長くまがりくねった道5 新しい技術

イベントの仕事をしながら、相変わらずプレミアムキャンペーンの仕事をこなし、それでも新しい仕事の仕方は経験できなかった。転機を迎えたのは、1983年(私が31歳の年)に発売されたK社紙おむつに関連した一連の販促活動である。「紙おむつ」という商品ジャンルにK社が参入し、先行の紙おむつに殴り込みをかけるのと同時に、まだ完全に一般化していなかった「紙おむつ」という商品ジャンルの開発という意味もあった。K社が何故紙おむつというジャンルの開発を行ったかについては、K社という会社が自社で研究してきた海面活性化技術の応用として、紙おむつに入っている高分子ポリマーの活用をしていく事があった。
さてK社が紙おむつを発売するにあたり、全国展開で行ったのは、スーパーマーケットの店頭における手渡しサンプリング(赤ちゃんをつれた来店客に直接手渡し)という手法であった。当時のスーパーにおけるダイレクトサンプリングという手法は、食品のデモ販売を除けば一般的には無かった。一方経験値のない作業であったため、サンプルのスーパーへの送り付けも、スーパーのバックヤードにうもれてしまうなどの問題が発生した。基本的には女性アルバイトを使ってその入退店管理と配布数の管理を、全国的展開で行った初のケースであった。スーパーとメーカーの関係、遠隔でアルバイトの動きをつかむ手法(当時はネットなど無かったのですべて電話で行った。)店舗数や配布数などの具体的な数値は残っていないが、かなり大がかりな施策だった。
そして、私のその後の仕事のやり方に大きな影響を与えた仕事を受注する。




