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黒山羊は香辛料を処方する ※BL/R15※

 父ゆずりの水銀色の髪に、母ゆずりの西地海色の目。そして、ありあまるほどの好奇心。父が市場に行く日を見はからって、ぼくは村を抜けだした。もう半分大人だ、と思っていた。五月、ぼくは十歳で、きみにいわせれば餓鬼バンビーノだった。
 ぼくの足で山村を三時間も下ったところに、梅拉メラ格蘭納塔グラナータの市場はあった。いしだたみにつらなる露店は粗末ながら、村にない活気にあふれていた。異国の焼き菓子、山盛りの果実、色とりどりの花々、生きた牛馬、華やかな服飾、怪しげな古道具、そして大勢の人! 祭りのさなかにいるようにぼくはわくわくした。
 そこいらじゅうに、格蘭納塔グラナータ市のシンボルである柘榴メラグラーナの意匠。古代十四世紀ルネサンス風の石造りの街は、実際は統暦二四四〇〇年代のレプリカだ。太古のナスル朝格拉納達グラナダ王国とも西班牙エスパーニャ王国ともなんの所以もなく、ただ初代市長の紋章が石榴メラ・グラナータの盾で、柘榴が特産物なだけだった。
 裏通りの集合住宅アパルタメント、窓辺に矮牽牛花ペトゥーニア。大柄な男がぼくにぶつかった。すみません、とぼくはわびた。男は大げさな声をあげて呻いた。もう一人の浅黒い男がいった。
「おい、バンビーノ。おれの相棒の腕がイカレちまったみたいだ。医者代かしな」
「お金は持ってません」
 困惑した。本当に一奥利オリオーネも持っていなかった。
「金がない? じゃあ、体で払ってもらおうか」
 二人が両側からぼくの肩をつかんだ。男たちは下卑た笑いを浮かべた。
「見ろよ、上玉だ」
「こりゃ高く売れるぜ」
 こいつら、人売りだ。必死にもがいたけれど、屈強な腕はびくともしなかった。引っ立てられた先に鰐亀みたいな自動車マッキナ。格子つきに改造された窓。
「バンビーノ、息止めて目ぇつむれ」
 少年の声。ぼくは素直に従った。何かがぱらぱらと振りかかった。男たちが呻いて、むせた。ぼくはこわごわ目をあけた。路地に散った真っ赤な香辛料。男たちは洟を垂らして、目もあけられない様子だ。
 香辛料売りだろうか。干からびた生薬エルベ入りの麻袋にかこまれ、黒いパンツの少年が佇んだ。それがきみだった。
辣椒チーリだ。さっさと洗うんだな、瞼が蕃茄ポモドーロみたいになるまえに」
 くそ、おぼえてろよ、と男たちは捨てゼリフを吐き、おぼつかない足どりで逃げていった。ぼくはコッポラ帽を脱いで、肩の粉を払った。鼻がつんとして、目が潤んだ。きみの声。
「大丈夫か?」
 ぼくははっとした。黒いパンツと見えたきみの足は、足首まで黒い巻き毛に覆われているのだった。腰に麻布を巻いた裸。オニキスのような黒い髪、黒い目、細い顎。黒山羊だ、と一目で思った。
 母はよくいっていた。ひとりで外を出歩くと、牧羊神パーンに襲われてしまうよ。上半身が男、下半身が山羊の蛮神。パーンが、たまに人馬センタウロになったり、半獣人サティロになったりしたけれど、おどし文句はいつも同じだった。
「きみってパーン?」
 ぼくは大まじめにきいた。きみは目を丸くして、次の瞬間、大笑いした。
「まいったな」
 きみは涙をふいた。そんなに笑わなくてもいいじゃないか、と思った。きみは真顔になった。
「メルクーリオ・グリエールモ・アキラーノ。早く山へ帰んな」
「どうして……」
 絶句した。どうしてぼくの名を? どうして帰らなきゃいけないの? ぼくの心を読んだようにきみは言葉を重ねた。
「ここらで泰坦人ティターニのバンビーノったら、ジョーヴェ・アキラーノの一人息子しかいない。ティターニは天然記念物だ。帰るんだ、早く。また人さらいに会いたいか」
 きみの怒ったような声に驚いて、ぼくは人ごみを縫って駆けだした。ぼくの胸で銀の正十字架ロサーリオが跳ねた。
 山路を登りだしてから、気づいた。きみの名前をきかなかった。それどころか、お礼もいっていない。大事な売り物をだめにして助けてもらったのに。
 山の中腹で、ぼくは振りかえった。五月の梅拉メラ格蘭納塔グラナータは、嵐の森のように騒々しかった。

 十三歳になった五月、ぼくは兎のように落ちつかなかった。こんどからは、父同伴だが堂々と市場へ行ける。あれから何度かこっそりと街へ下りたが、きみには一度も再会できなかった。
「クーリオ、何かいいことあったみたいね」
 村の教会の裏手、セレーレおばさんがいった。この教会広場を中心に正十字路が伸び、煉瓦小屋が建並ぶ。ぼくらの住む奥林波斯オリントポスは、大国ギガント衝突マキアーのさなかに開拓された村だ。だが、往年のにぎわいは見る影もなく、寡婦の住まいが数世帯ばかり。この村でぼくは最年少だった。みんなぼくを息子か孫のように可愛がってくれる。
「うん、ちょっとね」
 ぼくは含み笑いして、手斧を振りろす。薪が真っ二つになる。異人パガーニの少年に会えるかもしれないから……なんていったら、どんな顔をされるか。おばさんの心臓が止まってしまうかもしれない。
 女の子の金切り声。ああ、ヘルサが癇癪を起しているにちがいない。ぼくは斧を切株に打ちこんで、声のほうへ駆けた。
 十字路の東、ヘルサ・シスネロスは顔を真っ赤にして泣き喚いていた。体は十五歳だけれど、気持ちは五歳のまま。年子の妹のラーラはあきれ顔で、だがヘルサの手を握って根気強くいいきかせる。
「ヘルサ。泣いてちゃわかんないよ。ラーラに話してごらん。何が嫌なの」
「……クーリオのパーパ」
「おじさんが、どうして嫌なの」
「……ラーラにはにこにこするのに、ヘルサにはイヤな顔するの」
 ヘルサはわんわん泣いた。幼子のように悪意に敏感なのだ。ラーラとぼくはため息をついた。ラーラはいう。
「ヘルサ、きいて。おじさんはヘルサが好きじゃないかもしれない。人が何人もいたら、なかには自分を嫌う人がいるのはしょうがないことなの。でもね、反対に好きになってくれる人もいる。ラーラはヘルサが大好きよ」
 ラーラの横顔は、大人の女性のように強かった。ぼくはうなずく。
「ぼくもヘルサが好きだよ。ごめんね。父さんに文句いっておくから、泣かないで」
 ヘルサは泣き顔のまま、にこっと歯を見せた。
 この村に若者はヘルサとラーラとぼくしかいなかった。誰かが決めたわけではないけれど、たぶん、近い将来、ぼくはラーラと結婚することになるだろう。ティターニの血を絶やさないために。ラーラのことは好きだ。けれど、それは姉を慕うような気持ちだった。恋ではない。
 そうだ、ぼくは恋を知りたいんだ。薪をたずさえて家へ急ぎながら、唐突に気がついた。

