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「働く女性は忙しい」をなくせるか(岩佐文夫)

岩佐文夫「キッチンと書斎を行き来する翻訳書」第2回
More Work For Mother” by Ruth Schwartz Cowan 1983年出版
お母さんは忙しくなるばかり
著:ルース・シュウォーツ コーワン  訳:高橋 雄造 
法政大学出版局 2010年10月出版

工業化が進んで楽になったのは男性ばかり?

先日、妻が一週間の旅行に出かけたので束の間の一人暮らしだった。以前であれば、できるだけ会食の予定を入れていたのだが、今回は家にいて極力家事をやってみることにした。買い物、食事づくり、洗濯、ゴミ出し、掃除はちょっと。やってみて改めて、日々やることが多いのに驚く。朝起きて家を出るまで、頭の中には無数のチェックリストが浮かび、家に戻ったらソファに座る前に片づけることが諸々ある。

本書『お母さんは忙しくなるばかり』は、1800年代の半ばから1980年代までの米国における家事労働の変遷をまとめたものだ。著者は社会学者であり、自身も妻であり母親という役割を担う。原著の発行が1983年。翻訳書となり日本に紹介されたのは、2010年である。原著からはずいぶん技術発展も進んだが、人の意識がどのように変わってきたのかについて、今でも多くの示唆がある。

タイトルは直感的に、僕の想像に反していた。かつて火を起こし、水を汲んで料理をしていた時代に比べれば、格段の技術進歩によって少しは家事も楽になっているのではないかと思ったからである。

しかし読み始めて、このタイトルの意味がよくわかった。19世紀の工業化を進む以前の時代、家事労働は家族が分担して行なっていた。火を起こすにも燃料となる木を集める仕事がある。水を汲む仕事、糸を編んで布を作る仕事もあれば、パンを作るにも小麦を育て粉にする仕事がある。男性の仕事、女性の仕事、それに子供の仕事まで膨大な家族の仕事があった。一家総出で家事をしていたのである。それはまるで、生活に必要なものを全て作る、工場のような機能を各家庭が担っていたのだ。

これが19世紀の工業化で一変する。水道や電気が整備されたことで、燃料も生活水も購入するものになった。小麦粉を購入すれば、パンを作るのは楽になるし、のちにパン屋さんも登場する。これらの一大革命により、女性はどれほど楽になったか。想像は違った。楽になったのは、男性であり、子供である。例えば1830年代、ストーブが開発され、各家庭に導入されだした。これにより、家庭で消費する燃料は半減する。それは樹を切り、引き下ろして、割る仕事が半減したことを意味するが、これらはもともと男性の仕事であった。逆にストーブの掃除という新たな仕事が発生する。そしてそれまでの一品料理の時代が終わり、2品、3品の料理を作るようになった。これらは、ともに女性の仕事である。工業化で解放されたのは男性と子供たちの仕事であり、女性の家事労働は減るどころか増えるばかりであった。そして家事労働が減った男性は、外に働きに出る。本格的な工業化社会の到来である。

工業化社会になると、男性が外に働きに出て、子供たちは学校に行くことができるようになった。しかし、女性は肉体労働は減ったが、依然としてそのほとんどの時間を家事労働に費やしていた。子供が学校や習い事に行くようになると、その送り迎えをやるようになる。食料の買い出しも新しい仕事となった。まさに本書のタイトル「お母さんは忙しくなるばかり」である。

工業化の計り知れないメリットと満たされないもの

もっとも、家事に工業化が及んだメリットは計り知れない。家庭料理のバラエティは圧倒的に増え、清潔な衣服を身につけるようになり、子供の教育水準は上がる。人々の生活水準は大幅に改善されたのだ。

さらに工業化のメリットは単純労働が機械がとって代わるようになったことだ。本書では、単純労働を「チョア」(chore)と英語をそのまま使っている。一日中、火の番をするのは誰にとっても退屈な作業である(キャンプでは楽しいのだが)。小麦を手作業で粉にするのもできればやりたくない。工業化はこういうチョアを無くした。そして工場での労働はこれらの作業に比べると退屈ではなく、賃金が得られて、それらのお金で生活を豊かにする製品やサービスの購入に回せる。

一方で、生活の豊かさへの欲求は一定のレベルに達しても、決してなくなるものではない。さらに便利なもの、さらに綺麗で美味しいものを求める。

それゆえ、女性の家事労働の時間は一向に減らない。女性は依然として家に閉じ込められたままだったのだ。これは工業化の方向づけをしたのが男性中心だったからなのか。著者の結論はそれほど単純ではない。

それは第5章「たどることのなかった道」で示される。この章では、過去に登場したが定着しなかった技術や仕組みを紹介している。それは例えば、食事宅配サービス、商業ランドリー、あるいは共同生活アパートのような仕組みである。これらが普及しなかった要因には、人々が家庭に何を求めていたかがあるとし、著者は次のように語る。

「人々は、自分の住居に家族と一緒に住むことを好み、自分の子どもを育て、決まった時間に家族と食事をし、自分の好みで住居を飾り、自分の趣味の服を着て、仕事の道具は自分で選ぶ。もし選択の余地があれば、たいていの人は自分のプライバシーと自治が増大するように動く。(中略)自分が選んだ相手である家族と長期にわたって気持ちを通わせあう関係を、自分たちだけで築きたいのである。状況が許せば、また、限られたお金を使うのに意思決定しなければならないときには、ほとんどの人は、技術的効率性やコミュニティの利益よりもプライバシーと自治の力を優先する。(P158-159)」

