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得たいものが、検索上位になかった


信じたいものや心地よいもののみの摂取をやめてみるのは、ときに大切だと思う。第一、世界が広がって楽しい。

でもそれは、自分にとっての信じたいものや心地よいものを、自覚しているうえでの話だと思う。そこがわからなければ軸はぶれ、ゆらゆら揺れて、重みに耐えきれなくなり倒れてしまう。

それを強く実感したのが、今年だった。

検索窓に調べたいワードを入れれば、ぽんと簡単に出てくる記事。それらが、じつは大変な工程を経て書かれているものであると初めて知ったのは、自分が「記事を書く側」になってからだった。

記事を書くうえで、そして読むうえで切っても切り離せないのが「アルゴリズム」だ。「検索窓に調べたいワードを入れれば、ぽんと簡単に出てくる記事」にはこのアルゴリズムが大きく関係していて、そんな記事を書くには、世間の流行に敏感であることや、声の大きな情報を摂取していくことがどうしても必要だったりする。

声の大きな情報を摂取するために便利なツールのひとつが、SNSだ。たとえば、ツイッターは共感したとき(だけではないかもしれないけれど)に押された“ハート”の量や、拡散するときに使われた“リツイート”の量が数字で表示される。数が多ければ多いほど、その投稿に多くの人が興味を示したとわかるようになっている。

世の中の動きや流行に敏感ではない私は、SNSをいわゆるインプットの場としても使っていた。良くも悪くも話題になったできごとを、「トレンド」のタブやタイムラインから知る。声の大きな情報を摂取するのは、難しくなかった。


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私が、誰かの発信を「必要な情報」と「そうでない情報」とで無意識に選ぶのと同じで、私の発信もまた、誰かに選ばれたり、選ばれなかったりする。どんなかたちであれ、自分の書いた文章を公表すれば、すくなからず人からの評価を伴うことになる。

正直なところ私は、誰かのつぶやきにいくつハートが付いているか気になるだとか、ハートやフォロワーの数が多ければ多いほどいいのだとか、そのような考えに至るほうではない。

大々的に言える意思があるからではない。単純に「疎い」のだ。情けないくらい競争に向いていない。SNSや文章を“競うものとして見ていない”がしっくりくる。意識が低いと表現する人もいるかもしれない。

とはいえSNSでは、共感数が多ければ多いほどよりたくさんの人の目に留まりやすいのが事実だ。そしてそれは、なにもSNSに限ったことではなく、世の中のしくみになっていたりする。

だから、息抜きとしてだけでなくインプットの場としてSNSやネットを使っていた私が、情報や競争、評価にあふれたその世界の重みに耐えきれずにぶくぶくと溺れてしまうのも、じつに容易かった。

多くの人に右だと言われても左だと感じたり、絶対に赤だと言われても青だと確信してやまないことがある。私にあるように、他の人にもある。

これは当たり前のことで、だからこそ、人の意思の乗った文章に対して「賛成派」と「反対派」が生まれるのもまた当たり前だ。それについて討論が行われることも悪いことではない。そこから新しい何かが生まれる可能性だってある。そう思っていたし、そう思い込もうとしていた。

おおやけに文章を出すという仕事を選んだのは自分。それなのに、届く評価を恐れ、情報に踊らされ、本当に得たいものが見つからない。

SNSのしくみが悪いのではない。SNSを使っていた私自身が、自分の本当に信じたいものや心地よいものをしっかりと把握しきれていない状態のまま「世界の広がり」を一気に求めていたから、溺れたのだ。自分の本当に探しているものがわからなくなり、一度SNSから離れなければいけないと思った。

流れてくる情報を無意識にありったけ食べるのは、一見、上手くインプットできている錯覚に陥る。たくさんの情報を知ることで空腹が満たされて、大きな声のなかの一部にするりと溶けこめたような気持ちになる。

SNSから距離を取ることで、私は「声の大きな情報」を得る手段をひとつ失った。そのかわり、本当に摂取したいものを食べたいタイミングで食べてみようと思った。

たとえば、検索結果の3ページ目以降の記事を読んでみたりしていた。「花 育て方」と検索して1ページ目に出てくるのは、当然、花の育て方の知識やノウハウだ。ところが、検索結果の5ページ目、6ページ目と見ていくと「花の育て方、さっぱりわからんのでもう育てるのをやめた」という個人ブログがぽっと出てきたりする。