 よく晴れた朝、父のジョーヴェとともにぼくは下界へおりた。梅拉メラ格蘭納塔グラナータの市場は、三年前と変わらないにぎわいだ。ぼくはそわそわと露店に目を走らせる。香辛料を売る少年はいなかった。
「人が多くてびっくりしただろう。あまり口をきくなよ。罪深い邪教徒サタニースタばかりだ」
 父はコッポラ帽をかぶりなおし、水銀色のひげを掻いた。ティターニには絶対神の信仰があった。その神を、ぼくは心から信じることができなかった。ぼくらの信じる神が正しいなら、なぜぼくらティターニは滅びようとしているのか。しかし、真っ向から否定することもできなかった。枕辺で母におとぎ話のようにきかされた、神の罰。永劫の地獄の業火。ぼくはつい胸の正十字架を握りしめた。
「きょうは何を?」
「まずはこいつを売るところからだ」
 父は背中のかごをゆらした。まるまる太った牝の鵞鳥が、ゲーと鳴いた。
 父がおとなったのは家畜問屋だった。樽みたいに肥えたおかみは、毛づやが悪い、嘴が曲がってると難癖つけて値切った。九〇〇奥利オリオーネにしかならなかった。ぼくはがっかりした。村のみんなで一生懸命世話したのに。父の悪態。
「まったく、これだから邪教徒の女は。その服も小さいな。新しいのを買ってやる」
 ぼくは自分の体を見おろした。生成りのシャツと、藍の褪せたサロペッテ。シャツはくたびれて、デニムの裾は短い。でも、村のみんなの服はもっと粗末だ。ぼくは首を振る。
「まだ着られます」
「おまえはゆくゆく奥林波斯オリントポスおさになる男だぞ。格好くらいはぱりっとしないとな」
 露店に吊るされた服を、父はあさった。ぼくも適当に一枚を手にした。白いドレスだった。薔薇ローザ模様のレエスは古びてはいるが、精緻な細工だ。花嫁が着そうだ。父も同じことを思ったようだ。
「ラーラに着せたいな。あの子の花嫁姿はきれいだろうな」
 まちがってもヘルサのことはいわないのだ。ぼくの気持ちは沈んでいった。
 用事がすんだころ、父とぼくの手荷物は、ちょっとした行商人のようだった。
「ほかに見たいものはあるか」
 父はいった。ぼくはつぶやく。
「香辛料がほしい」
「香辛料?」
「辛いものが好きなんです。胡椒ペーペとか辣椒チーリとか」
「ほう、それは初耳だ」
 父は意外そうだった。
 中央広場が騒々しかった。数十人の輪、野次を飛ばす男たち。ぼくははっとした。父は眉をひそめる。
「賭博か喧嘩だ。行こう、クーリオ。われわれの見るものではな……」
 父の言葉は耳に入らなかった。ぼくは駆けだしていた。人垣に割りこんで、ぼくは衆目を集めるものの正体を目撃する。
「生意気いうな、ここはおれの場所だぞ」
 商人あきんどらしき中年男が、瘦身の少年の襟をつかんだ。ぼくの胸は高鳴った。黒山羊みたいなきみだった。きみの腕に、三年前はなかったいれずみの渦。きみの黒い目が、ぼくを捉えた。瞬間、きみはにやりと笑った。
 きみは後ろ手に麻袋の薑黄クークマをつかみ、男の顔に浴びせた。黄色い煙幕。わっと男は目を押さえ、くしゃみを連発した。野次馬がどっと喝采する。
「いいぞ、若造ラガッチーノ
「もっとやれ」
 中年男は真っ赤なデーモネみたいになって、目をつむったまま、めくらめっぽう殴りかかった。きみは涼しい顔でかわして、男の尻を蹴った。
 男は頭から薑黄の袋に突っこんだ。真っ黄色の涙と洟を垂らし、男は死ぬんじゃないかというほどむせこんだ。野次馬の大爆笑。男のほうに非があったのかもしれないが、ぼくは少し気の毒になった。
「何やってんだい、イェ。売り物を台なしにして」
 どすのきいた女の声。黒髪の背の高い女が拳骨を見舞った。痛っアーヒャ! ときみは頭をかかえてうずくまる。野次馬がどっと笑った。ぼくはぽかんとした。咳きこむ男の背をさすり、黒髪の女はいう。
「うちの子が悪かったね。イェ、そこの井戸につれてってやんな」
「なんでおれが」
「自分の始末は、自分でつけな」
 きみは不服顔だったが、男を手助けして場を離れた。女は手を二度叩いた。その手にも黒い黥。
「はい、見世物はおしまい。お客じゃないなら散んな」
 野次馬はてんでばらばらになった。歌劇場の石壁に樹木の浮彫リリェーヴォ、裂けた柘榴の実。ぼくの肩を抱いて、父がささやく。
「見たか、あのおぞましい黥と毛むくじゃらの足。まるで悪魔サータノじゃないか。さあ、帰るんだ、クーリオ」
 ぼくはうなずいて、後ろ髪ひかれつつ歩きだす。できれば、きみと言葉を交わしたかったのだけど。
 でも、ひとつだけわかった。きみはイェというのだ。なんだか山羊の鳴き声みたいな名前だ。ぼくはひそかに微笑んだ。

 村に大人の男は父のジョーヴェと、もう一人おじいさんがいるだけだった。エスクーラピオ・ロッシニョーリという大仰な名前の老人は、もっぱらピーオと呼ばれた。
 小屋の窓ごし、おじいさんの生薬エルベの菜園に蝶が舞う。まるで魔女の庭だった。ぼくは母菊カモミーラ茶をすすった。枯草みたいな味だ。
「ピーオ。足に黒い毛が生えてて、体に渦巻みたいな黥をしてる種族ってわかる?」
「ああ、知っている。待ちなさい」
 ピーオは老眼鏡を押しあげつつ、よろよろと席を立った。村の最年長のおじいさんは元軍医で、とても博識だ。奥林波斯オリントポスの外のことは、みんなこの人に教わった。
 壁一面の古びた背表紙、ピーオは一冊を抜いた。黄ばんだページに、三つの世界地図。五億年前の一続きの盤古大陸ヴェリョパンゲア、二億五千万年前の大西洋に隔てられた分離大陸トルンゲア、そして現在の再び大集結した新接続大陸ノヴォパンゲア――つまり、阿紐夏アニュージア共和連邦だ。北の主大陸と、南の副大陸が、かろうじて細くつながっている。ピーオは震える指を主大陸に置く。
「ごらん、この佩徳ペーデ半島。ここがわしらの村。前にも教えたな?」
 夕拉雷内セラレーネ州の最北端。膝を曲げた長靴みたいな半島が、北極海にせりだしている。ぼくらの山村は西地海寄り、太腿のつけねあたりだ。
「うん、大昔は伊太利亜イターリアっていったんでしょう?」
「そうとも、よくおぼえてたな。この主大陸の、ずっと東」ピーオは指を北東へずらした。東岸の内陸を示す。「ここが戡内帝亜カンネティア州。かつては支那チーナという大国が牛耳っていた。その戡内帝亜の、この高原が雪絨シュエロン。ここにいたのが藩族パンズだ」
 パンズ。ぼくは自然とパーンを思い浮かべた。山羊の蛮神。おじいさんはもう一冊を抜きだした。ページに白黒の写真、渦巻きの黥に毛深い足の男女。まちがいなかった。
「こういう人を、街で見かけたんだ。藩族の子孫なのかな」
「うん、おそらく末裔だろうな。ギガントマキアーで故郷を追われたんだろう。あそこは酷いことになったから」
 おじいさんはそれ以上は語らなかった。戦争の話はあまりしたがらないのだ。
 統暦二四七五四年、今は第七文明期だという。かつての百年ティターノ戦争マキアー大国ギガント衝突マキアーで文明は崩壊しかけたが、世界情報記録機関レジストリ・アカシチーに第五、第六文明期の叡智が蓄えられている(ぼくら一般市民が閲覧できるのは、ごく一部の情報だけだが)。おかげでぼくらは洞窟で生肉をかじらなくていいものの、SFのような目覚ましいテクノロジーは持つことを許されない。この地球テッラにこれ以上の負担をかけないこと。それが阿紐夏アニュージア共和連邦の各州知事の一致した方針だった。
 ぼくは藩族の写真に見入った。特徴を撮影するためだろう。男女は乳房も股間もむきだしだった。腕や胸や背中は黥に彩られ、腰から下は黒々と豊かな毛に覆われていた。
「なんで下半身だけ毛が濃いんだろう?」
「始祖の神がそういう姿だったからだと彼らはいっている。先祖が上半身だけ湖につかって漁をしていたからだ、ともな。この毛の濃さが好色さに結びつけられて、国に迫害されもした。実際、性におおらかな民族だったそうだよ。今はわからないが」
 ぼくはまた写真に見入った。男の毛むくじゃらの下半身の大きな陰茎ファルス……。
「しかし、異人パガーニとはいえ、姦淫は罪だ。男女の婚姻のもとに、子をなすためにのみ。それが正しいんだ。わかるだろう、クーリオ?」
 ピーオは敬虔な信徒だった。ぼくはうなずいた。まるで別のことを思いながら。

 村の教会の色彩玻璃ヴィトラーテの光、壇上で父が説教する。われわれティターニだけが主の正しい教えを受け継ぎ、護りつづけているのである、と。オールモのベンチ、七人の寡婦たちとピーオはしんときいている。ヘルサは退屈して舟を漕いでいる。姉を起こそうとラーラはこっそり肩をゆする。ぼくは微笑ましく姉妹を見ている。父の説教は続く。最後の日にわれわれだけが本当の天国へ行ける、すべての不信心者と無神論者と邪教徒は裁きを受けるのだ、と。ぼくは胸の正十字架を握る。ぼくも裁きを受けるのだろうか?

