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「ハンサード」 イギリス人夫妻とわたしたち

わたしたちが結婚したのは1989年。その年、昭和天皇が逝かれ、平成がはじまり、そして消費税がスタートした。それから、美空ひばりさんが亡くなった

外では、天安門事件が起こり、冷戦時代が終わりをつげた

婚姻届けをだした数カ月後のある夜、大勢の若者が塀に立つ姿がテレビにリアルタイムで映し出された。ベルリンの壁を人がよじ登るなんて…

一瞬で世界がひっくり返る、そんなことがあるんだ…と驚いた

わずか一年で、世界は変わった…

そして、この1989年から、わたしの人生もまた大きく変わっていった





夫婦喧嘩

イギリスの舞台映画「ハンサード」を、真夏の水曜日、一人観にいった

舞台に立つのは、初老のイギリス人夫妻


罵りあう声でそれは始まった

その一組の夫婦のそばから、大きく変わろうと血を流す1980年代のイギリス社会の姿がむき出しになっていく

夫は、鉄の女と呼ばれたサッチャー首相の側近で保守党の政治家。妻は主婦。そして、どこから見てもリベラルな人

その罵り合いが、だんだんと政治闘争にみえてくる。これほどまでに考えの異なる2人が夫婦だなんて…と呆れるけれど、まあ、そこが人の面白さ。そう、人は、幾つもの矛盾を抱えながら生きている


国営事業が次々に民営化されたこの時代、労働組合もまた解体されようとしていて、そんな首相を支える夫に、妻は容赦ない

そういえば、1980年代、わたしはロンドンの中流家庭にホームスティしている。当時、イギリスでは消費税が15%まで引き上げられていて、だから「あなたは消費税のことを考えずに買い物できてうらやましいわ」なんて、ホストファミリーのママに何度もいわれたっけ

イギリスでは、庶民の暮らしにも、サッチャー政権の改革の大ナタが容赦なく振り下ろされていた

なぜ労働組合を解体するのか、と激しくののしる妻。労働者が、使用者側と肩を並べて対話できる組合という組織の解体に夫が力を貸す、そんな現実がどうしても受け入れられない




主婦は特権階級

二人が暮すのは、イギリスのコッツウォルズ。夫はその田舎町に、ロンドンから時々戻ってくる。重厚でクラシカルな室内を、落ち着きなく歩き回り、狐に庭を荒らされたと、繰り返し口にする夫

田舎町に、大きな家と広大な庭を持つ特権階級の人々。やがて、二人の言い争いから、夫が上流階級出身者であることがみえてくる

その上流階級の暮らしぶりを妻が語り出す。義父にはもう一つの家庭がある。けれど、誰一人そのことには触れない。皆、そのことを知っているけれど…。誰もが、特別な階級に属す一人として、家族の一員として、それをやりすごしている



いつだっただろう、”日本の主婦は幸せだったんだぞ”、そんなことを言われたことがある。夫と子どもの世話をして、食事を作り、子どもの教育に責任を持ち、家を管理する役回り

そういえば、イギリスの上流階級のその妻と、日本の主婦は、どこか重なるところがある

家庭は創り上げていくものだと信じていた。けれど、家の中はスカスカ。確かに、わたしは賃金労働をしなくとも、3度の食事ができた。働きに出ずとも、生きていける特別な場、そこのところがよく似ている。あのイギリスの上流階級の妻の生き方に

そして、わたしたちもまた、あの上流階級の夫婦のように喧嘩ばかりした


疲れてるって、いつもそればっかりじゃない!

家に居るのは楽???

さっきよ、帰ってきたの、11時

点滴打ってもらって

…もう寝たよ

明け方だって、目なんて覚めないじゃない

咳、止まらないんだよ!

疲れた??

自分だけ??

じゃあ、どうすればいいんだよって…

だから、どうしてもっと早く帰ってこれないの!


