noteでエアハグしよう💖💖 家族から、そしてまた家族へ
noteにやってきて半年が過ぎ、いつも元気に記事をアップされている方も、社会で大活躍されている方にも、その人にしか分からない大切な繋がりがあって、大切な思いがある。
noteを旅しながら、今日は一人、そんなことを思うのです。
わたしは、子どもがまだ小さな頃から子どもとハグしています。自分がそうして欲しかったから。気軽に、空港で、新幹線乗り場で、家で、結婚式場で、家族とハグがしたかった。だから、わたしはまだ子どもが小さなころからハグをしています。勿論、今も。
笑っちゃうのですが、喧嘩した日の朝、娘はわたしを避けるように玄関を出て行きます。そして、翌朝、失った一日分を取り戻すかのように、ギュッとハグして家を出ます。
6年前、わたしは父を亡くしました。
そのちょっと前、故郷で父の傍にいて、少しの間、父の介護を手伝いました。
3月末、東京の我が家に母とともに遊びにきた父。一緒にディズニーランドへもでかけて。そんな父が、6月には手の施しようのない末期のがんと言われ、それから7月、父に会いにわたしは故郷へ帰ったのでした。
覚悟はしていたものの、優しく穏やかな言葉を選んで話すあの口からは言葉が消え、まめにメモを取るごつごつと大きく厚みのある温かいその手は、すでに動かせなくなっていました。
そんな父が、わたしの帰省を喜び、まるで大切な宝物を愛でるように、愛おしそうにわたしを何度もみて微笑むのです。
それから、帰省した日の夜、気づきます。
母が、父の手首と自分の手首を、一本の帯紐でつないでいるのです。そして、父がかすかに動いただけで飛び起きます。父の容態が急変するのを恐れてのことでした。80代の2人が、そんな暮らしを送っていました。わたしは愕然とします。あれほど毎日電話していたのに、母はそんなこと、一度も口にしていません。父の傍にいる母の体は緊張してかたくなり、遠くなった耳で、普段の暮らしにさえ不自由しているというのに、小さな物音に飛び起きるのです。
それでも、帰省から3日目の夜、母はわたしの隣で、夜、安心したようにぐっすりと眠りました。
父は病院から処方される吐き気止めをひどく嫌がり、これを飲むと決まって体がしびれ、舌も手も足も動かせなくなると訴えていました。話せなくなった舌で、動かせなくなった手で、それを必死で伝えようとするのです。だから、たとえ嘘でも、父のさいごのその望みをかなえてあげたかった。
けれど、わたしは普段実家にいません。毎年、両親を東京に招待するだけの、ちょっといいとこどりの迷惑なきょうだい。そんなわたしがちょっとだけ帰省して、父と母の望みを叶えてあげるなんて、どう考えても無理でした。薬を飲む、飲まないで、父と母は既に大きな家の中で浮き始めていて。そこへ、セカンドオピニオンを持ち出すわたしが加わったのでした。そんなつもりはなかったのですが、いつの間にか、きょうだい間に確執が生まれ、やがて父と母とわたしは孤立していったのでした。
そんなある日のこと。皆で話し合い、父とも約束をして、そして父を病院へ連れて行きました。
そこで、あれほど父と約束したはずの、あの薬が点滴されてしまいます。それは父にも母にも、わたしにも知らされてはいません。仕方ありません。それしか手がなかったのでしょう。そして、家に戻った父は、ついにピクリとも動かなくなり、目も開かなくなりました。
その翌朝、わたしは東京の我が家へ帰ることになっていて、そんな別れの朝のこと。
母が玄関に立つわたしに向かって、奥の居間のほうから歩いてきた母が、両手を広げたのです。
思わず、わたしは母を抱き寄せました。生まれて初めての、母とのハグ。
父親を戦争で失い、父のいない人として大きな家に嫁いだ母。余計なことは口にせず、泣き言などいわなかった母。そんな母が、不安に震え「お父さんが…」と口にしたのです。
わたしは力なく笑い、母をハグし、それから、母の体をそっと離し、「じゃあね。またすぐ来るからね」、そういって家を後にしました。
ところが、飛行機の座席に腰をおろした途端、涙がこぼれ落ちるのです。ぽたぽたと。ハンカチを膝に置き、それをそのままに、目を閉じたまま、その涙の意味を探しはじめます。
すると、大好きで、誰よりも愛する父がこの世を去ろうとしていることではなく、何一つ自分で選ぶことができなくなった不憫な母の姿が浮かんでくるのです。
年を取り、腰の骨を数本失い、小さな体はより小さく丸く縮み、顔には、不安と恐れが棲み付いてしまった母。
そんな母を、あの広くて古い大きな家に、動かなくなってしまった父と2人置いてきてしまった。ぽたぽたと落ちる涙が、そのことをわたしに教えてくれました。
恨んだ日もありました。
なぜ、わたしだけ何もしてくれなかったのと。