 梅拉メラ格蘭納塔グラナータの裏通り、立ちはだかる白シャツの男。
「やあ、バンビーノ。いいしのぎがあるんだ」
「ごめん、急ぐんだ」
「悪い話じゃない。二人でちょいと金持ちのばあさんをたらしこんで……」
 男が肩に手をかけた。ぼくは黙ってしゃがむ。男はよろめく。ぼくは兎のように駆けだした。足の速さなら人に負けない。男はすぐに諦めたようだ。ぼくはほっと息をついて、早足に歩いた。
 石壁に柘榴の実。先週と同じ場所で、きみは店びらきしていた。ぼくはためらった。どう話しかけようか。きみはぼくを知っているふうだったけど、ぼくはきみをよく知らないのだ。きみは気づいているはずなのに、ぼくに見向きもしなかった。赤いオート三輪の荷台から、黙々と麻袋をおろす。大きな袋は甃に置き、小さな袋は台に陳列する。黥の腕の筋肉の浅い影。ぼくは意を決した。
「手伝ってもいいかな」
 きみは初めて気づいたような顔をした。「悪いけど、手はたりてる」
「だめ?」
「ほんとはたりないけど、雇う余裕がない」
 ぼくは噴きだす。「お金はいらないよ」
「そんなだからつけこまれるんだ、バンビーノ」
「きょうはつけこませなかった。変な男に絡まれたけど、ちゃんと逃げた」
 きみは笑い声を立てた。犬歯がちょっと尖っている。「きょうだけ特別に雇ってやる」
「やった」
 ぼくは小躍りしたいくらいだった。
 生薬エルベの袋はずっしりと重かった。でも、ぼくだって畑仕事で鍛えている。へまはしなかった。赤・黄・橙・茶・黒・白・緑の香辛料は、五十種類ほどあるだろうか。
「なんて呼ぶ。メロ? エリオ?」
「クーリオ。きみはイェだろ。名字は?」
「ないよ」
「ほんと?」
「お役所が納得しないから、一応の名字はつけたけど、本当はないんだ」
「そうなんだ。イェは藩族だろう」
「藩族じゃない。おれたち自身がそう名乗ったことはないよ。国が勝手につけた」
「ほんとは何というの?」
インサン・・・・。人って意味だよ。でも、いいよ。もう滅んだから」
「きみがここにいる」
「言葉や文化の話だ」
「でも、伝統的な黥をしてる」
「これは大人のしるしだ」
 きみは腕の黒い渦をさすった。黥は半袖のなかへ続いている。胸や背中にもあるのだろう。
「十八なの?」
「十六」
「ぼくより三つ上なだけじゃないか」
「精神的には大人だ。おまえよりはずっとな」
 きみは口をゆがめた。少し悔しかったけど、そのとおりだろうから反論しなかった。
 お客さんに乞われ、きみは桂皮カッネーラ肉荳蒄ナッメグを包む。肉荳蒄の入れすぎは味を損なうから、玉葱チポーラを併用するようきみは助言する。きみは一〇〇奥利オリオーネ札を受けとって、ぼくに六〇奥利の釣銭を頼む。ぼくは硬貨をかぞえ手渡した。きみはいう。
「早いじゃないか」
「計算は得意だよ。おじいさんに教わったから」
「おまえのノンノ?」
「ううん。村の長老みたいな人」
 ぼくはピーオの話をした。ギガントマキアーに参加した元軍医で、藩族のことを教わったことも。きみはうなずいた。
「おまえの先生か。村には何人いるんだ?」
 ぼくは指を折った。「子供はぼくを入れて三人、女の人が七人、男は父とピーオだけ。十二人だ。小さな村だよ」
 ぼくはシスネロス姉妹の話をした。しっかり者のラーラと、小さな女の子みたいなヘルサ。きみはうなずいた。ぼくはいう。
「ぼくが話してばかりだ。きみの話がききたい」
「あら。お友達かい、イェ?」
 黒髪の背の高い女、きみに拳骨をくらわせた人だった。ぼくは緊張する。
「クーリオです。はじめまして。イェのお母さんですか?」
「そう。わたしは山嵐シャンラン。シエッラでいいよ。イェ、あんたにもこんなまともなお友達がいたのね」
 シエッラは大きく笑った。黥の手でかごのお札を何枚かつかんで、きみに渡した。
「それで遊んどいで。悪いことは教えるんじゃないよ」
 おおざっぱな感じはするけど、気はいい人みたいだ。ぼくはお礼をいった。きみはにやりとする。
「おまえのおかげで儲かった」
 ぼくらは走って街へくりだした。きみはブロンズの柘榴を蹴っ飛ばした。

 きみは硝子瓶の飲み物を買った。泡がしゅわしゅわとはじけて、歯にしみるほど甘酸っぱい。ぼくはびっくりした。
「何これ?」
柘榴曹達シードロ・ディ・メログラーノ。知らないのか?」
 きみはあたりまえみたいに飲んだ。きっと、この街ではありふれたものなんだろう。しゅわしゅわが鼻の奥に痛かったけど、ぼくは最後の一滴まで飲みほした。
 きみは麵麭パーネを買った。ぱりぱりの生地に、扁豆レンティッチアのペーストが入っていて、いろんな旨味が凝縮されて、ほっぺたが落ちそうだ。ぼくは感動した。きみはいう。
「うちの香辛料だよ。なあ、旦那シニョーレ
 露店のおじさんがウィンクした。
 きみは煙草をくわえて、燐寸で火をつけた。薄荷メントーロのいい匂い。ぼくはいう。
「未成年なのに」
「吸うぶんにはお咎めはないよ。十八歳未満じゃ買えないってだけだ」
「どうやって買ったの?」
「うちの自家製。吸うか?」
 きみは吸いさしを差しだす。ぼくはためらいつつ受けとった。悪いことをするんだってことと、きみがくわえたものに口をつけるんだってことにどきどきしていた。このくらいなら、地獄の業火に焼かれたりはしないはずだ。ぼくは唇にはさんで、思いきり吸った。
 薄荷の煙はひりひりと辛かった。ぼくは涙目。きみは笑い声を立てる。
「バンビーノには早かったな」
 きみは吸いさしを奪って、ふかしてみせる。悔しいけれど、様になっていた。
 きみは街のあらゆることを知っていて、ぼくがいちいち驚いたり感激したりするのをおもしろがった。なんだかふわふわと幸せで、ぼくは家に帰りたくなかった。北緯五十度の初夏、日暮れは遅い。時間帯はとうに宵だったけど、まだまだ明るい。
「最後はあそこにしよう」
 場末の通り、街にそぐわない猥雑な建物に、鉄のポールに絡まる裸の女のポスター。脱衣劇場ストリップ・クラブだ。きみはにやにやする。
女陰ヴァルヴァが見られるぞ」
 ぼくは首を振った。「だめだ」
「なんで」
「姦淫は、みだりに性的なものは禁じられてるんだ。ティターニの神の御名において」
「みだりに性的」きみは鸚鵡返しにした。「見るだけだぞ?」
「だから、それがみだりなんだよ。男女の婚姻の下に、子をなすためにのみ……それが正しいってぼくは教わった。背けば地獄行きだ」
「なら、この街の連中はみんな地獄行きだな」
 きみは口をゆがめた。ぼくは正十字架を握りしめて、黙って首を振った。涙で日差しがにじんだ。きみはため息をつく。
「わかったよ、そういうのはなしにしよう」
 きみは背を向けて歩きだす。ぼくはしょぼくれてついていった。きみに嫌われたかもしれない。
 辿りついたのは街のはずれ、奥林波斯オリントポスへの山口だった。ああ、きみは送ってくれたのだ。ぼくは望みを込めて振りかえった。
「きょうはありがとう。また会いに来てもいいかな」
「いちいちきくなよ。来たきゃ来りゃいいだろ」
 きみはいった。ぼくは安心して笑った。きみもあきれたふうに笑って、手を振った。

