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長くまがりくねった道16 コロナになったらさようなら

2020年12月私はコロナに感染した。もともと基礎疾患をかかえていた私はコロナに感染したら大事になると思っていたが、まさにその通りとなった。12月9日熱があったため、PCR検査を受けたら、陽性ですと言われた。さっそく新宿にある大久保病院に搬送されたが、防護服をつけた係員が迎えに来て搬送されて病院についたところで血中酸素を計ると90は軽く切っていた。その後病室に入っても、マスクをつけたままであり、一晩すごしたが、看護師さんが来るたびに酸素量を増やさなくてはならず、ついには翌日に広尾病院への転院となった。車いすに乗せられて転院して広尾病院についたところまでは覚えているのだが、そこからの記憶はほとんどない。今でも本当に不思議なのだが、医師の方とは直接話しているはずなのだが、自分の症状についての細かい話は覚えていない。病状については、実は妻も2日遅れくらいで感染し、入院してしまったので、子供に電話が行って病状を知らされていたらしい。退院してから話を聞くと、私のほうは重症化してしまっていて、医師から電話が来ると怖い状況だったようだ。子供にしてみれば、両親が同時に入院してしまい、当然見舞いにも面会にも行けない中で、医師からの病状説明を受けなくてはならなかったのは、恐怖でしかなかったと思う。特に入院後、12月中は本当に病状が悪化しており、途中で人工呼吸器をつけますからと言われたことだけは覚えているが、それ以外の治療と私の場合透析があるので、どうやって透析をしていたのかも全く記憶がない。ただ覚えているのは、数えきれないほどの夢をみたことだ。おまけにその夢を鮮明に覚えている。色々な病室に入院しており、そこで病院食を食べているのだがその病室があるときは海辺の病院の病室だったり、田舎の病院だったり、何度も繰り返して同じ病室の記憶がよみがえってきたりした。そして不思議な事にどの病室にもベッドにおかしなお面がついていたことだ。最後のころには、入院した病院で体をしばりつけられており、自分でなんとか脱出しようと悪戦苦闘している夢も見た。どの夢もその情景は今でも鮮明に思い出せる。コロナで入院して大変だったでしょう?と退院後に人に聞かれると、この夢の話をしようとするのだが、誰も聞いてくれないのも不思議な体験だった。2020年の12月はそうして過ぎていった。記憶がうっすら戻ってきたのは1月に入ってからだ。看護師さんや医師の方から「あけましておめでとうございます」と言われたのがかすかな記憶として残っている。そして、やっと携帯を扱えるようになり、子供とLINEで話せるようになったが、最初に送ったLINEを見ると、何が書いてあるのかわからず、本当に大丈夫か?と思えるようなものであった。これも初めての経験だったが、携帯の扱い方が全く分からなくなっており、自分でも不思議で仕方がなかった。そんな時期も1週間もたてばもとに戻ってきて、体の状態も回復してきて、1月17日には退院できた。入院が長かったため、足が弱っており、家に帰ってもリハビリが待っていた。少しずつ回復していき、会社に復帰できたのは退院から2か月後の3月15日からだった。
復帰はできたものの、周りの人の反応は微妙なものであった。退院後であるということとコロナという病気上がりであるということで、誰も接触してこようとしないのだ。私はこのコロナという病気の本当の恐ろしさを知ったのはこの時だった。コロナ差別という言葉があるが、まさに会社に復帰しても孤立してしまうというのは、自分の体は回復しているのに周りからは腫物に触るような扱いをうけてしまった。コロナという病気は人との関係を断絶する恐ろしさが本当のところあるということを思い知らされた。
そして3月も終わろうというとき、会社を首になることを言い渡された。自分でも甘かったと思うが、体が回復すればまた元の役職に返り咲けると思っていた妄想を見事にぶち壊された。理由は簡単、「コロナにかかるようなヤツは雇っておけない」「また感染でもされたら会社としてはたまったものじゃない」おまけに、退院後復帰した時にはすでに後釜の人間も決まっており、知らないのは私だけであったという事だ。こうなってしまうと誰一人として本当の事を言ってくれない孤独感だけが私の心を満たした。
6月の株主総会で退任となり、お情けで3か月ぐらいはいさせてやるが、それで首だということだった。サラリーマンにとっては、首は死を意味する。あらゆる意味でだ。そのことがわかってから、私の周囲の扱いは死刑囚と同じになったと言える。どうせ先が長くなく死んでいく人間に対してはそのような扱いになるのが当たり前のことなのであろう。
そこで、また私は最後の抵抗をする。退任後3か月というのはあまりにも短すぎる。せめてその年いっぱいぐらいは勤めさせてくれ。そしてこの会社で最後の仕事として私らしい仕事をさせてくれと、社長に直談判した。それは、メーリングマシンと呼ばれる機械の作業ログを収集して、リアルタイムで管理できるようにする仕組みだ。メーリングマシンの管理は昔ながらの経験と勘でしており、人によってその精度もちがうのと、仕事が終わってみないと結果がわからないことになっていた。生産管理の見える化がそのテーマである。当該部署の部門長を巻き込んで今までにない取り組みを開始した。12月までという期限が限られた中での開発には、途中困難がつきまとったが、12月になってやっと全容が見られるまでになった。

これで、私の45年間の物語は終わりだ。今振り返ってみて、まさに長くまがりくねった道であったと思う。本当に色々な事があった。私の基本的なスタンスが、その時々の大勢をしめている考え方に対するアンチテーゼであったことから、様々な妨害にあってきたと思ってきた。しかし、今回この文章をまとめてみて、改めて感じたことがある。
それは、会社における意思決定というのは、自分がどんなに正しいと信じていても、大勢がついてこなければ、ただの変なやつのたわごとにすぎないということだ。そして会社でいわゆる出世をして役員報酬をたんまりもらっている人間は、この会社のようにオーナー社長のもとでは、ご機嫌とりがうまくて適当に付き合える人間でしかないということ。つまり、私の場合は自分では常に会社の事を考え、新しい事を良かれと思ってやってきたつもりだったが、結局はそれほど大きな変化をもたらすこともできず、ただの自己満足であったという結論を認めざるを得ないということだ。
この文章をnoteに残したのは、公開することにより自分の生きてきた姿を子供たちにいつか見てもらえるようにしようという意図からだ。娘よ、息子よ私が父から教わりたかった、サラリーマンとしての人生がどうであったかということを、せめて自分のこどもだけには残しておきたかった。事務局側でいつかはこの文章を削除するときが来るとしても、せめて私にだけは事前に教えていただきたいと思う。これが頑張って恥をさらしてきた投稿者のお願いです。

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