松一

社会人2年目。主に歴史のことについて書こうと思っています。自分の現在や過去に思ったこと…

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社会人2年目。主に歴史のことについて書こうと思っています。自分の現在や過去に思ったことやあった事も書くかも。

記事一覧

朱元璋⑥

至正15年(1355年)、朱元璋の親分である郭子興が死んだ。 権力闘争の結果、膨れ上がっていた郭子興軍団は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟の張天祐、そして朱元璋の三人にそ…

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1年前
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朱元璋⑤

至正14年(1354年)、朱元璋の義侠心もあり、集まった軍団は気づけば三万人に達していた。この頃、朱元璋の親分にあたる郭子興は彼の台頭を恐れ彼を疎んじ始めた。朱元璋の下…

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朱元璋④

至正12年(1352年)、郭子興の軍団が占拠している城を訪ねた朱元璋であったがなぜか門番に縄で締め上げられて、高圧的に尋問されてしまった。 この頃の朱元璋はボロボロの衣…

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朱元璋③

見習い僧として皇覚寺に入った朱元璋は毎日念仏を唱えていればいいわけではなかった。先輩の見習い僧から雑用をたくさん押し付けられ、朝は夜明け前に起き、目の回るような…

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朱元璋②

天暦元年(1328年)、9月18日、羊の刻(13時~15時)に濠州府鍾離県の貧農の家の末っ子として後の明の太祖洪武帝である朱元璋は生まれた。生まれた当時は朱元璋などという立派…

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朱元璋①

皆さんは歴史上の人物の中で、最も出世した人間と聞いて誰を思い浮かべるでしょうか?日本では農民の身分(足軽の子供という説もあり)に生まれながら天下統一を果たした豊臣…

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3年前
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朱元璋⑥

朱元璋⑥

至正15年(1355年)、朱元璋の親分である郭子興が死んだ。
権力闘争の結果、膨れ上がっていた郭子興軍団は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟の張天祐、そして朱元璋の三人にそれぞれ受け継がれた。

朱元璋はこの待遇に心の中では不満があったが、我慢してこれを受け入れた。そしてかねてからの目標であった江南支配のため、江南の一大都市である金陵の征服に乗り出した。

この金陵攻略戦はかつてないほどの大激戦となった

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朱元璋⑤

朱元璋⑤

至正14年(1354年)、朱元璋の義侠心もあり、集まった軍団は気づけば三万人に達していた。この頃、朱元璋の親分にあたる郭子興は彼の台頭を恐れ彼を疎んじ始めた。朱元璋の下にいた優秀な部下をすべて奪い取り、様々な無理難題を彼に押し付け始めた。

部下の一部は泣いて朱元璋の下から離れるのを嫌がったほどであり、朱元璋の下に残った者もいたが、彼は自分のことを取り立ててくれた郭子興に対して忠義を貫き通した。

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朱元璋④

朱元璋④

至正12年(1352年)、郭子興の軍団が占拠している城を訪ねた朱元璋であったがなぜか門番に縄で締め上げられて、高圧的に尋問されてしまった。

この頃の朱元璋はボロボロの衣服にやせこけた体で、また朱元璋自身の顔がものすごい悪人面であったことから門番に元軍のスパイと怪しまれてしまったのだ。

↑ 悪人面な顔の朱元璋

知らせを受けておくから郭子興が出てくると、朱元璋は彼に今までの自分の生い立ちをありの

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朱元璋③

朱元璋③

見習い僧として皇覚寺に入った朱元璋は毎日念仏を唱えていればいいわけではなかった。先輩の見習い僧から雑用をたくさん押し付けられ、朝は夜明け前に起き、目の回るような忙しい毎日を過ごすこととなった。しかしそんな日々も寺に入って二か月も経たないうちに終わりを迎えた。飢饉の影響で寺の食料は完全に底をつき、寺にいた僧たちが実家に帰るか托鉢行脚(念仏を唱えながら、行く先々で食べ物を恵んでもらいながら旅をすること

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朱元璋②

朱元璋②

天暦元年(1328年)、9月18日、羊の刻(13時~15時)に濠州府鍾離県の貧農の家の末っ子として後の明の太祖洪武帝である朱元璋は生まれた。生まれた当時は朱元璋などという立派な名前ではなく、従兄を含めたナンバリングで八番目に生まれたので朱重八という名前であった。

朱元璋は少し成長すると、家を助けるために地主の牧童として奉公に出され、毎日牛の世話をする日々が始まった。朱元璋は牧童仲間の間では親分肌

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朱元璋①

朱元璋①

皆さんは歴史上の人物の中で、最も出世した人間と聞いて誰を思い浮かべるでしょうか?日本では農民の身分(足軽の子供という説もあり)に生まれながら天下統一を果たした豊臣秀吉が有名です。しかし中国には庶民の身分に生まれながら、天下統一を果たした人間が歴史上3人います。それは漢の劉邦、明の朱元璋、毛沢東です。劉邦と毛沢東は庶民といっても比較的裕福な家に生まれました。

しかし朱元璋は幼い頃家族が飢饉で死に、

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