同業他社が先行して行っていた紙おむつのパッケージに印刷されたクーポンを送付する事で、おむつ以外の赤ちゃん関連グッズが必ずもらえるいわゆる「べた付け」キャンペーンである。実施にあたってプレミアム賞品別にどのくらいの応募があるかは予想がつかず、手探りでのスタートであった。当時の当社においては、これらの処理を行うにあたり、応募者の個人属性と希望プレミアム商品を入力し、それらを汎用機においてバッチ処理し、応募者台帳を出力し管理しようとした。ところが、応募が殺到したこととプレミアムの在庫は適正な数量が確保されていなかった為欠品が発生し、たちまち混乱に陥った。応募に対して慢性的にプレミアムの在庫不足が発生する事により、消費者からのクレームの電話が1日中鳴りっぱなしになった。かかってくる電話すべてがクレームであった。当時コールセンターが無かった当社での対応は、電話対応の教育も受けていない一般社員が対応しており、分厚い応募者台帳をめくりながらの対応で、1か月ぐらいこの状況が続いた結果嫌気がさして退職する社員まで出てきたが、この状況を改善する知恵は当社には無かった。私は当時営業の係長であり、部下が担当者としてこの作業の営業担当をしていたが、これもひどい話だが、その担当者いわく、すべての問題は得意先にあり、当社には何も落ち度がないという報告を受けていた。その担当者も「当社のやってるような土方仕事は大学を卒業した人間のするような仕事ではない」という言葉をのこして辞めていった。そこで、私が担当として直接かかわるようになる。
このままの状態を放置しておくわけにも行かず、得意先である広告代理店が動き出した。当時SP局の担当者だったO氏が、IT関連の知識を活用して、このキャンペーンのシステムを完全にリニューアルするという動きを始めた。その当時、O氏から「どのような仕組みにするのが良いと思うか?」と問われて、私は手書きの提案書を提出し、「通信販売のような仕組みを作るしかないが、そのような費用が許されるわけがない。」と回答したところ、「通信販売の会社がこの仕事を受けてくれるなら、そこに発注したほうが良い。」と言われショックを受けた記憶がある。なぜなら、その当時の広告代理店SP局の担当者は、作業を実行してくれる会社に丸投げするのが当たり前で、プレミアムキャンペーンの仕事であれば、当社という外注に発注するという暗黙の了解があると考えていたからである。つまり、今までとは全く違う考え方を持った超合理主義者が得意先になった瞬間である。それだけでは無く、広告代理店としてK社に対してこの解決にあたってのシステムリニューアルのためのハード&ソフトの費用を認めさせ、システム構築に動き始めた。しかし、当社側では広告代理店が始めたこのシステム化の動きを理解できる人間は私も含めて誰もいなかった。それどころか、言われる言葉(IT関連用語)が理解できないという致命的な問題があった。まるで幕末の黒船襲来である。そこで、O氏より当社で広告代理店とこのシステム構築にあたって「通訳」の役割をはたして、当社の業務をコンサルしてくれる人材を用意したと紹介されたのが、M氏であった。仕事において外部のコンサルをつけるという経験も当時では画期的な事であったが、それよりも当社におけるIT関連の知識が皆無に等しい事を痛感した出来事であった。システムが稼働し始めると、当社の社内における事務局の風景も一変する。広告代理店が作り上げたシステムは通信販売の受注システムそのものと言ってよいものであった。デスクには当時では珍しかったラップトップPCが並び、応募者の情報はPCでの検索が可能となった。とても厳しく求められたのは、問い合わせの記録を残し、その解答を何分以内で行えるか?といった基準を守る事であった。現在のコールセンターでは当たり前の事が当時は画期的な事のように思われた。そのK社キャンペーンにおける処理システムはその後の当社におけるキャンペーンにおいて基本となるシステムになっていく。今考えれば、仕事をさせてもらいながら教育を受けさせてもらったのであり、大変ありがたい仕事であった。ただし、得意先である広告代理店のO氏の言っていることをDMSで理解できたのは、かろうじて私だけで、上司であった課長も部長もそのうえの役員でさえ理解できる人はいなかった。今思えば、傲慢不遜な態度で社内では広告代理店から言われた事をなぜ分からないのか?などという物言いで説明していた。私自身はわからないなりに、PCというものを理解しようとして、東芝のダイナブックを経費で購入し、社内に誰も相談できる人がいないので独学でPCを操作しながら表計算や文書作成を行っていた。まだ現場ではそこまでの事ができない時代である。
M氏が行ったコンサルには当社で行ってきた応募整理業務や、景品発送業務に新しい業務設計思想を吹き込んでくる効果もあった。現在では当たり前に行われている、複数の商品の組み合わせパターンによる「ライン」構築の考え方。つまり、同じ組み合わせのものをひとつのかたまり(パターン)にわけて、そのパターンごとに作業をしていく事である。
また大量の応募物を処理していくにあたって、「ロット」という一定の単位に分けて管理していく手法などである。また、大量の応募物が到着した時、短時間で概数を把握するために応募物の重量を測り、概数の算出をするという手法などは、当時1通1通数えなくては概数の把握など考えつかなかった当社の作業に全く新しい視点を与えたものであった。
このように業務改善とシステム化によって生まれ変わった「K社キャンペーン」は順調に業務を行えるようになり、数年間は同様のキャンペーンが継続した。
この仕事で学んだ事はたくさんあるが、当社で行う仕事に対してコンピューターの仕組みを使って効率化をするというのが一番大きなものであった。システムとはどのようなものか?システム化していくにはどのようにすればよいのか?すべてが勉強の毎日で、とても辛かったが得られたものも大きかった。この後35年に及ぶ私の当社での仕事においては、この考え方がベースにある。また、「べた付けキャンペーン」というものの恐ろしさも学んだ事である。商品をお金で買う事においては、たとえ商品が欠品しても、返金をするという選択肢がある。しかし、べた付けキャンペーンにおいては、消費者は商品を購入した段階で景品も一緒に購入しており、景品が欠品したからといって許してもらえるものではない。なぜなら、消費者は商品を購入時に前払いでプレミアム商品の代金を支払い済であり、そのプレミアム商品が欠品した場合、メーカー信用にもかかわる問題に発展しかねないので、単なる販促手段という考え方で臨んでは消費者に不信感を与えてしまうことになるのである。人にはその人の仕事における考え方を決定付ける仕事との出会いがあると思う。私の場合はこの仕事がそうであった。


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