 次の日にでもきみに会いたかったけど、ぼくはこらえた。頻繁に村を抜けだせば、父に知られてしまう。それに、ぼくだって暇じゃない。家禽の世話や、畑の手入れ、家事全般もぼくの仕事だ。でも、家鴨や七面鳥の糞を集めながら、畑の土をきかえしながら、野菜くずをじっくりと煮ながら、ぼくの心を占めていたのはきみのことばかりだった。
 次にきみに会いに行ったとき、もう夏の盛りだった。店番のきみは肉桂色に日焼けして、ますます黒山羊に見えた。ぼくは笑って駆け寄った。きみは人差指を立てて、しーっという。
「かえりそうなんだ」
「何が?」
 きみは笑って、半パンツから卵をだした。大きさからして鵞鳥だろうか。きみは卵をくるりと回す。わずかにひび割れて、嘴の橙色が覗いていた。ぼくは目を見ひらいた。きみは殻を剝いで、ひなの頭をだした。濡れた黄色い産毛、閉じた薄い瞼。ぼくは息を飲んだ。
「目があいたら、ぼくらを親だと思っちゃうね」
「ほんと、いいタイミングで来るよな。世話したのはおれなのに」
「ごめん」
「罰として名前を考えろ」
 ぼくはしばし悩んだ。麻袋の大蒜アーリオが目に留まった。
「アーリオ」
大蒜アーリオ? なら、アーリがいい。おい、アーリ」
 ひなはぽやんと目をあけた。つるつるの黒褐色の瞳。ぼくときみは歓声をあげた。
 ぼくはきみの店番を手伝った。アーリはきみの懐でいい子にしていた。お客さんは微笑ましげな目を向けた。
 昼頃、シエッラがやってきた。
「あら、クーリオ。よかったじゃないの、イェ」
 きみは気まずそうに目をそらす。シエッラはぼくにいう。
「この子ったら、ずいぶん落ちこんでたのよ。あなたに嫌われたんじゃないかって」
 ぼくが来ないのを、そんなふうに思っていたのだ。ぼくはくすぐったくて笑った。きみは仏頂づらだった。
 シエッラはひなを引き受けて、きみの店番を免除した。ぼくはいう。
「きょうはぼくが案内してもいい?」

 ぼくの暮らす山を登って一時間、山の越のひらけた草地。信じられないほど青く透きとおった泉に、きみは黒い目を瞠る。ぼくはいう。
「ここはラーラやヘルサにも教えてない。一人になりたいときだけ来るんだ」
 きみはいきなりシャツを脱いだ。肩や胸の黥の渦巻き。ぼくは驚いた。
「どうしたの?」
「こんなの、泳ぐっきゃないだろ」
 きみはためらいなくパンツもおろす。見たかったはずなのにぼくは、きみの裸を正視できなかった。きみは飛びこむ。輝く水しぶき。
「来いよ、クーリオ」
 きみは笑って手招きする。ぼくは正十字架をはずし、もぞもぞと服を脱いで、あらぬほうを見ながら水に入った。
 きみは蛙みたいに器用に泳いだ。ぼくはそれほど得意じゃない。山にいたら泳ぐ必要なんてないんだ。ぼくのぎこちない動作を、きみは笑う。ぼくは水をかけた。きみもかけかえす。
 水に頭まで沈むと、光が束になって差しこんだ。青い光のなか、きみの黒髪が水草みたいにゆらめく。きみの体を縛る黥の渦。ぞっとするほど美しい光景。なのに、きみはわざと変な顔をした。ぼくは笑って水を飲みそうになった。
 長くはつかっていられなかった。ここの水は夏でもすごく冷たいんだ。唇を青くして震えながら、ぼくらは草に転がった。地べたがあたたかい。
 きみは脱ぎ捨てた服を探って、煙草に火をつけた。ぼくはぼんやりと見ていた。
「吸うかい、バンビーノ?」
 きみがからかうようにいった。ぼくはむっとした。
「吸う」
 きみは箱ごとよこす。ぼくは一本くわえた。きみはくわえた煙草の火種を、ぼくの煙草に押しつけた。口づけするみたいな至近距離。ぼくは平静をよそおった。焦げくささとともに火が移る。喉にひりひりする薄荷の煙。でも、なんとなく気分がよくなる。箱に商品名はない。
「これって、なんてやつ?」
「隠語は好好ハオハオだ」
「ハオハオ?」
「葉っぱだよ」
「なんの?」
大麻マリワナ
 ぼくはむせこんで、煙草を捨てた。「先にいってよ」
「知ってたら吸わなかったろ。大丈夫。ちょっとばかし陽気になるだけだ。カフェイン程度の依存性しかない。やめたきゃ、すぐにやめられる。おれがおまえに危ないもん吸わせると思うか?」
 きみはいたずらっぽく笑った。悪意はなかったのだろうけど、ぼくは腹が立った。
「高揚感をもたらすテトラヒドロカンナビノールには副作用がある。常用すればIQが下がるし、幻覚や妄想なんかの精神障害を引き起こしやすくなる。医療行為以外は使うべきじゃないよ」
 きみは驚いたみたいだった。「へえ、詳しいんだな」
「ピーオの本に書いてあった」
「インサンもヘンプを吸ってた。これとちがう、もっと原始的なしゅだ。油をつくったり、縄をったり。生活の糧だ。そのあたりは一大生産地だった。でも、今はもう」
「ないの?」
「おれたちの故郷自体がない。インサナバードっていう高原だった」
「シュエロンじゃなく?」
「それは国が勝手につけた名前。ギガントマキアーのために、国はインサナバードを兵器の実験場にした。おれたちごと消すつもりだったのさ。知ってるか? 太陽の表面温度の五十倍の熱で、一瞬で人間が蒸発するんだ」
 想像もつかなかった。ぼくはいう。
「なんていっていいのかわからないけど、すごく理不尽でひどいことが起きたんだってことはわかるよ」
 きみはさみしげに笑って、煙を吐いた。
「今は地図から抹消されて、人は立ち入れない。おれたちのおやは大陸中に散った。ウー夜里イェリと名乗ってるけど、おれの名前、本当はケーチェってんだ。インサンの言葉で夜って意味。冬の長い夜に生まれたから。おまえには特別に教えてやる」
 故郷を偲んでの行為だったのだ。きみの煙が鼻をくすぐった。
「アーリもつれてくりゃよかったな」
「こんどはそうしよう。きっとよろこぶよ」
 ぼくはいった。夏の雲と空がまぶしかった。幸せな気分なのは、きっとハオハオのせいだ。
 きみはがばりと半身を起こした。「なあ。そのラウラやエルサって子、可愛い?」
「ラーラとヘルサだよ。可愛い……んじゃ、ないかな。たぶん」
 ぼくはしどろもどろにいった。きみは前のめりになる。
「紹介してくれよ」
 ぼくはためらった。父は異人パガーニを憎んでいる。村人を山に閉じこめて、街と交流させないようにしているのはそのせいだ。きみを村につれていったら、父は怒りのあまり卒倒するだろう。
「父が許さないよ」
「その子らにだけこっそり会うのは?」
「まあ、それならなんとか。二人が黙っててくれればだけど」
「じゃ決まりだ」
 きみは煙草をにじって、いそいそと服を着こむ。ぼくはきみを置いて家に帰りたくなった。

