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幸福論は掴めない。それは「幸せな感じ」というクオリア(感覚)でしかない。

今まで幸福論について考えを深めてきた中で、辿ってきた軌跡について話したいと思います。実はこのテーマはそのまま、Noteで発信してきたことのまとめなんですよね。

ということで、

今まで幸せについて考えてきた中で
まず初めにこれだ!と思ったのは


軌跡①︰幸福に還元される要素がある

「幸せを感じる」ための要素は、

  1. 人との会話と信頼関係, 相手に何かしてあげること

  2. 食事や睡眠, 運動, 休憩に気を使って, 気分爽やかに元気でいられる状態

  3. 毎日小さなことからコツコツ達成感を感じること, タスク箇条書き&doで充実感を

  4. 自分が好きなことや, 趣味, 仕事, 作業, 食事, 息抜きなど, 何かを楽しむこと

  5. (例えば家族との時間を大事にするために週末は家族と過ごすなど)自分の大事だと思ってることを大事にすること

で、これらが幸せに繋がる。


そして、「①こそが幸福だ」という結論は納得できないと感じ、より妥当だと思ったのが②です。


軌跡②︰幸福は気分・感情でしかない

幸せというのは気分・感情でしかない。
つまり、「幸せ」という感情が生まれることこそが幸福という状態。

樺沢紫苑さん(精神科医・作家)によると、セロトニン・オキシトシン・ドーパミンという神経伝達物質がそれぞれ穏やか・安心・充実感/達成感を作り出すらしい。そのためには朝散歩や会話、目標達成をすること。

という話だったが、感情が生まれるプロセスは複雑で、単純なモデルでは語れないものだと感じたし、果たして感情って何なんだ?類型化された「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「辛い」みたいな感情を表す言葉では私たちの感覚は表現しきれないのではないかなと思ってきた。

複雑な私たちの感覚が生まれるとき、物理的・化学的・生物的に私たちの脳や身体、そして外部環境などがそれぞれ変化を起こしているが、それはその人の思考であるとか行動、意思、感じ方など色々なことが影響して起こること。幸せという感覚も決して単純なものには還元できないし、100人いたら100人にとって違う幸せがあり、その1人1人にとっても多種多様な幸せの感じる条件や幸せの形があって、やはり幸せは説明しきれない。


主観的体験としての感覚(クオリア)

Daniel Dennett はクオリアの要因として4つの特性を示した。 これによるとクオリアはつぎの4性質を備える。

INEFFABLE, 言葉で表せない - 他者と伝達できない。その体験そのもの以外の何物によっても捉えられない。
INTRINSIC, 内在的である - 相対的とか相関的なものではない。その体験自体とは別なこととの関係に依存しない。
PRIVATE, 本人にしかわからない - クオリアについて人間相互で系統的に比較することはできない。
directly or immediately apprehensible by consciousness, 知覚によって直接ないし即座に捉えられる - クオリアを体験することは、クオリアを体験する者を知り、なおかつそのクオリアについて知るべきすべてを知ることである。
クオリアがどういったものかであると定義するかには様々な考え方があるが、おおよそ次にあげるような性質があるものとして議論される。

言語化不可能(英: ineffable)
体験される質感そのものを言語化して伝えることは困難であるとされる。例えば生まれつきの色盲の人に「赤い」というのがどういうことか、「青い」というのがどういうことかを伝えようにも、言語化して質感そのものを伝えることには困難をともなう。質感そのものを言語として概念化しがたいことは、質感が言語という情報と直接的な因果関係がない(英: no conceptual)ものだからという推測がある。[要出典]
誤り不可能(英: incorrigible)
クオリアの性質として、それは誤り得ない(訂正を受けない)との主張がある。人は様々な錯覚を持ったり、また時に幻聴を聞いたり、外界の実在と対応しない人特有の様々な感覚を持つ。しかしそうした体験された感覚自体は、誤りえない実際の体験であるとの主張がある。[要出典]
私秘的(英: private)
他者から観測できない個人的なものである、とされる。本人が特権的にアクセスできるという意味で特権的アクセス(英: privileged access)という用語も存在する。[要出典]

Wikipediaより

クオリアというのは、感覚に伴う鮮明な質感のことらしいんですが、個人的に、人が持つ主観的な体験というのはこのクオリアでしかないと思うんですね。

ということで、タイトルの

『幸福論は掴めない。それは「幸せな感じ」というクオリア(感覚)でしかない。』

で言いたいことというのは、いくら言葉を使って幸福を説明しようとしたとしても、人が持つ主観的な体験としての「幸せな感じ」というクオリア(感覚)を考えたとき、そのクオリアがどのようなプロセスで生まれているのか・そもそも言葉で表現できる範疇にあるものなのかということが全然分かっていないので、〈幸福論は掴めない(結論を出せない)〉という結論になってしまいます。

幸せっていうのは、「リンゴが赤くて美味しそう」という感じであったり、「空が青くて綺麗」みたいな感じであったり、「走ったら爽快感があったけど少し疲れたな」という感覚であったり、そのような〇〇な感じという掴みどころのないものなんですね。

身体(脳)でこの部位が動いたから〇〇という感情が生まれたとか、周りでこういうことが起こったから〇〇な気持ちになったとか、単純な因果関係で説明できるようなものではないと思うんです。

手足が何かに触れたり、目で何かを見つめたり、何かを聞いたり触れたり味わったり、そして何か考えごとをしたり、自分から何か行動をしようとしたり、今までの記憶と今の状況が重なって不思議な感覚になったり、ふと立ち寄ったカフェで和やかな気分になったり、人との交流の中で価値観が揺さぶられたり、何らかの形で影響し合ったり

色々な無数の要素・入力が複雑に、重層的に絡み合って出される出力がクオリア〈〇〇な感じ〉だったりすると思うので、

結局のところは自分自身で進みたい方向に進んでいけるように、毎日充実して過ごしていけるようにというふうに

軌跡①・軌跡②のようなことを意識していきながら過ごしていくしかないのかなと考えました。

ひとつの理論に単純化できるような感覚でもないし、ある程度大事なことは共通していたとしても、やはり人それぞれの価値観に沿って、誰にとっても違う様相で形成されていくのが幸福という感覚であると思うんです。だから、自分自身をみつめることが大事。


結論

やっぱり、結局裏切らないのはちょっと気分落ちてるときに(必要なら)人と話すことだったり、美味しいもの食べることだったり、

確実なのは健康を保ったり、毎日なにかしら充実できることをしたり、ちゃんと疲れたら休憩したり、

今自分は何を大事にしたいかなと考えたり
どうやったら目の前にいる人を喜ばせられるかなと考えたり

そういうことが大事なのかなというふうに思っています。

幸せってよく分からないんですが、よく分からなくてもいいので、なんとなく日々の中で小さな幸せを積み重ねていってみませんか。

あなたをモチベートでした、最後まで読んでいただきありがとうございます!!

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