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朱元璋⑤

至正14年(1354年)、朱元璋の義侠心もあり、集まった軍団は気づけば三万人に達していた。この頃、朱元璋の親分にあたる郭子興は彼の台頭を恐れ彼を疎んじ始めた。朱元璋の下にいた優秀な部下をすべて奪い取り、様々な無理難題を彼に押し付け始めた。

部下の一部は泣いて朱元璋の下から離れるのを嫌がったほどであり、朱元璋の下に残った者もいたが、彼は自分のことを取り立ててくれた郭子興に対して忠義を貫き通した。

郭子興は今いる自分たちの支配地域である滁州の王であることに満足しており、元王朝のことなどもはや頭の片隅にもなかった。

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その様子に耐えかねた朱元璋は彼の気を荒立てないように、次のように忠告した。

「滁州は四方みな山で、船も商人も通りません。少しの間でも安住できる土地ではありません。」

朱元璋は滁州にいては膨れ上がった軍団を食わしていく食料がすぐに尽きてしまうことを見越しており、そのために南方の穀倉地帯を支配下に収めることが必須であることを予測していた。朱元璋に対して、郭子興とは所詮この程度の器の持ち主であった。




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