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20年ぶりの再会 / 「働く」がその人を輝かせていて

男性が「働く」ことは、この国では当たり前だけど、女性が働き続けるってどうなんだろう

かつて後輩だったその人と数十年ぶりの再会。そこで感じた小さな衝撃。そんな数時間のお話しです




80年代と就活

もう今となっては思い出せないけれど、学業を終えてOLになったあの若き日、キラキラと輝く東京で、わたしはいったい何を考えていたのだろう

あの頃の就活はゆったりとしていて、四大男子は大学の先輩、ゼミの先生、校内に貼られた求人、自宅に送られてくる就活ガイドブック、そんなものをたよりに面接へでかけていました

それはまだ「均等法」のちょっと前

四大卒の知人女性は、当時コネしかなかったといいます。四大女子は、結婚退学する人や卒業後花嫁修業する人がざらにいて、ひどく企業に不人気だったのです。まるで大正時代の話しのようですが、それは現在50歳代後半の女性たちの若かりし日の話しです

そういえば、初職の会社に四大卒の同期がいました。けれど皆一般職。均等法より数年前のあの頃、女子は銀行や百貨店なら高卒、総合商社なら短卒と相場はきまっていて、女性の若さにはダイヤモンドさえ霞むほどの価値があったのでした

そんなわたしたち世代が、若者の就活にアドバイスなどできるはずがありません。就活サイトが登場したのは90年代中頃。きっと、多くの親はエントリーシートさえ見たことがないはずです

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総合職女性誕生のちょっと前

少し前のことさえ、もしや若い人には見えにくいのかも、そんなことを思う時があります。なぜって、なんとしても変わらないところのある国だというのに、恐ろしく変わってしまうところがあるのもこの国の特徴なのですから

総合職女子が誕生するちょっと前、聖子ちゃんカットやハマトラ、スキーやサーフィン、OLの海外旅行ブームやセミナーブームがありました

それから、「プラザ合意」があった1985年、”日本だけもうけていてけしからん”と竹下首相がニューヨークのプラザホテルに呼び出され、円安に歯止めがかけられると、あれよあれよという間にこの国はバブル経済へと突入しました

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総合職女子の誕生

その「プラザ合意」の翌年、「均等法」が施行されますが、その「均等法」、はっきりいって四大卒女子のための法律でした。それなのに学校基本調査をみてみると、女子四大進学率は1990年で15%ほど。そんなわずかな四大卒女子のいったいいかほどがバリキャリを目指していたのでしょう

その頃、正社員から一年契約のバイト社員に転職していたわたしは、その会社ではじめて均等法第一世代の総合職女性と働きはじめます。その頃の様子といえば、

”均等法下採用第1号になってから、はや3年目。入社当時は、まるで別世界の人間が登場したかのように、注目されて、マスコミの引っ張りだこ。当社の目玉商品、四大卒の女性は男並みに働いてもらってます、との宣伝材料になった”   引用:雑誌 日経ウーマン1988年8月号 読者投稿

と、総合職女子はちょっとした騒ぎになるほど注目されていました。いまでは信じられませんが。

で、そうじゃない普通の女子はといえば、

”私が現在働いている会社は資本金70億円の大企業。「にもかかわらず」というべきか、「だからこそ」というべきか、女性社員の地位は信じられないほど男性社員と差別されています。まず女性社員は定年までヒラのままです。退職金は1年で1万円。同期入社でも10年経つと、男性と女性とでは年収で200万以上の差が出てきます”   引用:雑誌 日経ウーマン1988年9月月号 読者投稿 

という感じ

同じ働く女性でも、それはもうぜんぜん扱いが異なっていました

それから1989年、昭和天皇が崩御され、消費税3%が実施となり、その年天安門事件もあって、ベルリンの壁が崩れます。日本だけではなく、地球全体で時代がクルリと変わった、そんな時期でした

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バブルから氷河期へ

それからまもなく、夫の転勤で香港暮らしがはじまると、わたしは毎朝CNNでエルトンジョンとジョージマイケルの『Don't Let The Sun Go Down On Me~』を耳にします