「ねえ、ラーラ。大事な話があるんだ」
 まずラーラを説得するのが先だった。妹のいうことなら、ヘルサはきいてくれるはずだから。水車小屋の脇、ラーラは洗濯物を石に叩きつけていた。ヘルサも濯ぐのを手伝っている。ラーラはなぜか頬を赤らめて、白エプロンで手をふいた。
「何?」
「約束してくれる? 誰にもいわないって」
 ラーラとヘルサは似かよった顔を見合わせて、同時にうなずいた。ぼくはラーラに耳打ちした。ええっ、とラーラは叫んだ。ヘルサがいう。
「大事な話、ヘルサもききたい」
「クーリオ、あんた正気?」
「ラーラが嫌なら、無理強いはしないよ。でも、悪いやつじゃないから」
「ねえ、ヘルサにも教えてよ」
 ヘルサは妹のブラウスの袖を引っぱった。ラーラは思案顔で唸っていたけれど、結局はうなずいた。ぼくに負けず劣らず、ラーラも好奇心は旺盛なのだ。ラーラは姉の手を握って、目を覗きこむ。よくきいてね、の合図だ。
「ヘルサ。クーリオの友達が来てるんだって。村の外の人。ほかの人にはいっちゃだめだよ。とくにジョーヴェおじさんには。クーリオが怒られちゃうから。その人が、わたしたちに会いたいんだって。ヘルサはどうしたい?」
 ヘルサはぽかんとしていた。この子の頭の歯車が動きだすには、少しばかり時間がかかるのだ。ヘルサは目を輝かせた。
「ヘルサ、会う」
 ぼくは二人を村はずれの森に案内した。きみの黥に、足の毛深さに、姉妹は目をまん丸くした。きみがいう。
「チャオ、お嬢さん方シニョリーネ。ぼくはイェ」
 緊張のあまりか、ラーラは固まっていた。ヘルサは何度もまばたきして、きみが幻じゃないことを確かめようとしていた。きみはいう。
「きみたち双子? いや、三つ子?」
 たしかにぼくら三人の髪は水銀色だけど、三つ子ほど似ていない。きみはおどけた顔をしてみせる。ヘルサは小さな子のようにきゃっきゃと笑った。ラーラは緊張が解けたみたいだ。
「ラーラです。こっちは姉のヘルサ」
 きみはラーラと握手した。ヘルサともした。平等にあつかわれて、ヘルサは満足げだ。
「なんで手に絵が描いてあるの?」
 ヘルサはきみの黥を塗ってあると思ったようだ。ぼくとラーラは噴きだした。きみはいう。
「これは針ですすを皮膚の下に植えてあるんだよ」
「痛そう。なんで?」
「うん、すごく痛かった。けど、これが大人になったしるしなんだ。ぼくの故郷ではね」
 ラーラがぼくに耳打ちした。「悪い人じゃなさそう。ヘルサが平気でいるもの」
 ぼくら四人は地べたに車座になった。梅拉メラ格蘭納塔グラナータの話、奥林波斯オリントポスの話、きみの故郷の話、姉妹の母親の話、ぼくの父や亡き母の話。夏の空がいつまでも明るいもんだから、ぼくらはうっかりしていた。
「何をしている」
 男の怒声に、ぼくら四人は凍った。父は正十字架を掲げて、つかつかと寄ってきた。きみに液体をぶちまける。聖水だ。
「去れ、悪魔サターノ。ここはティターニの聖域だぞ」
 ぼくは腕を広げ立ちあがった。「やめてよ。イェは友達なんだ」
「ずいぶんな歓迎だな」
 きみは力なく腰をあげ、両手で髪を掻きあげた。口を皮肉にゆがめる。
「心配しなくても、二度と来ないさ。ここがどういう場所か、よくわかったからな」
 きみは背を向けて、森をずんずん歩いていく。ぼくは追いかけた。ラーラや父の声がしたけど、構わなかった。
 ぼくらは森を抜けて山路を下った。ごめん、とぼくはいった。きみはいう。
「やっぱり、街の女の子とはちがうな。身持ちが堅そうだ。まあ、男でさえ、こんだけお堅いもんな」
「そういういいかた、好きじゃない」
「ああ、悪い。そういうのは、なしなんだったな」
 きみの声に他意はなさそうだった。ぼくは黙って早足に歩いた。きみも何もいわなかった。
 矢車菊フィルオダリーソ色の宵闇、市場の明かりは余剰在庫のダイヤモンドみたいに見えた。きみはいう。
「あとは一人で行ける。早く帰んな、バンビーノ」
「バンビーノはやめてよ」
「女と接吻バーチョもしたことないやつぁ、バンビーノで十分だ」
 泣きたくなった。きっと、きみは女の子と口づけしたことも、抱きあったこともあるのだ。それでも、きみは地獄の業火に焼かれたりはしないのだろう。ぼくとは別の世界の人……。
 黥の手が、ぼくの頬をなぞる。やさしい指先。濃さを増す青のなか、きみの目の不思議な深さ。ぼくはぽうっと見とれた。きみの目が笑う。
「また泳ぎたい。アーリをつれていく。水曜の午後にあそこで待ってろよ」
 ぼくが返事をしないうちに、きみは峠路を駆けおりていった。
 ぼくはぼんやりとしながら、自分の頬にふれた。きみの指の湿っぽさが残っていた。

 約束どおり、ひなのアーリを伴ったきみと泉で落ちあった。数日でひなはずいぶん鳥らしくなり、きみの新鮮な生薬エルベを貪欲に平らげた。アーリは気ままにちょろちょろして、でもきみのそばを離れなかった。
 夏のあいだ、ほぼ毎日、ぼくらは泉で会った。水に潜って、人にはできない話をして、ハオハオを吸って、まどろんだ。きみの裸も、さすがに見慣れた。きみのファルスは大きかった。アーリはあっというまに成鳥になった(牡だった)。
 秋になると、ぼくらは梅拉メラ格蘭納塔グラナータで会った。次の季節も、その次の季節も。ぼくはすっかり香辛料屋の店番に慣れて、きみと同じくらい街に詳しくなった。
 きみに女の子の影を感じることがあった。きみは悟らせないつもりだったろうけど、わかりやすかった。きみの爪がきちんと切られている時期は、つきあってる子がいるのだ。ぼくは気づかないふりをした。何もいわなくても、きみはぼくとの約束を優先してくれたから。
 夏が来たら、またぼくらはアーリと一緒に泉で泳いだ。次の年も、その次の年も。こんな日々が、永遠に続けばいいと思った。でも、この世に決して永遠なんてないこともわかっていた。
 五月、ぼくは十八歳になった。きみは二十一歳になっていた。

 ぼくの十八歳の誕生日は、村人総出で盛大に祝われた。ぼくらは七面鳥を丸ごと焼いて、とっておきの葡萄酒ヴィーノの栓を抜いた。父が音頭をとる。
「メルクーリオの成人を祝って」
 乾杯チンチン! と十二人の村人は杯を掲げた。父が手を広げた。
「おっと、大事なことをいい忘れた。クーリオも十八、ラーラは十九。夫婦の契りを結ぶには十分に大人だと思うが、どうだろう?」
 最初に拍手したのはピーオだった。セレーレおばさんや、ほかの寡婦たちも賛同の拍手をした。手を叩かないのは、ぼくとヘルサとラーラばかり。みんなの祝福の言葉に、ラーラは笑顔で頬を赤らめている。いたく幸福そうだ。ああ、とぼくは思った。幼いころから予感していた、ラーラとの結婚。でも、いざそれが現実となると、はっきりと自覚した。ぼくの望みは、まるで別のところにあるのだと。
 ぼんやりしているぼくの肩を、父が叩いた。父はささやく。
「おまえも、汚らわしい邪教徒とつきあうのはやめて、ティターニの血を繋ぐことに専念するんだ。大人になれ。いいな」
 自分の顔が青ざめるのを感じた。ぼくときみの密会を、父は知っているのだ。あれだけ頻繁に姿をくらませば、気づかないほうがおかしかった。父は目顔で返事を要求した。ぼくはうなずくしかなかった。
 葡萄酒の火照りをさましたくて、ぼくはおもてへでた。華奢な背中が石垣に座っていた。ヘルサの沈んだ横顔。ぼくは隣に腰をおろした。ヘルサはいう。
「ラーラ、結婚するの?」
「そうだよ、ぼくと夫婦になるんだよ」
「ヘルサ、ひとりぼっちになっちゃう」
「セレーレおばさんがいるだろ」
「マンマは先に死んじゃう。ヘルサ、ひとり」
 ヘルサは今にも泣きだしそうだった。ぼくはヘルサの手をとって、目を覗きこんだ。
「ヘルサ、きいて。ぼくと一緒になっても、ラーラはきみの妹だよ。ぼくだってきみの友達だ。ひとりじゃない。だから、心配しなくていい」
「ほんとに?」
 ぼくはうなずいた。ヘルサは歯を見せた。いつまでも小さな女の子みたいなヘルサ。正直、負担だ。けれど、この子を放りだすなんて、ラーラは絶対しないし、ぼくだってしたくなかった。ぼくは大人にならなければいけなかった。本当の意味で。ぼくは正十字架を握りしめた。

