見出し画像

農業、田舎と情報と思想形成と

何を隠そう、日々アホみたいに小難しそうな屁理屈を捏ね繰回す俺は、ど田舎の農家の長男坊なのだ。

まだ俺は見習いのペーペーで、親父が現役でやっている。と言っても還暦の兼業。

そして慣行農法(機械、農薬、化学肥料を使った農業)で、組合で近所の農家と協力しながら米を作っている。うるち米(所謂食べる米)と、酒米(日本酒の原料)を作っている。併せて1町歩程。

あ、ちなみに自然農法については特別に否定したりはしていません。寧ろ、そう言う方々に教えを乞うたことすらあります。最近は交流もありませんが、田舎に戻るまでは毎年田植えに参加したりもしてました。ただ、我が家はずっと慣行農法でやってきたし、それを今更自然農法に変えるメリット以前に方法すら無いので、更に言えば所詮はセガレでしかない俺にそんな権限も能力も予算も技術も知識もなーーんにもないので、現状を肯定している状況ですね。そしてその面からしか書けないのでそうしているだけの話です。まあ、ある意味ネット上では自然農法の話は溢れていても、慣行農法の話は少ない(担い手の高齢化が原因かなあ。あとそもそも暇もないのかな)ので、希少性はあるかなと勝手に思っています(笑)

閑話休題。何となく、慣行農法はイメージ的に機械化したから楽になっていると思われそうだが、全くそんなことはない。機械化にも限度があるし、機械化してもそこに人間の運動能力が必要な面は多々あるし、相手は自然だから基本的にやるべきこと自体は無くならない。

そんな中、今日は久々の草刈りをやってきた。平地ならそれ程苦ではないが、法面は本当にきっつい。下から上に払う場合は腕がきっついし、上から下に払う場合は腰がきっつい。

もう腕が上がらないくらいヘトヘト。指は辛うじて動くのでこれが書ける程度。

ちなみにサムネの彼岸花は、刈らずに残したもの。

もうこんな時期だよ。今年も早えなあ。

さて、本題にそろそろ入るが、慣行農法の田んぼでも、自然の生き物はたくさんいる。今日も草刈りしていた際、コオロギや蛙等々が逃げ回っていたし、それを狙ってかサギもくる。

勿論この辺りの田んぼでは除草剤も農薬も使っている。だが生き物も強かで、稗(ヒエ)は生えるわ(稲よりスクスク育つ)、畦は草だらけだわでしっかりと育つ。ただ、一応は何もしないところよりはマシっぽいな、ってのは感じる。自然ってエグいくらい生長する草がある。またカメムシなんかもこれから湧くだろうし、下手したらウンカもやってくる。そして豪雨被害もありゃ、日照不足もある。今年は、いや今年「も」、日照不足で出来は悪そうな予感しかないらしい。

自然って、結局こうなんだよ。どんだけ人間が最善を尽くしたと言ったところで、それを超越したところから現実を突きつけてくる。

だから自然を相手にする職業なんかはもっと公的に支援すべきだと思っている。

そうしないとなり手なんかいなくなる。

おっと、話が逸れた。俺が今回言いたかったのは、

自然ってのは人間の意思程度じゃコントロールし得ないって話だ。

そして本来はその常識を農家が周りの人々と共有し、相互に理解した上で自然に逆らわないって常識を持っていた「はず」だ。

何故「はず」なのか。それは、俺が農業に僅かばかりではありながら携わって、他で勉強もしつつ思ったからであり、何となく、農業やってりゃそう考えると思ったのだが、

親父はそう言えばワクチンを打ったのだから、そんな常識は通じてねえ!!

と思ったからだ。

ではなぜその本来認知していた筈の常識が判断の基準から遠ざかってしまったのかを考えると、やはり俺と親父の違いを考える上で3つあると思い至る。

一つは世間体だ。

農家と言うのは、土地ありきであって、どこでもできるものではない。だから基本的に付き合いのある人は昔から馴染みのある人ばかりになる。だから、その世間体を考慮して、打つしかない。と判断したのだろう。そのような同調圧力がかかったのだろう。

では何故そのような同調圧力がかかるのか、と言うのが2点目だ。

それはやはりテレビの影響、それしかない。

ちなみに俺は今の仕事も居住地も昔からの馴染みが全くないところだから、深い付き合いの人もおらず、所謂世間体を意識することはあまりない。また、年齢的にもまだぎりぎり若者ぶれるから、打たないと言う選択肢を許容されやすいと言うのはあるだろう。

そしてテレビなんか殆ど見ない。確実に言えるのは、ニュース視聴時間より、Eテレではなかっぱを見ている時間の方が圧倒的に長い。だからテレビの話も日常的にしないし、コロナの話題も不安を煽ることより、その茶番を揶揄することの方が多い。

そして最後はやはり本だ。更に言うと、ゴーマニズム宣言だ。昨年の2月くらいまでは、コロナは警戒すべきヤバいもの、との認識があったが、そこにインフルエンザとの比較と言う手法を持ち出して、考える必要性を提示されたこと、そしてそれを考えているうちに、日本のダイヤモンドプリンセス号の対応を笑っていた欧米にあっという間に抜かれ、その後追いつく気配もなかったことにある。

この3つがあったから、俺は親父と違って農業が提示してくる常識を、現実を、忘れることなく心に留めることができ、故にコロナ脳とならなかったのだと思い至る。

テレビなんか信用するな。彼等は全て自分達のビジネスの為にやっているのだと心得ねばならない。

ただそのビジネスにも、政治思想が反映されることは多々ある。そしてその傾向は凡そ分かっているのだ。

彼等の行動原理を理解した上で、それ以外の情報源からの情報を得ながら、自己の価値観を形成する。

それが個々人が自分の人生に責任を負う為の第一歩じゃないかな?

そして自分の人生の責任も負えない奴に、他人の人生を真面目に考えさせるなんて不可能だ。

自分に真摯に生きようぜ。自分の納得の行く人生を歩もうぜ。

遊び呆けるのがその道だと確信するならそれもよし。

ただ、後悔することになっても他人のせいにするな。

自分の人生なんだから。

そう言う人だけが他人の人生に影響を与える資格と権利を持つのだ。

そして、それは意図して行うのではなく、自然とそうなるのだ。

背中で、生き様で語れ!口先だけの奴なんてカスだ!!


最後に、我が家の今年の山田錦を。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?