政治の話しなど一言も飛び出さなかったけれど、政治家の夫がロンドンからたまに帰るように、夫も、日付が変わるちょっと前、当たり前の顔をして帰宅した

来週から出張、今回はシンガポール、1か月ぐらい。そんなことを、ぼそぼそと口にする。事後報告。そして、いつだってそれは決定事項


夕方と明け方、コンコンと音がはじまり、それが、コンコン、コンコン、コンコンと長引くと、やがてヒューヒューと喘鳴になる。耳をふさぎたくなる

そりゃ、知り合いも友達も居たけれど、それでも、語り合える人など居なかった。わたしに背を向け、世界をまたにかけ、仕事にまい進していく夫。きっとドアノブを離したその瞬間、夫には目の前の世界しか見えていなかったはず

後ろにも、前にも進めなくなった。目の前に道があるのに、わたしの道だけが見えない。あるのは、大きく広がり続ける夫の道だけ。それは、舞台の上の妻と同じ。わたしはあなたと同じ、ずっと独りだった

”日本の主婦は幸せだったんだぞ”、そう微笑んだあの人は、わたしを知らない。涼しい顔をしたわたしが、ずっとひとりぼっちだったことを

日本の主婦は、イギリスの特権階級の妻と似たところがある。そう、わたしたちは、どこか似たもの同士





言ってはならない一言

力関係にはゆらぎがある。それが二人なら、時に、そのバランスは偏る。そして、もしも、その偏りが固定されてしまったなら…

イライラと妻の言葉に反応しつつ、居間とキッチンを行き来する夫。核心ばかりを突き、政治家のように手を緩めようとしない妻。それでも、部屋を歩き回り、言葉をさがし、律儀にそれを投げ返す。それは、本物の政治の場に生きる政治家ならではの辛抱強さ


と、どうしたわけか、その政治家の夫が口をすべらせた

君の周りには誰もいやしないじゃないか…。 誰もいやしない。居るのはわたし一人。ほら、たったの一人じゃないか…

知っているだろうか。喧嘩には作法というものがある。決して真実に触れてはならない。そう、それが喧嘩の作法。ポロリとこぼれたその真実は、たとえうっかりでも、もう元にはもどせない

すでに初老と化した妻。19世紀のイギリス小説の主人公のように、美しい田舎町で暮らす特権階級のその人には、欲しいものの全てが手に入る。それなのに、たった一つだけ、肝心なものが手に入らない。それを口にしないまま、妻は年を取り、お酒と親しくなった



けれど、わたしはあの日、自ら真実に触れた

君のために…。君たちのために…

繰り返し、そういわれた

仕事を前に、夢中で働く夫の心に、君や、君たちがどれほど占めていたというのだろう

スカスカなわたしたち

君のため、それが真実なら、わたしはもっと笑っていただろう。君のため、それは便利な言葉。だから、特権階級のあの妻のように、わたしもまた、笑わなくなった

君のために…。君たちのために…

そう、わたしはもうずいぶん前に気付いていた。それは、あなたのため。そして、それは、人を黙らせるとっておきの言葉。どうにも動けないわたしを置いたまま、広い世界を闊歩するあなたのためのとっておきの言葉

だから、大きな仕事をやり遂げて帰ってきても、わたしはもう、ねぎらいの言葉を口にしない。わたしの傍から奪っていった時間で、あなたがやり遂げていく大きな仕事

君のために…。君たちのために…

そう、それは、きっと、あなたのための言葉

行き場のない臆病なわたし。どんなに喧嘩を重ねても、言葉など届かない。繰り返し言い争いながら、それでも、家を出ていけない臆病なわたし

もう、ずいぶん前から気付いていた。だから、ようやく真実を口にした。それは、考え抜いて持ち出した真実を告げる言葉

あのまま年を取り、お酒と親しくなっていたかもしれないわたし。あの人のように

けれど、わたしは自ら真実を口にした


華やかな政治の世界。そのトップの側近として、我が道を突き進む政治家の夫。かたや、急進的な社会変化に強いアレルギー反応をおこしながら一人家に居る孤独な妻

遠いイギリスの30数年も前の一組の初老の夫婦、その姿が、崩れたパワーバランスのわたしたちと、重なってみえた





どちらかの人生が優先されるということ

真実に触れてはならない、それが喧嘩の作法。なぜなら、真実には、人を揺り動かすパワーがあるから。そして、それは、時に最後通告になる


舞台に立つ妻には、孤独がはりついている。言われなくても、誰よりもそれを妻は知っている。君は独りじゃないか、だなんて。だから、妻は抱える苦しみを吐露しはじめる

深く胸をえぐられてしまったから

真実は、時に、人の体を切り裂く

秘め続けてきた鋭い痛み。誰とも分かち合うことも、慰め合うこともできない強い痛み。繰り返すのは自責の念。正視することなどできない

ところが、二人は、そこに大切なものがあったことに気付く。いきなり大きく開いた傷口が現れて…。そう、妻だけじゃなく、夫もまた、触れることのできない大きな傷を抱えていた