花の育て方を調べているのに「そんなものはわかりません」という人間味あふれる記事が出てくる。仕事としてアルゴリズムを意識する記事を書く一方で、検索上位の「け」の字も意識されていないであろう文章をもりもりと読む。これが、とっても面白かった。

みんなが注目しているからではなく、自分が読みたいから。本当に得たい透明なコンテンツをインプットし、自分なりに噛み砕いて、不器用な自分なりの色を加えてアウトプットする。普段の暮らしから感じたことを、検索上位を決して意識しないかたちで文章に綴る。仕事とはべつの枠で、noteに残してみる日々。

恥ずかしながら、そうしてみて初めてわかった。自分の胃袋はこんなにも小さく、自分の手に持てるものはこんなにも少ない。持ち過ぎていたものを少し下ろすだけで、時間の使い方や流れ方は劇的に変わって、過ごす時間に厚みが出た。それと同時に、自分の本当にやりたいことの線が鮮やかになっていった。

無限に広がるインターネットの海の目立つところにお店を出し、集客について考え、まばゆい光を放つイルミネーションと大きな看板を立てて、見事に人がわんさか集っている。これが私のイメージする「検索上位」だ。これができる人は、まぎれもなく素敵だと思う。

ただ、SNSという大きな母体からしばらくの間離れて気付いたことは、自分は大きなお店を出したいのでも、大きな看板を立てたいのでもないということだった。本当はずっと前から気付いていた。だから「確信に変わった」という表現が合っている。

金属のカトラリーが食器にカチカチと当たる音や、口に含んだときの鋭く尖った冷たさが大の苦手だ。理由はよくわからない。けれどもとにかく苦手なので、我が家のカトラリーは木製のものばかりで揃えている。


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「克服のためにあえて毎日の食事で金属を使おう」という考えにはならない。ストレスから逃れるために環境ごと変えるのは、間違いでも悪でもない。毎日の暮らしのなかで無意識に行っているであろうそんな判断が、場所が変わるとなぜだかうまくできなかった。大きな声が怖かった。

「何を無くすべきか」を考えると足元が竦む。「何を残したいか」を考えると、少しだけ気持ちが穏やかになる。

仕事の枠から外れた文章を書くのが落ち着くと感じるのは、文章がうまいからでも、うまくなったからでもなく、自分の思いを文章にする勇気が少しだけ持てるようになったからだ。信じたいものが明確になり、それを文章にして吐き出す心地良さに気付けた。それはきっと今後も欠かせないものだし残したいものだ。

10人が好いてくれても1人から「大嫌いだ」と言われると、それが頭にこびりついてしまうことがある。誰だって嫌われたくない。でも、悲しいがそれはきっと不可能だ。どう生きていても、万人の共感を得ることは難しい。

だから、他人からの共感のなかに自分の価値を見出そうとして苦しくなっている人がいるとするなら、「探し物はそこにはないかもしれない」とそっと伝えたい。

大きな声や情報、自分を評価する声に耳を傾けることは生きていくために必要で、自分自身からは見えないような自らの欠点にも気付ける。それでもきっと、やみくもに引っ張られることはない。これはひとりで考え抜いていきついた答えではなく、信じられる人やものに触れて得た学びだ。

いま書いている私自身も「じゃあどうするか」の答えはまだ出ていなくて、それを見つけていくことを、来年のゆるやかな課題にしたい。そのぐらつきを安定させて自分を見つけるために、仕事の枠から抜けた文章を、この先もここに書くと思う。


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インターネット。SNS。これらは、果てしなく広大で丸い世界を知れる便利なツールだ。ただその外側には、さらに大きな丸がある気がしている。

検索の漂流に乗らないその丸は、指1本でタップやスクロールして摂取できる便利なものではないかもしれないが、その分、五感でどっぷり感じられるものがあった。

「満たす」には、あらゆる方法がある。これが今年私が得られた、最大のインプットだ。

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