小学校で、中学で、ひどいいじめに巻き込まれ、ほとんどの親が学校へ日参したときも、母が学校へくることはありませんでした。本当は手を差し伸べて助けて欲しいことが山ほどあったのに。
思えば、父と母はいつだって、あなたがそう考えて、そう決めたのなら、それが正しいんだろう、そう言うのです。
初めて夫をつれて実家に帰った時も、父は、「娘はこれから先、あなただけが頼りなんだから。ちゃんとお願いしますよ」なんて、猫の子でもくれてやるように、一ミリも勿体ぶらず、夫とわたしの結婚を認めたのでした。
それから、結婚して、10年、20年、30年と時を経るごとに、父は、「さすがは貴方が選んだ人だ」なんてことを言うのです。
それから、わたしが51歳で大学を卒業した年の3月、父は新しいスーツを新調して、母とともに卒業式にでるといいます。結局、両親とわたしの家族総出で迎えることになった卒業式。大袈裟に動く小さな集団となって、当事者のわたしは、かなり戸惑ったのだけれど。
父は、ただ一人大学を出なかった娘が気になっていて。式が終わると、「貴方にはずいぶん苦労を掛けたね」なんて言うのです。ただ、わたしはスポーツばかりしていて、勉強なんて全然していなくて、大学には行かないって自分から口にしていて。それなのに、父は、それを、なんどもありがとうで返すのでした。
わたしは、いつでも穏やかで、人のために尽くした父を尊敬していて、そんな父がこの世からいなくなることがほぼ決定していて。それなのに、父に対するその別れがたい気持ちより、恨んだ日もあって、好きでもなかった時も長くて、よくわからない人だと思っていた母、そんな人を思って、涙が零れ落ちてくるのに驚きます。
かけがえのない人、とめどなく流れ落ちる涙が、わたしにその答えを教えてくれていました。
それから、あの広くて古くて大きな家で、母は亡くなった父に語りかけながら、一人、数年を暮らします。そんな母が、台風の災害にあい家に住めなくなり、昨夏、娘のわたしのところへやってきました。ショックと疲労が重なり起き上がれません。
そして、2ヶ月が過ぎた日のある朝のことでした。母がわたしを呼ぶのです。それはいきなりでした。正座して両手を床につくと、母はわたしにこう告げました。「どうかここに置いて下さい」と。何かを固く決意したように、わたしに深々と頭を下げたのです。
けれど、それは言うほど簡単な話しではありません。それから、わたしは家族と何度も話し合い、何度も確かめました。ほんとうに、母と暮らせるのだろうかと。わたしはわずか18年しか母と暮らしておらず、母を良くは知らないのです。
ところが、家族が、わたしより先にそれを了解します。「行くところがないんだろう、何とかなるよ」と。わたしよりずっと優しいわたしの家族。いろいろとあったけれど、今では広い世界の誰よりも、安心して語り合える夫と子ども。そんな彼らが先に心を決めたのでした。
最後まで疑ったのが自分の気持ち。
ここからはじまる不透明な未来。何も持たなかったからこそ、大切に育んできた自分の家庭。その形は、ここから先、大きく変化していくのだろうか。
それをわたしは受け入れられるのだろうか、と。
そして、ようやく決めました。母が最期に暮らす家は、わたしたちのこの家にしよう、と。
教養もなく知性もない母が、娘の傍がいいといい、85年も暮らしてきた故郷を捨て、娘とここで暮らしたいというのです。いいよ、そうしようね、ようやく、そう答えられた日、「こんな幸せなことが、この年になって最後に待っていたなんてねえ」、と、母が小さくつぶやいて。
教養もなく知性もない母が、だんだんと柔らかい顔になり、ポツリポツリと自分の人生の小さなエピソードを口にしはじめて。それは、まるで歴史の教科書を開くかのようで。わたしは、その小さな物語に静かに耳を傾けます。
教養も知性もない母が、娘と同じ場所から新聞を読み、娘の好きな本を手に取り、娘と同じ場所で笑い、娘と同じ場所で涙します。そして、母は、一人静かにリビングで植物を愛でるのです。
教養も知性も無いと思っていた母は、力強い筆跡で、転居のための山のような書類に目を通し、文字を埋めていきます。そして、わたしはようやく知るのです。
わたしは母を知らなかった、と。
母は、母の置かれたところで、生きるために、生き抜くために、何も語らず、余計なことを口にせず、ただ懸命に生きてきた。たとえそれが間違いだったとしても、母にとっては、それが最良の、あの場所での生き方だったのかもしれない。そんなことを思うようになり。
そして、あれからわたしは、段々とわかり始めています。
母は自分を守るために、口を開かなかったのではなかったのかもしれないと。自分の口にした言葉が、巡り巡って、自分の親を、自分の夫を、自分の子どもたちを、不幸にしてしまうんじゃないか、そう思っていたんじゃないかと。
語れなかったんじゃない。母は語らない生き方を選んでいたのだと。
