲みたいの?本当にいま必要なの?』って思ってしまうんです。本当に多くの人はお酒を飲まなければストレスが溜まるような生物なのでしょうか。なんとなくですが、『“おわづけ”を主人から言われたから、余計にもっと欲しくなった』みたいな人も多いのではないでしょうか。

本テーマとしては、別に『お酒をやめよう』という話では全くありません。しかしながら、そういった個人よりももっと大元の“あたりまえ”っていう部分で、どこからかずっと続けている物事の中には、実は『不要不急』な事物が多く隠れているのではないかってことに気がつく、大きな局面に、いまの人類は立っているのではないかと感じるという話です。

もしかしたら既に新しい新世界にいるのにもかかわらず、まるで夢から醒めることを拒否しているかのように、ただ昨日と同じことを繰り返して生きているようなものかもしれません。だって、一昔前はどこの職場でもタバコの煙で真っ白にモクモクした室内で働いていた時代があったのですから。ましてや障害や鬱病なども根性論で片付けられ、ランドセルも黒と赤だけで、なにが楽しいのか扇子を持って夜な夜な踊ったり、それこそただ能力のある人を魔女呼ばわりして火あぶりにしたりだとか、どれもこれもほんちょっと前の“平常”なんです。

それこそそうして数々の国家や文明は滅んではまたそこに新しい文明が生まれてえお繰り返しているわけです。振り返れば“古い”とか“未開”だとか“時代錯誤”だとか皆思うことでしょうけれど、今現在の我々だって、いつかはそう言われるわけです。火山の噴火によって滅んだ都市もありましたが、まさか『補償しろ』とか『お金くれればこの家置いて溶岩から逃げてもいいよ』とか、そんなこと思ってはいなかったのではないかなって予想します。

そういうことが言えるようになった現代は、考えようによってはとても“わるくない”ほどの、きっと“豊かさ”を手にいれた時代と思う人もきっと多いことでしょう。その豊かさをどう扱うのかということ自体を見直すのも、きっと“わるくない”はずです。もしかしたら『本当はぜんぜん豊かじゃなかった』とか気がつくかもしれないですよね。

かつては水銀を薬として飲んでいたっていう時代もありましたが、お酒だって、ちょっとこの先の未来では『昔はお酒という毒を人間は飲んでいたんだよ』とか、ちょっと前までは子供は幼い頃から学校というところに箱詰めになって勉強をインストールされて、大人はわざわざ会社っていう場所まで毎日通って箱詰めで働いていたんだって…』とかって驚かれる世界になっているかもしれません。

新時代を受け入れる。現実の本質を見極める。そしていま目の前にある世界をもう一度見直してみる。『見直す』というのはなにもいまのSNSとかの方々のような『否定する』だとか『異議を唱える』だとか、それこそ『対立する』とか『論破する』だとか、そういうことではありません。昨今では過去にまで遡って批判したり提訴したりなども多いですが、過去は過去の現実として認め、受け入れてこそ、明日に活きるはずです。


La détox c’est pas mal.

…って、話が尽きません(笑)ここ最近のテーマとして『令和消毒時代』にこじつけるのであれば、そういったそれぞれの慣れ親しんでもはや気がつかない、実は『毒』だったっていうような物事や思考などを、デトックスとして解毒したり消毒したり、そういう変化に柔軟に対応することが、いま現在の地球では適した時点なのではないかっていう話です。

しかしまぁ、昭和や平成の頃のみんなで集まってお酒を飲んだりしていた頃も、それはそれで“わるくない”思い出ですし、とても楽しいことがたくさんありました。いやぁ、これはこれでいい機会をいただいたと思っています。おかげさまでビールをいただいて、なんていうか未来的に、『あぁ、地球では夏にビールを飲んでいたよなぁ。懐かしいなぁ。』という感じの気持ちになりました。というお話でした。

夏のビールもわるくない。デトックスもわるくない。そのくらいがちょうどいい。

20210730




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