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Long-term care。「一人でも大丈夫」なら、それはさいごの自由

みなさまお元気でしょうか?今日は、覚えていて下さる方がいるといいなと思いつつ、久しぶりにnoteの世界へやってきました。そのわけは、先日何気なく手にした一冊の本※に、人生の締めくくりが書かれていたから。考えてみると、人の最後についての情報は、探しに行きそうで、いかないもの。巷にころがっていそうで、ころがってなどいないもの。というわけで、最後の締めくくりが気になる方、そんな方と「看取り」について、おしゃべりしてみたいと思うのです。

※『在宅ひとり死のススメ』上野千鶴子 2021 文春新書



医師の言葉

父と別れたのは7年前。場所は病室。今では仕方のなかったことと思えるのですが、当時、処方される薬があわないと、父は入院と薬を拒んでいました。ところがある日、「このままでは家に警察が来ることになりますよ、それでもいいのですか」と医師に告げられ、状況は一変。病気と警察がダイレクトに結びつくなど思いもしなかったわたしは慌てました。そして、はじめて涙をみせた母に、その日わたしは、父の最後の願いを手放そうと伝えました。

父が亡くなったのはそれから2週間後。ただ、どうして警察だったのか知らずじまい。探しにいくこともありませんでした。それから7年が過ぎた先日、その答えが一冊の本※にでていたのです。

昨日まで元気だったのに、翌日死んでいた、というのを突然死、といいます。発見したひとは、119番ではなく110番するでしょう。そこから警察の介入が始まります。疾患もなく、死亡診断書を書いてくれる主治医もいない。となると異常死扱いで、解剖の対象になる場合もあります。

と。誰にでも起こり得る話しですが、お年寄りがよく口にする「ピンピンコロリ」が叶うとき、家族に迷惑がかかることがある、ということ。

事件性がないか、と周囲のひとたちが被疑者なみに扱われかねません…となると、突然死は、はた迷惑な死だとも言えます。

と。ただ、末期癌でも痛みのなかった父は、自宅で看取れたのかもしれません。きっとそうはしなかったでしょうが、たとえ警察の介入があったとしても、主治医に死亡診断書を書いてもらうこともできたはずです。警察と聞いただけで、思考回路が凍結した理由はただ一つ、何も知らなかったから。誰もがいつかは死ぬというのに、向かう先に何があるのか知らなかった。悔いがあるとすれば、そんな愚かな自分でしょうか。


家で看取る方法

病院死と自宅死の割合が逆転したのは1976年だといいます。わたしの祖母は80年代に自宅で亡くなっていますが、手伝っていた身としては、介助していた母の当時の苦労は十分すぎるほど知っています。

けれど、介護はかつてとは比べものにならないほど改善されているというのです。約20年前にできた介護保険が、介護の在り方そのものを変えたのだと。

要介護認定を受けると、ケアマネがつきます。疾患があれば訪問医と訪問看護師のサポートが付きます。そして、死後には死亡診断書を書いてもらえる。食べる、出す、に異常がみられる認知症のケースでは、そう簡単に事は運ばないのでしょうが…それでも、たとえそんな状況であっても、最後まで自宅で暮らすことは不可能ではないのかもしれないと。

そういえば、父に足りていなかったのは、この部分だったはず。86歳で、歩くこともままならなくなった父でしたが、介護認定など他人事。長い間、保険料を納め続けていたというのに、介護と自分をつなげて考えることなどありませんでした。さらに、かつて祖母の介護で、家の中に人が入った経験をもつ母は、他人が家に入り込むのをいやがります。けれど、制度化した介護であれば、家に来る人はその道のプロです。

それでも、自宅介護の大変さは今でもふつうに耳にします。わたしは知りあいのケアマネージャーさんに、その悲惨さを何度となく聞いています。自宅介護の場合、家族仲が悪く、家族が崩壊しているケースも少なくないと。けれど、介護保険ができる前と後とでは、少なくなくとも、自宅介護のようすはおおきくかわった、これは本当のようです。


命の向き

さて、要介護1の母と暮らしはじめてはや2年弱。少し暮らしが落ち着いてきたからでしょう。近頃、母の最期をよく考えるのです。けれどそれはまた、自分の将来のことでもある、そんな気がしています。

ところで、その本※には、

年寄りの容態が急変したり、死にかけの現場を発見したら…まちがっても119番しないことです。

とあります。高齢者に万が一のことがおきたとき、家族がすべきこと、それは、

■24時間対応が義務づけられている「訪問看護ステーション」へ連絡する。

■それで繋がらなければ「主治医」へ連絡する。

■それでもダメなら「ケアマネさん」へ連絡する。

そんな順番があるのだそうです。


そういえば、こんなことがありました。7年前、病院の個室で父の血圧が急激に下がっていく中、駆けつけた深夜当直の先生に、延命治療を問われたのです。とっさにお断りしました。それは、かつて父と延命治療の話しをしていたこともありましたが、それよりも知っていたから。

親に延命治療を施し、長い間苦しんでいる知人がいます。一瞬のうちに選択を迫られる延命治療。それでも、その先その治療がどれほど続くかは誰にもわかりません。始めることより、閉じ方が難しい治療です。かつて介助していた母でも、うっかり119番に電話してはじまるかもしれない延命治療の意味は、きっと本当には知らなかったはずです。


たとえ一人でも最後まで自宅でが叶うのなら

個で暮らす人の多いこの時代、自分の最後について考える人は少なくないはずです。けれど、それはたとえ家族が居ても同じかもしれません。この本※の著者は、介護保険の無かった時代には、在宅看取りは難しかったといいます。ましてや一人暮らしでは、在宅看取りなど想像さえできなかったと。けれど、今、それが叶う時代になったというのです。住み慣れた家で、家族に見守られ、あるいは夫や妻に見守られ、あるいは一人で、それができるようになったのだと。


身の周りのお世話から家事まで、足りないものをお支払いすることで補って手を差し伸べてもらえる制度、それが介護保険制度です。10年以上保険料を納めるわたしも、自らが保険にはいることで、介護のプロに看てもらえる権利をすでに獲得しています。と同時に、負担をかけてしまうかもしれない家族を、介護や介助という重労働から解放することも、保険が可能にしてくれそうです。

選択肢がある、それがわかっただけで、うれしいのです。人は必ず死ぬ日がきます。その日をもしも自分で選べるのなら、どれほどありがたいか。誰もが忙しい我が家で、母の介護のこの先はまだはっきりとはわかりません。けれど、義理の両親と夫を看取り、いまは穏やかに日々を過ごす母を、自宅で看取ることができるかもしれない、そう思えただけで、なんだかほっとしています。

願わくば、重労働を請け負っていただくプロの方々の賃金が、その内容に見合うよう改善してほしい、そう思うのです。そうした専門の方々がいてくださることで、健康な人は安心して働き続けることができますし、家族との別れも、ゆっくりと準備ができるというもの。そして、最後の時まで、人が自分の意志で生きられることは、一つの理想でもあると思っています。

※『在宅ひとり死のススメ』上野千鶴子 2021 文春新書

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