tyanmaru125

今時ひとつの会社に45年も勤めたのは、自慢にならないかもしれません。でもそのお陰で、お…

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今時ひとつの会社に45年も勤めたのは、自慢にならないかもしれません。でもそのお陰で、お話しできることはヤマほどあります。さて、何からお話ししましょうか?

最近の記事

人は誰でもいつかは死ぬ

不吉なタイトルかもしれないが、近頃やけに感じている事だ。 直近で言えば大学時代の同級生が亡くなっった。また、中学時代の同級生も亡くなった。この人達に関しては他の友達から連絡が来た。 最も衝撃を受けたのは、私が会社に在籍した時私をいじめ続けて、本流から追いやった人間がいたが、今の私と同じくらいの年なのに亡くなったと聞いたことだ。正直、恨み心頭に達していたので、会社を辞めた後も「早く死んでしまえ!」と正直思っていた。でもどこかでしぶといヤツだからきっとのうのうと生きているのだろう

    • 尼崎市の個人情報漏洩

      尼崎市で大規模な個人情報漏洩事故が起こった。テレビのワイドショーはこぞってこの事件を取り上げ、「今時USBが使われていることが問題」「個人情報を持ったまま酒を飲みにいくなんて」あげくのはてには、国の個人情報管理は信用できない。マイナンバーカードなんてこわくて作れない。まあ、言いたい放題である。私は個人的に個人情報を取り扱う仕事を長年続けてきていたので、「テレビの表面的な批判は意味がない。井戸端会議の愚痴にしか聞こえてこない」という感想を持った。 個人情報に限らず、何か事故が起

      • 長くまがりくねった道16 コロナになったらさようなら

        2020年12月私はコロナに感染した。もともと基礎疾患をかかえていた私はコロナに感染したら大事になると思っていたが、まさにその通りとなった。12月9日熱があったため、PCR検査を受けたら、陽性ですと言われた。さっそく新宿にある大久保病院に搬送されたが、防護服をつけた係員が迎えに来て搬送されて病院についたところで血中酸素を計ると90は軽く切っていた。その後病室に入っても、マスクをつけたままであり、一晩すごしたが、看護師さんが来るたびに酸素量を増やさなくてはならず、ついには翌日に

        • 長く曲がりくねった道15

          監査室長~監査等委員として過ごした約10年間、監査の仕事だけにとどまらず、外部からの情報取集につとめた。それは監査の中にとどまってしまうには、私はオーバースペックであると自負した結果だ。ビジネスの領域で私が一貫して追い求めた、「この会社の仕事にコンピュータでの解決を目指す」事をテーマとして、外部のセミナーやイベント、これはと思う会社には直接会って話を聞くことを続けた。 AIのブーム、その動きに私が気が付いたのは、2018年ごろだ。当時様々なビジネスショーをはしごしていたが、そ

        人は誰でもいつかは死ぬ

          長くまがりくねった道14

          2009年になり、CRMディレクターの管理と兼務で営業の事務サポート部隊の管理職に異動となった。実はこの異動は最終的に私を営業から追い出すための謀略であった。営業事務サポート部隊は当時信じられないような無駄な作業を抱えていて、見積書に社判を押す仕事とか、売り上げ計上の書類をひたすらコピーするとかの仕事をすることで、私が何か新しい事をできなくするという陰謀であった。本当にあきれるくらいの執拗さである。「とにかく君はこの席に座って黙って印鑑をおしていればいい!」といことをあからさ

          長くまがりくねった道14

          長くまがりくねった道13 事件 裁判

          CRMディレクターをなんとか実現しようと苦戦しながら、一方で兼任でテレマーケティングの部署の部門長も担当することになった。この時期、私がおかれていた状況はお話しした通りだが、CRMの営業体制を作り上げるために戦っていた一方で、兼任での部門長を務めるなどということは、正気のさたではないと思うが、その時の私はすっかり自分にその使命があるのだと思い込んでいたため、平気で受け入れた。テレマーケティングの部署がCRMという名前のついた部署であったため私にその役割がまわってきた。それだけ

          長くまがりくねった道13 事件 裁判

          長くまがりくねった道12             暗黒

          さて、ここまでこの「長くまがりくねった道」を読んでいただいた方がいらっしゃるとすれば、これからが私の受難の時期の話だ。それほどたいしたことではないが、小説の半沢直樹が社内の対決に「倍返し」で勝ったのとは正反対に、戦って敗れて隅に追いやられる出来事を記しておく。でも、こんなことは社会の中では当たり前にあって、誰も不思議には思わないことだとは承知の上で書き残したのは、会社の中では自分が正しいと思ってやっていることでも、別の誰かにとっては目障りでうっとおしいことでもあるということ、

          長くまがりくねった道12             暗黒

          長くまがりくねった道11 セキュリティ事始め

          新しい事業所は、当時では最先端に近いセキュリティを完備したものだった。時代は個人情報保護法によって、大きく動いていた。 個人情報保護に関しては、ダイレクトメールという媒体を取り扱うのが当社のメインの業務であったため、会社創設以来一貫して取り組んできた課題であった。個人情報保護法以前の時期には、今では考えられないような手法で個人情報を収集した過去がある。当時はリストビジネスというものが当たり前になりたっていた。ダイレクトメールの対象として当初貴重であったのは高額所得者層であっ

