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女性の道はどんどん狭くなる  属性と年齢


それは、わたしが40代で学生になったときのこと。そこでわたしは同世代の働いてこられた女性と出会い、瞬時に「勝ち組の主婦」枠に放りこまれた。なるほど、主婦の実態は外からはみえにくい…

きょうはそんなお話しを。



主婦って…

わたしは派遣や英会話講師や塾講としてずっと働いてきた。それでも人はわたしを「主婦」と呼ぶ。それから働いているはずでも、時に人はわたしを「働かない人」に振り分ける。

で、わたしはといえば、「わたしたちの税金で…」という強い言葉に驚く。そして戸惑いと共に体のどこかが震えてくるのを感じる。

それなのに、わたしは何も言えずに目をそらし、そして何も言わない。

わたしが引っ掛かかるのはここなのだ。

確かにわたしは被扶養者だ。フルで働けなくなくなった理由や、稼げない理由なら山ほどあった。好きで主婦として生きてきたわでもない。ましてや誰かに迷惑をかけようなんて思ったことすらなかったはずだ。

それなのに、なぜかそんなことがうまく言葉にできない。




主婦のパートは創り出された働き方


ところが大学で、

主婦のパートは、もともと労働市場で人手不足を埋めるために創り出されたこの国特有の働き方。主婦は家計の補助的な働き方として、低賃金や不安定雇用が社会問題にならないまま放置され続けてきた

出典:※富田積子1987『女子労働の新時代』東京大学出版会

そんな言葉に出会った。

そう、これが、わたしの働き方や生き方を説明する言葉だった。

そんなこと、母やわたしの周りの人は誰も知らなかった。

心理学の本にもビジネス本にも書いてなかった。

社会学でようやくそんな一文に巡り合えた。書かれたのは1987年だ。もう随分昔の話だ。

けれど、それは今も続くパートの世界だ。

そんな頃から、もしや、ちゃんと働けないことを悩んでいたのはわたしだけじゃないのかも…と思うようになった。




でこぼこ道を歩きはじめて

わたしは初職から数回の転職の後、結婚前後で派遣社員としても働いて来た。

新卒で入社したメーカーでは、男性の多くがたばこを吸い、なかには就業前にジョリジョリと髭をそる上司もいた。

女子だけのお茶当番もあって、30分早く出社し、机ふきと日に2度100個ほどの湯飲み茶わんの主にお茶だしをした。たまに大きな茶碗に女子の湯飲み茶わんが入りこむと給湯室は女子の悲鳴に揺れた。

それから、技術室の入り口に置いてある複写機の前に立つと、ちょいちょいお尻を触られた。ハラスメントという言葉さえなかった1980年代の話。

その会社で、わたしは仕事がとても面白いことに気付いた。均等法が誕生する数年前のこと。女子は全員一般職で、配属された輸出専門の部署で任されたわたしの仕事は部品を欧州へ送る、アジアの工場で完成した製品を欧州へ送ること。貿易の面白さにハマって、よく本を買っては調べものをした。



道は閉ざされていく

それから3年ほどが過ぎたころ、「そろそろ君も故郷に帰った方がいいと思うよ」なんてアドバイスする先輩があらわれた。いきなりの変化。

女子にのみ45歳定年があるのは不当だと民事に訴え、福岡地裁がこれを無効とした「福岡水産荷役事件」(1981)  

出典:※富田積子1987『女子労働の新時代』東京大学出版会

これは、わたしが転職に踏み切る数年前に出された判決。女子だけに30歳代~40歳代定年制がのこる社会にわたしはいた。

働き続けることが極めて困難だったあの時代、わたしたち女性にとって、結婚か転職かはリアルな悩みだった。

それに、女子は食べていけるほどは稼げない。突き詰めて考えれば、生きていくために多くの女性が結婚をした。そんな時代、25歳過ぎるとクリスマスケーキなどと揶揄され、女子はけっこう堂々といじられていた。

そうしてわたしは落ち着かない気分になっていった。




非正規になって

数回の転職を経て、ついにわたしは非正規社員になった。その会社では仲間には恵まれたものの一年契約。それまで正社員だったわたしにとって、当たり前だと思っていた正社員としての保障の多くが消えてしまった。

社内での仕事内容は正規も非正規も同じで、残業に次ぐ残業だった。それまでのどの会社で働くより会社に貢献した。けれどと身分は非正規。そのことがどうしても嫌だった。非正規になってしまったことを人に知られるのも嫌だった。後ろめたさが付きまとう。

やがて、「どうしていつまでも東京に居るんだろう…」そんなことを思うようになった。とはいえいまさら帰る場所があるわけでもなく、だんだんと社会から取りこぼされていく、そんな不安がつのった。

そんな頃、アメリカでは大人が、女性たちが大学に通い、新たに獲得した専門知識を武器にキャリアアップをはかっているということを知る。私は夢中で留学に関する雑誌を読むようになった。そして留学資金を貯め始めた。

それから数年後、学生ビザを取得したわたしはいよいよアメリカ東海岸へ留学することになった。




選んだのは結婚

それから出発まで、わたしは派遣社員として大手総合商社で働いた。ところがそこで留学帰りの元OLたちが働いていた。

ちょうどOLの留学ブーム。夢をかなえた先人のはずが、留学を終えた女性たちがどうしたわけか派遣で働いている。

そう、留学帰りの女性をまっていたのは、就活のチャンスすらない厳しい現実。

「そんな歳で留学だなんて…」と心配していた田舎の両親。世の中を知っていたのは親の方だったのだ。

誰もわたしの人生の責任など取ってはくれない、それくらいは分かっていた。言葉にしたことはなかったけれど、わたしはあの時、生きるために結婚を選んだのだ。


おわりに

それから20数年後大学生になったわたしは主婦の働き方に問題があることを知る。主婦に問題があるのではなく、主婦の働き方に問題があったのだ。

「どうして主婦は働かないんだ!」とか「わたしたちの税金で…」とか「まったく主婦は…」などと言われてもどうにもならなかった。だって何も知らなかったのだから。ずっと苦しんで、さらに批判されてきた。

わたしたちは年齢で、属性で、社会が閉じるのを見てきた。




*写真は、みんなのフォトギャラリー、ありんこ | 瀬戸内移住さんよりお借りしています。ありがとうございます。

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