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冬晴れの追憶

冬の晴れた日の空気が好きです。

電車に乗って窓の外を眺めていると、いつもは見えなかった遠くの山や建物が見えるときがあります。

冬の透明な空気が、今まで見えていなかった世界を教えてくれるときがあるんです。

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社会人になって間もないころ、「塔ノ岳」という山によく1人で登りに行きました。

特に予定のない週末は、電車とバスを乗り継いで「塔ノ岳」に通いました。

1人で、何度も何度も通いました。

なぜ、あのころ、あんなに塔ノ岳に登りに行ったのか、自分でもよくわかりません。

「山登り」に惹かれたというよりは、僕は「塔ノ岳」に惹かれていたようです。

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「塔ノ岳」は、神奈川県の丹沢山地にある標高1491mの山です。

ヤビツ峠という登山口から、尾根づたいに山頂を目指す縦走ルートが、とても好きでした。

歩き続けることさえできれば、僕のような初心者でも日帰りで帰って来られます。

「塔ノ岳」の山頂は絶景です。山頂からは富士山が見えます。

その富士山がとても美しいのです。

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塔ノ岳に何度か通うと、登ることに慣れきて、かなりの体力がつきました。

山頂まで簡単に登れるようになりました。

そして、「如何に早く登り、如何に早く山頂までたどり着けるか」に挑戦するようになりました。

行く度に僕は道のりを急ぎ、駆け抜けるように山頂を目指すようになりました。

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あのときの冬。12月のよく晴れた日でした。雲ひとつありませんでした。

登山口から続く森の茂みをくぐり抜け、しばらく登ると、最初に視界がひらける場所があります。

いつもは小休止をしてすぐに通り過ぎる場所です。

そこで、富士山が見えました。

今まで山頂でしか見えなかった富士山が、登って間もないこの場所で、はじめて姿を現しました。

この手でつかめるかと思うくらい、近くにはっきりと見えました。

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「今まで何を見てきたのだろう」、「今まで何をしてきたのだろう」と思いました。

同時に、「なぜ、今まで見せてくれなかったのだろう」、「なぜ、教えてくれなかったのだろう」とも思いました。

その日は、いつもの登山道がまるで違う世界になりました。頂上へ至る険しい道がこんなに美しいものだとは思っていませんでした。

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尾根づたいの道。

僕に寄り添う富士山は、見えつ隠れつしながら、表情を様々に変えていきました。

その日は、時間を気にせず、無心で登りました。

何かに導かれるように、一歩一歩、ゆっくりと登りました。

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そうして辿り着いた山頂。

あのときの感動は忘れられません。

冬の透明な空気が見せてくれた絶景。

美しい富士山。

世界の見方が変わった瞬間。

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ほどなくして、僕の安物のトレッキングシューズが壊れました。

いつの間にか、塔ノ岳には登らなくなっていました。

そして、塔ノ岳から遠く離れた街に住むことになり、もうかなりの月日が経ちました。

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塔ノ岳に登るには、歩き続ける体力が必要です。

今、あのころのように塔ノ岳に登れるかといえば、正直いって自信がありません。

たまには、電車をひと駅手前で降りて、少し遠回りしながら歩いて帰ろうかな・・・。

冬晴れの車窓を眺めながら、そんなふうに思いました。




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