          長くまがりくねった道11 セキュリティ事始め

          長く曲がりくねった道10

          2002年~2003年には会社で大きな変化があった。それは都内数か所に分散していた事業所を統合して新しい事業所を作るということだった。それにあわせて、私が所属していたシステム部門にも変化があった。それは、当時システムに関する知識不足から、営業が得意先に提案しようとしても、なかなかうまくいかない事が発生していた。その解決のために、社内組織を新しく作り、営業支援をしていこうという試みだった。当時制作部門の責任者と私システム部門の責任者が合議して、「プロモーションディレクター」とい

          長く曲がりくねった道10

          長くまがりくねった道9

          それは2001年、広告代理店への出向から帰ってきて、元のシステム部門の部長に返り咲いた年に起こった出来事だ。またしてもトラブルの話だ。その出向していた広告代理店から受注したN社(自動車メーカー)の仕事で、所有した車の走行距離によりキャッシュバックをするというキャンペーンがあった。この時キャッシュバックを応募者の銀行口座に直接振り込むという仕組みを初めてトライしたが、見事に大失敗となり、振込みが遅れるにつれてクレームの嵐となり、得意先である広告代理店が現場に乗り込んできて大惨事

          長くまがりくねった道9

          長くまがりくねった道8 出向編

          2000年を迎えようとする時期、私の身に突如として降りかかった事件があった。当時システム部門の部門長を務めていた私に広告代理店国内第2位の会社への出向命令が出たことだ。 事の経緯は私が広告代理店の担当を務めていて、得意先からの売上代金の未収を作ったところから始まる。ことの経緯はもっと複雑な背景があったものの、結果からすると未収金が発生してしまった事は事実だ。当時私は広告代理店担当営業部の部長を務めていたので、その責を問われて、減俸と部署異動という処分を受けざるを得なかった。

          長くまがりくねった道8 出向編

          長くまがりくねった道7

          インターネットの黎明期 1900年代前半の時期、私はK社のキャンペーンで教育を受けたコンピュータを活用した仕事の改善にとりつかれていた。世の中ではまだまだ一般化していなかったが、インターネットという言葉が普及し始めていた。webサイトやホームページなどという言葉は一般化していない時期では、インターネットがビジネスになるなどということは考えもつかなかった時代である。 その時期に、これからはインターネットの時代が来るとして私のいた会社ではある危機感があった。それは、インターネット

          長くまがりくねった道7

          長くまがりくねった道6

          このままの状態を放置しておくわけにも行かず、得意先である広告代理店が動き出した。当時SP局の担当者だったO氏が、IT関連の知識を活用して、このキャンペーンのシステムを完全にリニューアルするという動きを始めた。その当時、O氏から「どのような仕組みにするのが良いと思うか?」と問われて、私は手書きの提案書を提出し、「通信販売のような仕組みを作るしかないが、そのような費用が許されるわけがない。」と回答したところ、「通信販売の会社がこの仕事を受けてくれるなら、そこに発注したほうが良い。

          長くまがりくねった道6

          長くまがりくねった道5 新しい技術

          イベントの仕事をしながら、相変わらずプレミアムキャンペーンの仕事をこなし、それでも新しい仕事の仕方は経験できなかった。転機を迎えたのは、1983年(私が31歳の年)に発売されたK社紙おむつに関連した一連の販促活動である。「紙おむつ」という商品ジャンルにK社が参入し、先行の紙おむつに殴り込みをかけるのと同時に、まだ完全に一般化していなかった「紙おむつ」という商品ジャンルの開発という意味もあった。K社が何故紙おむつというジャンルの開発を行ったかについては、K社という会社が自社で研

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          長くまがりくねった道4 イベント編2

          イベントの仕事で記憶に残っているのは、1987年という年である。突然私のいた会社が子会社を作って外国タレントの呼び屋を始めるという事があった。全くの新規事業であったが、その時の外国タレント1号がマドンナであった。マドンナの日本公演は全国ツアーで行われたが、当時まだ後楽園球場といっていた場所での公演で、関連グッズの販売をする仕事に携わった。ところが、その公演が雨天によって中止になってしまった。中止の決定がでるまでに、時間がかかったため来場者は待たされており、だんだん人が集まって

          長くまがりくねった道4 イベント編2

          長くまがりくねった道3 イベント編

          イベント事始め イベント事業に一般企業がスポンサードしていくことが一般化していったのは1970年代後半からの事だろう。当時イベントの演出や運営業務の専門家というのはまだおらず、経験として近い仕事をやっていた人たちが広告代理店に集まってきて仕事をしていた。新しい分野であるので、何かやらなければならない事があったとき、「はい!うちがやります」と言って手をあげたところがその分野の仕事をその後続けて事業として担当していくような時代である。過去にテレビの創成期にあったような仕事の成り立

          長くまがりくねった道3 イベント編