 十八歳の初夏、きみとアーリと泉ですごすのも五年目。アーリは泉がお気に入りで、いつまでも泳いでいる。飛んでいるつもりなのか、ばしゃばしゃと羽ばたく。
「水鳥なんだよな。つい忘れるけど」
 煙草をふかしつつ、きみは裸で草に寝ている。ぼくも裸で、皮膚の水滴が乾いていくのを感じている。
「貸店舗に入れそうなんだ」きみは街の目抜き通りの名をあげた。「道ばたでの小ぜりあいから解放される。雨風も気にしなくていい」
「それは、おめでとう」
「店で働かないか? おまえなら勝手がわかってるし、アーリも懐いてるし」
 返事に詰まった。きみの信頼を無下にするのがつらかった。
「ずっとあの村にいる気か? おまえはいますぐ、どこへでも行けるんだぞ。そのままの意味でな」
 ぼくはうなずけなかった。けれど、即座に断ることもできなかった。きみは苦笑する。
「返事は今じゃなくていい。でも、前向きに考えてくれよな」
 五月の光のなか、きみはくわえ煙草で目を閉じる。濃い睫毛、高い鼻、大きな唇。戡州人カンネティアーニのようであり、夕州人 セラレネーニのようでもある。きっと、いろんな血を受け継いでいるのだ。
「イェ、灰が落ちるよ」
 うん、うん、ときみは生返事。ぼくは煙草を奪って、サリーチェの幹でにじった。きみの穏やかな呼吸。眠ってしまったようだ。
 きみの胸の、黥の渦巻き。大胸筋を強調する。ぼくは息詰まる思いで、そうっとふれて、渦をなぞった。迷路図を辿るように。
 ひとりで外を出歩くと、パーンに襲われてしまうよ。
 ピーオの本棚にあった、ファルスをみなぎらせたパーンが仙女ニンファを襲う絵画。ぼくはその絵を盗み見ては、人にいえない想像をくりかえした。
 黒山羊みたいなきみに出会ったとき、だから十歳のぼくは暗いよろこびを感じた。熟れた柘榴のように甘くて酸っぱい感情。それを胸に秘めて、きょうまできみに忍び会ってきた。
 でも、それも終わりだ。きみはパーンではない。ただの女好きの香辛料売りなのだ。
 せめて、たしかな感覚が欲しかった。何十年もの退屈な生活にも色褪せない、鮮やかな感覚が。
 ぼくは黥の渦をなぞって、きみの胸、腹、そのもっと下へと手を伸ばした。きみの黒い毛、きみの大きなファルス……。
「すけべ」
 目を閉じたままのきみがつぶやいた。顔が火照った。ひっこめかけた手首を、黥の手がつかむ。ぼくはきみの上に倒れた。強い腕、あたたかい胸、香辛料の匂いの染みこんだ首筋。ずっと、こんなふうに、ふれあってみたかった。きみは困った顔をする。
「どうして泣く?」
 粘りの薄い涙が、きみの胸を汚した。ぼくはいう。
「もう、ここへは来ないでほしい。ぼくもきみには会いに行かない」
「なんで逃げる。襲ったのはそっちだろ」
 言い訳はきかなかった。ぼくのファルスはふくらんでいた。パーンはぼくのほうだ。
「ごめん。もう放して」
「無理だ。泣いてる理由がわかんなきゃ」
 きみは逆に腕に力を込める。頑として放さない。きみの黒い目の深さ。
「はっきりいえよ。正直に」
 ぼくは目を伏せた。「思い出が欲しい」
「思い出なら、たくさんあるだろ」
「ずっと、一生消えないくらいの、思い出が」
「そのいいかたじゃ、わからない」
 きみの怒ったような声。ぼくはとうとう口にする。
「きみが、欲しい」
 黥の手がぼくを覆した。泣き笑いみたいなきみの顔。
「五年もじらしやがって」
 きみはのしかかって、ぼくの口に嚙みつく。頭のなかが白熱する。火のようにぼくを翻弄するきみの舌と指。熱に浮かされて、何をされているのかわからなくなる。
 ああ、神様、とぼくは口走った。きみが苦しげにいう。
「おれの名前を呼んでよ。ケーチェ・・・・って」
 ケーチェ、とぼくは呼んだ。きみの本当の名前。ぼくは脚をひらいて、きみにしがみついた。引き裂かれるような痛みを、甘く感じた。この瞬間の熱に較べれば、死後の永劫の火あぶりなど、とるにたりなかった。

 薫衣草ラヴァンダ色の夜空。ぼくが戻ったとき、村に篝火かがりび松明たいまつが見えた。非常事態が起きたのだ。
 村の十字路中心の教会広場、篝火のもとに寡婦たち。ぼくはいう。
「何があったんです」
 セレーレおばさんは数時間で老婆のようにやつれていた。
「ヘルサがいないの、どこにも。ジョーヴェやピーオが探しているのだけど」
「ラーラは?」
「ピーオと一緒よ。あの人、足が悪いから」
「ぼくも探します」
 ぼくはノッチョーラの枝を折って、白樺ベトゥーラの皮を巻きつけた。白樺は脂がいっぱいだ。篝火に突っこめば、立派な明かりになる。
 ヘルサが妹や母親のいいつけに背くことなんてない。ぼくみたいに勝手に街へ行ったりはしない。山のどこかにいるはず。村からそう遠くないところに。きっと、黒酸塊カッシスでも採っていて迷子になったんだ。そうにちがいない。どうして、こんなに不安になるんだろう。きみに抱かれた痛みが残っていた。ぼくは頭を振って、森へ向かった。
 子供のころ三人でよく冒険した森。いつかきみとぼくら三人とで日暮れまで話しこんだ。松明の火に、木々の影が化物のように滑る。ぼくはヘルサの名をくりかえし呼んだ。
 何かを踏みつけた。土色のモカシン。ヘルサの靴だった。ぼくは松明を高く掲げる。
 窪地に影。岩? いや、あれは……。
「ヘルサ!」
 ぼくは駆け寄った。散らばった衣服。ヘルサは、ほとんど裸だった。紫に腫れあがった顔。首に食いこんだ正十字架の紐。
「ヘルサ……?」
 死んでいるんじゃないかと思った。ぼくはヘルサの肩をゆすった。
 ヘルサは、息を吹きかえした。そして、ぼくを見るや、金切り声をあげた。この世の終わりのような絶叫だった。

 部屋から出てきて、ピーオは首を振った。
「だめだ。まるで言葉を忘れてしまったみたいだ。セレーレとラーラしか受けつけない」
 セレーレの小屋の居間、ぼくと父は顔を見あわせた。卓のランプに、ピーオの顔の陰が濃い。
「いいにくいんだが、股から血を流していた。誰かに性的に暴行されたようだ」
「そんな」
 ぼくは言葉が見つからなかった。幼子みたいなヘルサ。自分が何をされているのかもわからなかったにちがいない。そのうえ殺されかけたのだ。平常心を失っても無理はなかった。
「誰がそんなむごいことを」
「ここに男はわしとおまえとジョーヴェだけだ。身内のしわざと思いたくないが……」
 ピーオは苦い顔をした。客観的に見て、最も怪しいのはぼくだ。ずっと村を留守にして、一番にヘルサを見つけたのだから。父がいう。
「馬鹿な。われわれのはずがない。邪教徒のしわざだ。あの黥の男」
「ちがう。イェはずっとぼくと泉にいたし、別れたあとはまっすぐ街へ行った」
 考えるよりも先にぼくは口走った。父は鼻を鳴らす。
「証明できるのか。街へ帰ったと見せかけて戻ってきたのかもしれない」
「イェはそんなことをするやつじゃない。ヘルサにだって親切にしていた」
 ぼくと父は睨みあった。ぼくはピーオにいう。
「犯行時刻はわからないんですか?」
「顔の鬱血具合から見て、数時間は経っている。夕方の犯行だろう。正確にはヘルサの話をきかんとなんともいえんが」
「警察へ届けても、あの子は証言できまいよ。これはわれわれの胸にとどめて……」
「いえ、警察に届けましょう。犯人をはっきりさせたほうがいい」
 ぼくはいった。きみとぼくにはアリバイがある。誰にせよ女を犯して殺そうとする凶悪犯を野放しにするわけにいかない。ピーオもうなずく。
「ああ、人の命の懸かったことだからな。はっきりさせよう。異存ないな、ジョーヴェ?」
 父はこわい顔で黙っていた。警察関係者とはいえ、異人パガーニを村に入れたくないのだろう。
「これはヘルサだけの問題じゃない。ラーラや、ほかの女たちも危ないんです。父さん、きっと神は許したまいましょう」
 ぼくはいった。父は鈍い動きでうなずいた。