と同じ頻度で目にしたのが、日本車に飛び乗り、木製のハンマーで車を叩き割る人の姿でした。舞台はアジアではなくアメリカ。半導体や車の輸出が好調だった貿易黒字国日本に対する激しい抗議がアメリカでおこっていたのです。不思議なこともあるもので、歴史のページをめくってみると、その頃、すでに日本ではバブルがはじけ、経済は目に見えて力をなくしています


均等法が施行されてから10年、大企業でさえ女性の採用を手控えるようになり、ほんの少しだけ光が差しはじめたと思ったら、リーマンショックがやってきて。女性が企業に採用されることがどんどん厳しくなっていきました

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懐かしい人との再会

そしてある日、独身時代共に働いていた職場の後輩と会うことになりました。総合職として入社してきたその後輩女性と、思えば約20年ぶりの再会です。二人でランチをしようと約束したのです

早朝、激しく降っていた雨は昼にはあがり、わたしは傘を手に店へはいったのですが、テーブルに立てかけようとしたとたん、傘が倒れて店内に大きな音が響きました。それから、ランチを終えて席を立とうとしたとき、体が傘にふれ再び店内に大きな音が響きました。さらにレジへ向かう途中、手から滑り落ちた傘が、乾いた音を店内に響かせたのです。少し前を行くかつての後輩が、後ろをちらりと振り返りました


それからわたしは一人電車に乗りました。すると、昔観ていたテレビドラマのワンシーンが頭の中を流れはじめたのです

『金曜日の妻たちへ』。それは、自由を求めて学生運動に参加した世代の女性たちが、なぜかこぞって専業主婦になった時代の話しでした。専業主婦の妻と夫たちが暮らす郊外の広い家々で起こる恋愛ドラマ。どうにも気になって毎週欠かさず観ていた懐かしいそのドラマには、忘れられないシーンがありました。それは二人の女性の再会シーン

一人は主婦で、もう一人は働く女性

主婦のその人は、桜色のスーツ姿に光るものを付けブランド物のバックを手に待ち合わせの場所に急ぎ、一方の働く人は、長袖のシャツを無造作にたくし上げ、仕事帰りにパンツ姿でふらりと現れたのです

その時の二人の再会のシーンが、クルクルと頭を回りはじめていました

会った瞬間感じた二人の間に広がる空間

それはだんだんと確かな感覚となり、ぎこちなさが隠せなくなっていきました。共に結婚し、子育てをしてきたというのに、二人の会話が触れあう場所がみつからないのです

懐かしいあのドラマで、主婦が感じたであろう小さな失望。それはあの日のわたしには分からない感覚でした。けれど、運ばれてきたスパゲティを前に、弾まない気分に飲み込まれていくわたしには、その人の小さな失望が痛いほどわかったのです

どちらが良かったなんて、きっと神様にもわからないでしょう。けれど、人生を切り開いてきたその人には、静かな落ち着きが備わっていました

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働くこと

長い年月、わたしは夫を通して社会と関わってきました

そういえばその人は20数年前、本当は別な職種に就きたかった、そんな事を呟いていました。残業続きの毎日だったけれど、時に二人でショットバーやカラオケへでかけ、一緒に杏里のキャッツアイを歌ったりもしました。それはもう遠い昔の思い出ですが、その人はあれからずっと、第一希望ではなかったその会社で働き続けていたのでした

働き続けてきたかつての後輩は、部下を持ち、幾度となく転勤を経験し、大変な月日を過ごしながらも、どうにかやりぬいてここまで来た、そう言うのです

けれど、そんな言葉に、わたしがいったい何と返せたでしょう

少し潤んだ瞳で、上目づかいにわたしを見上げていたその人は、当たり前だけど、もうあの頃の幼さの残る人ではありませんでした


だから、思わずにはいられなかったのです。ああ、働くことは生きることだったのだと


※みんなのフォトギャラリーより、出雲千代|デザイナーさんのイラストをお借りしています。ありがとうございます。

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