真実には、夫婦という形を一瞬で壊すパワーがある。けれど、真実には、夫婦を再び創り上げようとするパワーもある



夫とわたしのパワーバランスもまた、元には戻せない

全ての大人が属すあらゆる階層を覗いてみたけれど、私は、世界のどの階層にも属してはいなかった。わたしが属しているのは、大人の階層に属す夫のぴったり斜め下。そう、特別枠。わたしは付録。大人の社会の付録のようなもの

外に出ても、労働力の支配にからめとられる。それは、経済的に必要な生産資源に近づこうとするわたしを、決して受け入れてはくれない。そう、わたしはすでにそこから排除されている

君のため、と言いながら夫は働くけれど、そこには確かに彼の生きがいがあった。中毒性を帯びたそのやりがいは、階層の外側の付録のわたしにも透けて見えていた


もちろん、それはどこの家庭でもそうで、だから、それは普通のことで、当たり前のことだったのだけれど…

人は、妻が不機嫌でも仕方ないという。女は妻になったとたん不機嫌になる、誰もがそんなことを口にする。気にすることはない、うるさい文句は聞き流し、目をつぶれば、また朝がくる。気にすることはない、それが夫婦というもの。気にすることはない、それでも妻はどこにも行きやしない。羽はちゃんともいであるのだから、と





雷に打たれたように

わたしはあの日、ゆっくりと真実を口にした。喧嘩には作法がある。けれど、わたしはもう戦わない。真実はもうしまっておかなくていい

結果は誰にも分らない。だから決意が必要。初老になる前、お酒と親しくなる前、臆病者のわたしは、ようやくそれを選択した


すると、夫に、小さく何かが届いた。はじめてのこと。ここは孤独でガランとしている、それが夫に少しだけ届いた。3度の食事だけでは生きていけない。もう一度、自分で歩きたい。ここはわたしには孤独すぎる、と。家族になりたかったけれど、もう、それも今となってはどうでもいい、と

決めるのも、動き出すのもわたしの方。だから、臆病でも、それを口にした。そう、夫に失うものなど一つもないのだから


それなのに、真実の言葉は、予期せぬ形で、夫とわたしを向き合わせた

そして分かった。夫もまた、どこかで知っていた

たとえ、夫が態度を変えても、たとえ、夫が考えを変えても、妻であるわたしの置かれた環境は変えられない。たとえ、夫が育児や家事に関心を寄せたとしても、それでも環境は変えられない

だから、夫は繰り返し口にしたのだろう

じゃあ、どうしろっていうんだよ!

それを変えたいのなら、制度や法律、そして社会の構造を変えるしかない。口にしたことはなかったけれど、本当は気づいていたのかもしれない。もしや、どちらも、誰も悪くはない、ということを

じゃあ、どうしろっていうんだよ!

夫が何度も口にした、あの言葉

俺にどうしろって言うんだ!


夫もまた、この大きな社会の枠組みに組み込まれた小さな個人だったのかもしれない。20数年もの間、まるで宿敵のようだったわたしたち。それなのに、わたしたちが戦っていたのは、同じ敵だったのかもしれない。個人で相手にするには大きすぎる敵。見えそうで見えないその敵は、夫の背中を通り越し、その向こう側に広がっている

真実が、そんなことを語り出した

真実を告げる言葉には、夫婦の形を一瞬で壊すパワーがある。けれど、真実には、夫婦を再び創り上げるパワーもある。それを口にした結果は誰も知らない。それでも、そこにわずか1%の愛が残っていたなら、それは、再生へと向かう力になるのかもしれない


その日から、わたしたちは同志になった。夫婦間のパワーバランスのゆがみは、どちらかを犠牲にする。互いが幸せなら、きっと、多くの人が孤独から救われる、そんなことに気付いたから

あのハンサードの妻と夫のように



#映画感想文

#一人じゃ気づけなかったこと



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