 街の警察の評判は決してよくなかった。汚職に賄賂、違法捜査のうわさ。だが、今は彼らを頼るしかない。夜明けとともに、ぼくと父は格蘭納塔グラナータ警察署へ出向いた。
 父とは別に、待合室のようなところでぼくは話した。そもそもの奥林波斯オリントポスの成り立ちと信仰のこと、犯行時刻にぼくはきみと泉で過ごしていたこと、ヘルサを発見したときの状況、元軍医のピーオの見解、ヘルサが証言するのは難しいかもしれないこと。コルンボという刑事は、予想よりは親身に話をきいてくれた。
「じゃあ、その子はきみの義理の姉になるんだね」
「そうです。それ以前に、ぼくの大事な友達です。ずっと一緒に育ったんだ」
 ヘルサの紫色の顔が浮かんだ。気持ちがたかぶって、ぼくは袖で目を擦った。証言を電子デバイスで書きとめる相棒に、刑事はうなずいた。そのうなずきがなんなのかはわからなかった。
 十数名の警察関係者が山に登った。森で物証を拾い、村人一人ずつに話をきいた。だが、婦人警官が手を尽くしたが、やはりヘルサはしゃべれなかったようだ。殺人未遂はともかく、強姦の立件は難しいかもしれないとのことだった。
「犯人はわかっている。あの邪教徒だ」
 村の十字路の北端で、父はいった。署でもそう証言したのだろうか。ぼくはいう。
「夕方、イェはぼくと一緒でした。犯人のわけがない」
「おまえはあの邪教徒をかばってるんだろう」
「ぼくは事実をいっているだけだ。犯人はイェじゃない」
 コルンボ警部がたずねた。「そのイェとは?」
「香辛料売りのウー・イェリです」
「住所は?」
「わかりません。ただ、近々、索波ソルボ通りの貸店舗に入るとはいっていた」
 警部は手帳に書きとめた。「まあ、調べればすぐにわかりますがね」
「おぞましい黥の男だ。見ればわかる」
 父はイェの犯行だと頑なに信じこんでいるようだ。ぼくは警部にいう。
「とにかく、ぼくとイェはその時間、山の越の泉にいたんです。アーリをつれて」
「アーリ?」
「彼の飼ってる鵞鳥です。夏はいつもそこで泳ぐんだ。イェにきけば、ちゃんとわかります」

 あれからラーラはふさいでいた。姉が被害にあったのはもちろん、ぼくらの結婚式が延期になったことも大きかった。
「犯人が捕まって、ヘルサが元気にならなきゃ、結婚なんて無理だよね」
「そうだね」
「わたしたち、ほんとに結婚するんだよね?」
「もちろん。ずっと前から決まってたろ」
 石垣に腰かけて、ぼくは笑った。ラーラの表情は晴れなかった。
「ねえ、クーリオ。正直にいってね。わたしのほかに、好きな人がいない?」
 ぼくはどきりとしたが、動揺は顔には出さなかったと思う。
「いないよ。どうしてそう思うの?」
 ラーラはじっと見つめて、首を振った。
「ううん、いいの。忘れて」
 きっと、花嫁の憂鬱マトリオーニモ・ブルーというやつだろう。ぼくはそう考えていた。

 ぼくは梅拉メラ格蘭納塔グラナータへ行った。きちんと断ろうと思ったのだ。店では働けない、きみとはもう会わない、と。
 石壁に柘榴の実。いつも露店をやっていた場所に、きみはいなかった。貸店舗のほうかもしれない。
 七竈ソルボ並木の通りで店を探した。看板でわかった。Spizeria香味料屋 ALI L`OCA鵞鳥のアーリ。店は閉まっていた。ぼくは裏口に回ってノックした。
 現れたシエッラは目を赤くして洟をすすっていた。
「ああ、クーリオ。あの子が警察につれてかれたの」
「なんですって」
「山の女の子を殺そうとしたって。イェはそんなことしないわ。あの子はやさしいし、相手だって引く手あまたなんだから。でも、警察はわたしの話なんてきいてくれなかった」
「大丈夫、イェは無実です。その時刻、ぼくは彼と一緒だった。証言してもいい」
「お願い。ここはあの子名義で契約したの。あの子がいなかったら、わたし一人でどうしたらいいか」
 こんなに頼りないシエッラは初めてだ。この人も女性なのだ。
「任意でつれていかれただけなんですよね? ぼくがイェとりかえしてきます」

 捜査上のことは話せない、と格蘭納塔グラナータ署の警官は一点張りだった。ぼくは被害者の関係者だ、といっても同じだった。
 もう夜だった。取調室から解放されたきみは眠たそうにした。
「来てくれたのか」
「シエッラが心配してる。疑いは晴れたんだろう?」
「おまえといたからな」
 きみと過ごした瞬間を思った。二人を夜風が通り抜けた。きみが睨む。
「ラーラと結婚するんだって?」
「その予定だった。この事件で延期になったけど、年内にはすると思う。だから、きみにはもう……」
「その結婚は、やめたほうがいい」
 きみは遮った。ぼくは語気を強めた。
「きみのいうことでも、きけない。ぼくは……」
 指先がぼくの口を押えた。きみは首を振る。
「ラーラとヘルサとクーリオ、おまえたち三人はそっくりだよ。あの二人は、たぶん、おまえの姉だ」
 いわれた意味がわからなかった。「何いってんの。ヘルサとラーラはセレーレおばさんの子で、ぼくの母はデメートラだよ」
「じゃあ、あの子らの父親は? ギガントマキアーに参加した棺桶に片足つっこんでるじいさんとかいうんじゃないぞ」
 シスネロス姉妹の父親が誰かなんて、考えたこともなかった。ぼくら三人の水銀色の髪。奥林波斯オリントポスに大人の男は二人しかいなかった。ピーオでないとしたら……。
「まさか、そんな馬鹿な」
「おまえの父親だから、悪くいいたくなかったけど。ジョーヴェ・リッカルド・アキラーノの評判は最悪だ。おれたちを邪教徒呼ばわりして、尊大な態度をとって。市場のやつらは、みんな怒ってる。あいつは山で女をかこって性の奴隷にしてる異常者だ……って、そういううわさがあったんだ。五年前、おまえたちの顔を見て、確信したよ」
 地震のようにめまいがした。「ぼくは、どうしたらいい?」
「まず、きちんと確かめてこい。事実を知っている人に」
 きみはいった。裁きのように厳粛に。

 ピーオは母菊カモミーラ茶をだした。ぼくは手をつけなかった。
「ねえ、ピーオ。近親相姦についてどう思う?」
 おじいさんは目を見ひらいて、胸を押さえる。ああ、ピーオは知っているのだ。
「それは、罪だ。姦淫の罪のなかでも、とくに重い」
「なら、それをそそのかすのも罪だよね?」
 ピーオは青ざめて、手をカップにぶつけた。カップが転んで、卓にお茶が広がった。おじいさんはぽろぽろ泣きだした。
「すまなかった、クーリオ。だが、そうしなければ、純血のティターニが滅んでしまうんだ」
「ヘルサとラーラの父親は、ジョーヴェなんですね?」
「ああ、そうさ。そもそも、おまえの母さん、デメートラもジョーヴェの姉だった」
「なんですって?」
「もう何代もくりかえしてきたんだ。ほかの寡婦たちも、遠かれ近かれ血縁だ。わしはギガントマキアーの戦闘で不能になってしまった。ジョーヴェしかいなかったんだ。しかし、血が濃くなりすぎたんだろう。まともに生まれて育ったのは、ラーラとおまえだけだった。わしは、生まれたての奇形児を何人か始末したよ。ヘルサもきっと、ある種の奇形だ」
 老人の告白に、ぼくの気持ちは石のように冷えていった。ぼくという存在は、罪そのものじゃないか。
「みんなぼくのきょうだいだった。殺したんですね」
「許してくれ。さもなければ、われわれティターニは……」
「滅べばよかったんです。簡単なことだ。純血なんかにこだわらず、異人パガーニと交ざりあえば、こんなことにはならなかった。あなたも罪を犯さずにすんだ」
「神よ、神よ、お許しを」
 老人は天を仰いで嗚咽した。それ以上、ぼくは哀れなピーオを責める気にはなれなかった。

