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朱元璋⑥

至正15年(1355年)、朱元璋の親分である郭子興が死んだ。
権力闘争の結果、膨れ上がっていた郭子興軍団は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟の張天祐、そして朱元璋の三人にそれぞれ受け継がれた。

朱元璋はこの待遇に心の中では不満があったが、我慢してこれを受け入れた。そしてかねてからの目標であった江南支配のため、江南の一大都市である金陵の征服に乗り出した。

この金陵攻略戦はかつてないほどの大激戦となった。なんとこの戦いで郭天叙、張天祐の両名は戦死してしまう。その結果朱元璋は郭子興の軍団をすべて手中に収めることに成功し、また金陵も攻略することに成功したのである。

金陵に入城した朱元璋は自信の軍団に対して一切の略奪行為を禁止したため、金陵市民の中で朱元璋の名声は高まったのである。

これは紀元前206年、後の漢の高祖劉邦が秦の首都咸陽に入城した際に一切の略奪をしなかったことが結果的に運命を分けたことを朱元璋が理解していたからかもしれない。

朱元璋は金陵を応天府と改名しここを自分の本拠地とした。

こうして軍団、本拠地を手中に収めた朱元璋は各地に同じく自分の勢力圏をもつ群雄との戦いに向かっていくのであった。


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