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教師は子供の伴走者ではないか、と。

一昨日位でしたか、少し気になるニュースを見かけました。

国立大学法人・奈良教育大付属小(奈良市)で、道徳や「君が代」を扱う音楽の授業の中で、検定教科書を使わないなど、法令に違反する教育が長期間にわたって行われていたことが16日、学校関係者への取材で分かった。

出典:「大半に「国歌」指導せず、道徳は全校集会で代替 国立奈良教育大付属小、法令違反教育常態化」(『産経新聞』2024年1月16日)

民間の、例えば車の教習所や英会話教室、朝鮮学校、そろばん塾といった、学校教育法に縛られない、ただの私塾でやる分にはどうでもいいですが、、一条校、ましてや「国立」の学校で何してくれてるのか、、これ絶対、扇動者がいるよなぁ、日教組関連とか。副校長との役職だけは上がってきていますが、実名はでてくるのかどうか、、こういう事案にこそ、文春砲をカマシテほしいところですが、さてさて。

なんて思いながら、ここ最近は、日教組とかアレな組織の影響力ってどんな感じになっているのかなぁ、少なくとも、息子の中学校では表立っての妙なコトはなかったよなとか思いながら、そういや今年に入って教員の待遇改善とのフレーズや、教員免許なしでの採用試験、なんて話を聞く機会が増えてきているようにも感じています。個人的には、少なくとも免許なしの教員は勘弁してほしいなぁ、、と、本棚の『フィンランドは教師の育て方がすごい』の背表紙を見ながら考えてみたりも。

こちら、発行は2009年ですから、もう二昔くらい前の一冊になります。フィンランドの教育事情についての考察をまとめた一冊で、時期的には第二次世界大戦後からの経緯が綴られていて、社会民主主義の視座も含めて興味深く読んだ覚えがあります。

なお、フィンランドと日本の「教職(教師)」の最大の違いは、「教師は専門職」として位置づけられているかどうか、との点と感じました。フィンランドでは学士では不十分で、修士以上が条件となります。そして「教師は自己評価して日々研修に努める専門家」として、着任後も不断の研究に従事することが求められます。

知識は常に更新される、このことがヨーロッパの教育のもう一つのキーワードだ

フィンランドの教育学は机上の空論から脱する仕組みを作っている

フィンランドの教育のすばらしさは教師のすばらしさにあると言われるが、教師を高度な専門家として確立させ、社会的にその立場を認知させている教育学のすばらしさにこそその原因がある。

出典:『フィンランドは教師の育て方がすごい』

教育に対して「学問」として向かい合っているからこその、言葉でしょう。ここだけを見ても、フィンランドの教師の質の高さが伺えます。少なくとも(日教組辺りが望むような)「労働従事者」ではないなぁ、と。

子どもは自ら学ぶ存在で、教師はそれを支援する専門家

出典:『フィンランドは教師の育て方がすごい』

これは「学習」の本質を突いた言葉だと思います。そしてそれを文字通りに教え育んでいくのが「教育」なのではないでしょうか。そういった意味で、本来教職とは「専門家」であるべきで、少なくとも時間に縛られる労働従事者では不十分なのだろうと、そう思います。

そんな専門家としての高い意識を持ってして初めて「人を教え育む」という行為に携わる資格が得られるのではないでしょうか。なんか、麻生さんが「自由と繁栄の弧」の中で述べられていた理念にも通じるものがありますねかね、日本を「民主主義の伴走者」と位置付けた、、閑話休題。

そういえば「教育の成果」を測る指針の一つとして、経済開発協力機構(OECD)が行っているPISA調査という学力調査があります。日本の評価は下がる一方だった覚えもありますが(違ったらすいません)、一つ意外だったのがOECDにおいてはゆとり教育の理念が評価されていた点でしょうか、理念だけですが。

では何故日本の「ゆとり教育」は失敗したのでしょうか。本来であれば、教職が専門職として昇華されていく流れになってもおかしくなかったと思いますが、理念を持ちえないただの労働作業へと変質してしまったのには、どんな理由があったのか、気になります。

理念を実践していく現場の教師に受け止める余裕もないというのはあったでしょう。でもそれ以上に「日本教職員組合(日教組)」に代表される労働組合辺りが主導するサボタージュなどで骨抜きにされ続けているからではないのかと、今回の奈良教育大学付属小学校のやらかしをみて、あらためて実感しています。

本来、自己研鑽に充てるべき時間のみでは飽き足らず、「教育」の本分である授業までも放り出して、政治活動に従事することを是とするような活動を主流にしていたのが日教組ですが、今回の奈良教育大学付属小学校においてサボタージュされた時間は、どのように使用されていたのでしょうか、、報告内容を見る限り、あまり明らかにはされていないようですが。

日本では「教師」が専門職としての待遇や社会的地位にはない、といったような言い分もあるでしょうが、授業をおざなりにしてナニガシカをやっていい理由にはなりません。むしろ、自ら「専門職」としての地位を投げ捨ててしまっている振る舞いではないかと、、これ、続報は出てくるのかなぁ。。

平等は、誰にも同じものを提供することではなく、誰もが自分の才能に合った教育を入手する権利である

出典:『フィンランドは教師の育て方がすごい』

結果の平等ではなく、機会の均等こそが自然でかつ公正な「教育の理念」であるべき、といったところでしょうか。個人的には非常に理解と納得のいく内容です。

そう考えると、、

革新系の教育関係者は、学習の機会均等だけではなく、結果も平等であるべきだと考える

出典:『フィンランドは教師の育て方がすごい』

とは、非常に恐ろしい考え方だと思います。人の個性を、多様性を、考えるという本質的な活動を、すべからく否定していますから。それでは具体的にどうしていけばよいのかと言うと、、

子ども一人ひとりに学ぶ姿勢を作る事です。とても難しいです

出典:『フィンランドは教師の育て方がすごい』

とのことなのでしょうけども、現実問題としては、非常に困難な道だと思います。画一的な「平等な結果」だけを追い求めるのであれば、意図した「結果」通りに子供が動くように強制的に捻じ曲げてしまえばいいでしょう、、それこそ、日教組など共産主義思想にまみれた「全体主義者」がやっていることはまさしくこれにあたるのではないかと。

しかしそうではない、子ども一人一人の個性を大事にしながら、決して画一的な手法ではなく、各々の個性にあったやり方で子どもが自分なりの学ぶ姿勢を見つけて作るのを支援していくのが、本来の在り様だと思います。日本では失敗してしまった「ゆとり教育」の本分もその点にこそ、あったのかな、とか考えながら。

教師はあくまで伴走者であって、主役は子供です。その子供が自身の力で考え、価値観を構築し、他者との関係性を模索していくための社会性を身につけていくのが、教育の本分ではないかとも。少なくとも「自分がこの授業に参加していたのだ」という存在感も感じることができれば、そう変な方向に進むことはないとも思いますが、さて。

日本とは教育学の在り様も事情も異なるので、そのまま全てを移植できるわけでもないでしょうが、成人以降の「生涯学習」との理念とも合致して、相乗効果的に「人間形成」が継続されていく事になるのかな、なんてことを考えさせながら、興味深く読み進めたのを思い出しました。

そういえば『MASTERキートン』で「学び続けることが人間の使命」なんてエピソードがあったよなぁ、、久々に読み返してみるかな。。

あと余談ですが、一応、高校教員免許は持っていたりします、旧型ですが。それと学芸員とか図書館司書とかも、、定年後は図書館で働いてみたいなぁ、体力が持てばなんてのが、、最近の老後の夢だったりもします。

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