 ぼくは白樺ベトゥーラの皮に火をつけて、竈に置いた。火の手があがり、薪の爆ぜる音がする。炎の色って、いくら見ても飽きないのはなぜだろう。ぼくはきみを思いだす。
 ぼくは玉葱チポーラを刻んで、肉荳蒄ナッメグの実をすりおろし、挽肉をこねた。時間をかけて、甘藍キャーヴォロと一緒に煮こんだ。加熱すれば肉荳蒄臭は抑えられるときみはいっていた。
 昼餉の支度を調えて、ぼくは席につく。父は――いや、この人を父と呼ぶのはやめよう――ジョーヴェは水銀色のひげを掻いた。
「おまえはそれだけか。腹でも悪いのか?」
「ええ、少し」
 ぼくは麵麭パーネをちぎって、匙でミネストラをすする。貧しい食事。けれど、きょうのミネストラは格別だ。予想どおり、ジョーヴェは肉をたらふく食べた。時計を気にしつつぼくはいう。
「ラーラとの結婚を、やめようと思うんです」
「何をいってる。やめてどうするんだ」
「村を出て、街で働きます」
「邪教徒と一緒にか。おまえは聖なるティターニなんだぞ」
 ティターニは主が手ずから創られた神の似姿であること、ぼくにはティターニの血を繋ぐ義務があることをジョーヴェは熱弁した。背けば地獄での永劫の火あぶりが待っていることも。幼いころから何百回もきかされた屁理屈だ。
「ぼくの気持ちは変わりません。ぼくはここでは暮らせない」
「愚か者。街へ行くなら行くがいい。それでも奥林波斯オリントポスは続いていく」
「あなたがラーラと結婚する気ですか?」
 ジョーヴェが胸を押さえた。症状は動悸、息切れ、めまい、かすみ目、吐き気、不随運動、手足の痺れ、全身の疼痛……。やつは魚のように口をぱくぱくした。荒い息。
「クーリオ。何か変だ。ピーオを呼んでくれ」
「ピーオじゃ治せません。毒を盛りました。毒消しが欲しければ、正直に話してください。ヘルサを犯して殺そうとしたのは、あなたですね?」
 ジョーヴェは口をぱくぱくする。「そ、それは……」
「いわないなら、死んでください。ぼくはべつに困らない」
 ぼくはいいきった。いっそ死んでくれたほうがいい。ジョーヴェは胸を掻きむしる。
「そうだ、わたしがやった。毒消しをくれ」
「動機は?」
「あんなできそこない、いたってしょうがないだろう。食い扶持ばかり一人前で」
「あなたの娘ですよ」
「知っていたのか?」
「動機は口減らし。でも、どうして犯す必要があったんです。姦淫は罪でしょう?」
「それは、その、ただ……」
「ただの性欲ですか?」
 ジョーヴェはやけのようにうなずいた。
「そうだ、そうだよ。どうせ始末するなら、ついでに犯ってもいいだろう。あの役立たずめ。最後くらいわたしの役に立てば……」
 ぼくは腕を振った。拳がジョーヴェのひげ面にめりこんで、やつは椅子から転げ落ちた。
「地獄に落ちろ」
 ぼくは首の正十字架を引きちぎって棄てた。木のビーズが床に散らばった。やつはみっともなく這いつくばった。
「毒消しを、毒消しをくれ」
「ありませんよ、そんなもの」
 ジョーヴェの喉がひゅうっと鳴った。ぼくは笑った。
「肉荳蒄の過剰摂取です。しばらくは苦しいでしょうけど、死にませんよ。ぼくはあなたとはちがう」
 エレミシンとミリスチシンによる向精神作用と抗コリン症状。麻薬中毒者や囚人が幻覚剤として肉荳蒄を使うこともあるそうだ。きみは自分自身で実験して、救急車の世話になったと笑っていた。ジョーヴェはぶるぶると震えながら、床の上で丸くなった。胎児のように。
 台所のドアがひらく。ピーオだ。その後ろにラーラとセレーレと、コルンボ警部。ぼくはうなずく。警部はうなずきかえして、ジョーヴェに手錠をかけた。

 残念ながら、ピーオも逮捕された。赤ん坊を殺して森に埋めた罪だ。赤ん坊の骨は五人ぶんあったそうだ。生きているうちに娑婆の空気は吸えないだろう。
 ぼくもジョーヴェに対する傷害で署に話をきかれたものの、起訴はされなかった。事情が事情だし、捜査にも協力したのだから、まあ妥当だ。
「ごめんね、クーリオ。イェのことジョーヴェに話したの、わたしなの」
 夜明けの光。村はずれでラーラはいった。ぼくは驚いたけど、もう過ぎたことだった。ラーラはいう。
「最初から、わかったよ。クーリオはこの人が好きなんだなって。ずっと見つめてるんだもの。そのあとも、しょっちゅう仕事すっぽかして会いに行っちゃうし」
 ラーラは笑った。ぼくは顔が熱くなった。
「そんなにわかりやすかった?」
「もう夢中って感じだった。ちょっと妬いちゃった。きょうだいじゃなかったら、結婚も考えてあげたんだけど……まあ、しょうがないよね」
 もしこの子が姉じゃなかったら、もしきみに出会っていなかったら……ぼくは言葉を飲みこんだ。仮定はあくまで仮定でしかない。
「わたしたち、山で暮らしていく。慣れてるし、やっぱり街はこわいし。でも、買いだしはわたしがやる。きっと、ヘルサも助けてくれると思う。だいぶ、しゃべれるようになってきたから」
「もし困ったら、ぼくを呼んで。すぐ飛んでくる」
 朝日を浴びて、ラーラは女神のようにきれいだった。どちらからともなく、ぼくらは抱擁しあう。ブラウスに紫丁香リーラの匂い。ラーラはいう。
「何もなくても、たまには帰ってきてよね」
「もちろん、ここはぼくの故郷だもの」
 そうするあいだにも、日は昇っていく。ぼくらは微笑んで、離れた。ラーラは手を振った。峠路を下りながら、ぼくの心はもう梅拉メラ格蘭納塔グラナータへ飛んでいた。

 索波ソルボ通り四十八番地、ぼくはALI L`OCAアリ・ロカのドアをあけた。木の勘定台に、生薬エルベの詰まった瓶の棚。白い巨体が突進してきた。鵞鳥のアーリだ。ぼくは抱擁で受けとめる。可愛いやつだ。
「遅かったじゃないか、クーリオ」
 きみは料理長シェフみたいな白装束だった。
「似あってるね」
「おまえも着るんだよ。きょうから開店だ」
 きみはスペアの白装束を押しつけた。ぼくは受けとって、にやりとした。
「でも、あれが一番似あってた」
「あれって?」
「最初に会ったときのきみ、裸に腰布だけ。あれはよかった」
「すけべ」
 きみはぼくの頬をつまんだ。ぼくは笑った。きみはいう。
「残念だったな、ラーラと結婚できなくて」
「いいよ。きみがいれば」
 きみは微笑んだ。「なんなら、おれと結婚するか?」
「だって、結婚は男女じゃなきゃ……」
夕拉雷内セラレーネ州は同性同士の結婚を認めてる。知らないのか?」
 ショックでぼくはしばらく口がきけなかった。「そうなの? きいたことない」
「おまえの先生、じいさんだから知らなかったんじゃないか」
 きみはにやりと笑った。尖った犬歯。ぼくの頬をぺたぺたと軽く叩く。
「まあ、おたがいその気になれば、な」
 ゲッゲッ、とアーリが騒いだ。はっとしてぼくは着替えはじめ、きみは開店準備に戻る。
 プロポーズははぐらかされたけど、べつにいいんだ。当面、ぼくはきみの店に居座るんだから。結婚って窮屈そうだし、なんたってぼくらは若いのだ。

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