どこまで利便性が進もうと、「家族」という場の価値は効率性で測れない部分があるのだ。

家事と仕事の違いは何か

著者は、家事労働と外での仕事(市場労働と呼ぶ)の相違点を次のようにまとめる。共通しているのは、ともに、①人力から動力エネルギー源に頼るようになったこと、②社会インフラのネットワークに依存すること、③道具による恩恵を受けること、である。逆に大きな違いは、①不払い労働であること、②孤立した労働であること、③専門化されていないこと、を挙げている。

つまり、社会インフラの発展と産業による分業化の発展により、市場労働は大きな恩恵を受け、家事労働はその恩恵を受けずに進んだことを示す。

著者はこのように家事労働と市場労働を分類した上で、両者がともに「生産行為」であることを強調する。一般に生産行為は対価として経済的価値(貨幣)が伴うものと捉えがちである。外で稼いで、そのお金を家庭で「消費する」というイメージである。しかし、インフラが整い、家事が多くの製品やサービスに助けられたとしても、家庭が消費の場とする見方を否定し、次のように表現する。

「近代的な労働節約器具は、骨折り仕事をなくしたが、労働そのものをなくしたのではない。家庭は私たちの社会が健康な人々を生産する現場であり、主婦はこの生産過程のほとんどを全段階に責任を負う労働者である。工業化以前には主婦は、夫と子どもたちの助けを得て食物や衣服や医療をそろえ、家族に食べさせ、着せ、そして看護した。工業化以後の時代になって、女は、ほとんどだれの助けもなしに、料理し、洗濯し、自動車を運転し、買い物をし、そして夫や子どもたちの帰りを待って、家族に食べさせ、着せ、そして看護している。」(P.103-104)

この一文を読むと、「外で働くこと」が何より優先される社会に違和感を覚えるようになる。家庭を「私たちの社会が健康な人々を生産する現場」とし、その全責任を負う役割が、企業の機能の一部を担う役割と優越をつけることがバカらしく思えるのではないだろうか。

もっとも1970年代になると、この様相は少しずつ変化も見える。女性の社会進出に伴い男性も家事を手伝う時代になってきた。それでも著者の見方は辛辣である。

「1970年代にも、「家事をする夫」(househusbandry)の美徳をたたえるたくさんの本や有力誌の記事が現れた。これらはほとんどの場合、妻が外の職場に戻った期間に決心して、子どもたちと家にいたことのあるフリーのライターやジャーナリストによって書かれた。社会学の教えるところでは、ジャーナリストの書くあれこれのエピソードはあまり信頼できない。男はほとんど家事をしないし、「家事をする夫」がいたとしても長期間にわたって熱心に家事をやるわけではない」(P.216)

これは男性である筆者にとって耳が痛い。

「無意識の規則」が未だに我々を苦しめる

本書の考察対象は、1980年までである。それから約40年、多くの変化があった。自動洗濯乾燥機やルンバなど家電はますます進化した。ケータリングサービスや外食産業も発展した。女性の社会進出も増え、今は日本では共働き世帯が専業主婦世帯を上回り、6割を超えている。そして、現在、働く主婦の忙しさは、いまだに本書で描いた世界の延長にある。男性の家事参加は進んだとはいえ、今日の日本では女性は男性の4倍以上の時間を家事・育児に費やしている。

変化が遅いのは家事の主役が女性という意識、あるいは規範である。今日の整備された社会において、「家の主役は女性で、外貨を稼ぐのが男性」という役割分担にどれだけ意味があるか。本書で著者は、これらの無意識の価値観や習慣を「無意識の規則」と呼び、それらに対しもっと意識的になることを主張する。そして「私たちにとって意味のある規則だけを選び出す術を身につければ、私たちは家庭テクノロジーにコントロールされるのではなく、コントロールするようになれるであろう」(P.237-238)と締めくくる。

これは女性に向けた言葉ではなく、男性自身も考えるべきであろう。仕事(外貨を稼ぐ)を中心にした発想から、家庭(生きること)を中心にした発想に切り替えると、男性は「家事を手伝う」という意識すら捨てるべきではないか。外での仕事から余白を見つけて家事を手伝う。その「外での仕事優先主義」を疑ってかかるべきではないか。市場での仕事でキャリアアップを目指すのに、家庭という人の根源を育む場に関与しない。人が幸せな生活を送る本拠地に着目すると、この考えはあまりにバランスが悪い。

先日会った、20代の男性の言葉が印象的だった。数ヶ月前に子供が生まれ、現在育児休暇をとっている彼は「母乳をあげること以外はすべて同じ役割を担いたい」と言った。こんな若い世代が、新しい社会の規範を作り上げるであろうことが楽しみである。

執筆者プロフィール:岩佐文夫  Fumio Iwasa
フリーランス編集者。元DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長。現在はフリーランスとして企業やNPOの組織コンセプトや新規事業、新規メディアの開発に携わる。

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