母と暮らし始めて1年半。わたしは何も語らずに生きてきた母のことを、ようやく少しだけわかりはじめています。
そして、いつか、母がわたしの前からいなくなった時、わたしはきっと、思い出すのでしょう。
あの日、小さくなって不安げにわたしを見た母の姿を。思わずハグしたあの日のことを。わたしはきっと、なんどもなんども思い出すのでしょう。
※写真は、みんなのフォトギャラリー、コノハ@写真と言葉さんよりお借りしました。コノハ@写真と言葉さん、ありがとうございます。
この記事は、川ノ森千都子さんのこんな文章に誘われて書いています。
クリスマスや年末年始に、大好きな人にハグができないあなたをハグしたい。それは、川ノ森さんのお気持ちからスタートした試みです。企画ではありませんが、note上で交わし合うエアハグ↓↓ 💕 あなたも、あの人に、あの家族にエアハグを送りませんか💖
そして、わたしもそんな仲間に加えて頂きました😊
まず、ご紹介したいのがハグ星人のけるぼん/音楽療法士 -心と体は音楽でつくる-さん。人の心を元気にしてくれるハグが、今は音楽療法の現場でできなくなっているといわれます。だからこそ、エアハグを応援したいのだと↓↓。
そんな繋がりから、昨日記事をよませていただいたときえもん@自宅介護者さん。まだお若いときえもん@自宅介護者さんですが、ご自宅でALSのお母様の介護をされています。大変な日々の中、それでも、目の前でおこっているできごとを、一つ一つ体の中に落とし込み、それをご自分の言葉に変換して語られているのです↓↓。
そして、わたしこそが、このnoteで救われた一人でもあります。
わたしは、以前、パワハラの記事の中で自身の体験を書いています。それは6年もの間触れることさえできなかったわたしの体に埋め込まれた深い傷。それができたのはみかんママさんとの出会いがあったから。みかんママさんは幼い頃、酷いいじめにあわれていますが、それを記事にされました↓↓。
こうした出会いがなければ、わたしは過去の傷を抱えたまま暮らしていたはずです。その記事がこちらです↓↓。
それから、みかんママさんの言葉に励まされているとおっしゃるのが横山小寿々★古妻日記さん。彼女はとても素敵な言葉を発信されていらっしゃいますが、今難病を患い、一時は生きる希望さえ途絶えそうになったとおっしゃっています。
そんな彼女をはげましているのがご家族。娘さんが、どんな書店にも売っていない愛するママに捧げるために書いた、世界一優しい物語をママに送られているのです。是非、読んでみて下さい↓↓。
まだまだ続きます。
日頃、そんなことはおくびにもだされない気丈な方々。気付きもしなかったお二人がいらっしゃいます。
そのお一人が、ご病気を抱えながらも、日本語教師として学ぶ人たちを熱く応援しながら、前に向かって進んでいらっしゃるみおいち@着物で日本語教師のワーママさん↓↓。彼女の頑張りに、わたしは大きなエネルギーを頂きました。
それから、バリバリとお仕事と子育てをされていて、暮らしに潤いを忘れない、実にスマートで柔らかいお人柄のセイコさん。サラリとおっしゃるのですが、セイコさんも大変なご病気をされていた。そのことを最近の記事で知りました↓↓。わたしは、セイコさんのそっと手を差し伸べてくれる優しさが好きです。
最後に、病院の先生でいらっしゃる内科救急医チャーリー@医学教育さん、大変な今、病院で働かれながら、少しでも多くの人に医療について正しい知識を身に着けて欲しいと、記事を書かれています。
今年、規制が緩和され、オンライン診療が可能になっています。わたしの母は、お世話になっている大学病院で、既に2回電話受診をしていただいていますが、まだ全ての医療機関でそれが始まっているわけではないようで、そのことについても書かれています。詳しくはこちら↓↓をご覧ください。
noteには、沢山の素敵な方がいらっしゃいます。
明日は、また、きっと新しい出会いがあるのでしょう。
ここで今繋がっている人たちが、クリスマスやお正月に、元気でやってる?とエアハグを送り合う、それは、とても素晴らしい試みだと思うのです。
この試みはとても自由です。誰でも参加できます。締め切りは1月3日。
エアハグの記事を書いたなら、川ノ森千都子(ちづこ)☘️かんたん料理と家族と旅とアートが好き🧡さんの記事に出向き、コメント欄に「ハグして」「💗」「ギュッ」などを書き、それを気づいてもらえたら、あなたのコメント欄にちづこさんのコメントが返ってきます。もちろん、他の参加者が返すのもOK。いや、できれば他の参加者さんに、積極的にそれをやって欲しいともいわれています。
「ギュッ」とか「💗」でいいそうです😊
仲間に加えて頂きました。
ギュッ🎅💌💖💖💖
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