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朱元璋③

見習い僧として皇覚寺に入った朱元璋は毎日念仏を唱えていればいいわけではなかった。先輩の見習い僧から雑用をたくさん押し付けられ、朝は夜明け前に起き、目の回るような忙しい毎日を過ごすこととなった。しかしそんな日々も寺に入って二か月も経たないうちに終わりを迎えた。飢饉の影響で寺の食料は完全に底をつき、寺にいた僧たちが実家に帰るか托鉢行脚(念仏を唱えながら、行く先々で食べ物を恵んでもらいながら旅をすること)に出てしまい、寺に人がいなくなってしまったのだ。

帰る場所のない朱元璋は同様に托鉢行脚の旅にでるしかなかった。しかし入って間もない朱元璋にとっては見様見真似で覚えた念仏だけが唯一の頼りで、実際は物乞い同然であった。朱元璋は少しでも実入りが多そうな地域を目指して長い旅を続けることになった。

この旅の最中の気持ちを彼は後年以下のように述懐している。


その時、何の取柄もない私は何をしてよいかわからず、天を仰いで呆然とするしかなかった。頼るべきものは自分の影だけ。調理をしている煙を見つけたら急いで駆けつけて施しをもらい、暮れには古寺に立ち寄り休憩をする。そそり立つ崖や生い茂る木々を見上げて、壁を背にして眠れば動物の声が耳に入り月光も清涼としている。寂しげな鶴の鳴き声が聞こえると、自分の境遇に涙は止まらなかった。(『御製皇陵碑』)


朱元璋はこのような我慢と忍耐の旅を三年も続けたある日、風の噂で故郷の話を聞いたことで地元に戻る決心をし、皇覚寺に戻ってきた。しかし戻ってみると皇覚寺は荒れ果て、たくさんいた僧のほとんどは帰ってきてはいなかったが、和尚は朱元璋を温かく迎え入れてくれた。こうしてまた読経と修行三昧の日々が再開した。しかし朱元璋はこのまま寺で一生を終えていいのか自分の将来について悩んでいた。

そんな毎日を送っていて五年ほどたった後、近くの濠州城が郭子興という土豪によって乗っ取られた。郭子興は義侠心溢れる人で、実家が裕福であったことから常日頃から子分をたくさん抱えていた。彼らは濠州城を奪いそこを本拠地とすると、そのうわさを聞き付けた近くの若者は次々と反乱軍に加わっていった。

朱元璋のところにもこの反乱軍に先に加わった友人から誘いがあったが、彼自身この反乱軍に運命を託していいのか迷っていた。というのもこの反乱軍に参加している連中はそれぞれが元帥を勝手に名乗り内部の統制があまりとれていない烏合の衆であったと聞いていたからだ。

そうこうしていると反乱の鎮圧にやってきた元軍の一部が皇覚寺にやってきて、略奪の限りを尽くし、挙句の果てに寺を燃やしてしまった。どうやら寺が反乱軍のアジトになっているという噂が流れていたらしい。難を逃れた朱元璋が寺に戻ってくるとわずかに青銅の仏像だけが瓦礫の中に焼け残っていた。

朱元璋は仏像の前に座ると、自分の行く末をポエ(半月型の占い道具)に託して占った。「難を避けて寺に留まるべきか、それとも寺に残るべきか」。結果は両方とも不吉と出た。三度占ったが、結果は同じであった。「去るも不吉、残るも不吉という事は私に大事を成せということでしょうか」と言って占うと吉が出た。

こうして朱元璋は気持ちが定まり、反乱軍に参加する事を決めた。至正11年(1351年)、朱元璋25歳の春のことであった。




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