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「お邪魔します」が「ただいま」になった日

二年ちょっとの年月を過ごした埼玉のワンルームを去る数日前、私は人生最大の喪失感に打ちのめされていた。

部屋を去るのがつらすぎて毎晩号泣しながらダンボールを詰めて、翌朝、より殺風景になった部屋にショックを受けてまた泣いた。
それでも引っ越し日までに支度を整えなければならないという使命感に駆り立てられて、お互いから無数に伸びる未練の糸を一つひとつねじ切るように、べそべそしながらダンボールを組み立てたりしていた。

その一方で、冷蔵庫に入っている食べものや新居に持ち込むには重たい酒類をどんどん消費しなければならなかった。
冷凍うどんとアイスをむさぼり、ごんごん酒を飲んでどんどん酩酊しながら、こんなに一人のびのびできる機会なんてもうしばらくはこないかもしれないと思ってまた切なさにとらわれる。

他の部屋からささやかな生活音が聞こえてくるのがより一層悲しみを煽ってきたので、Youtubeで適当に流行りのJ-POPを流した。

ところが。
恋愛ソングを聞くたびに「君」と「僕」が、部屋と私に重なってしまって、どうにも困ってしまった。

「グッバイ 君の運命のヒト(部屋)は僕(私)じゃない 辛いけど否めない でも離れがたいのさ」(Pretender/Official髭男dism)

「思い出ずっとずっと忘れない空 ふたり(部屋&私)が離れていっても こんな好きな人(部屋)に 出逢う季節二度とない」(Love so sweet/嵐)

「君(部屋)に出会えてよかった 切ないけれどよかった」(Love Forever/加藤ミリヤ×清水翔太)

「会いたくて 会いたくて 震える 君(部屋)想うほど遠く感じて」(会いたくて会いたくて/西野カナ)

やばいやばい、私も部屋に会いたすぎて震えてきたぞ。いや、いま部屋にいるんだけど。
普段なにげなく聞いている歌を口ずさんで、こんな切ない歌詞だったのか!と愕然とする。
しかも部屋は元カレでもないのに。
なのに、どんな人と別れてきたときよりも、友だちが友だちじゃなくなったときよりも、正直、こたえる。

結局「パッパ パイナップル!」(ナゴパイナップルパークのテーマソング)をエンドレスで流しながら荷造りをする羽目になった。

あぁ、沖縄に行きたい。青い海が見たい。

メディアパルさんが以前「ひとり暮らしのエピソード」を募集していたけれど、一人暮らしって、特に特別なものだと思う。

全裸で過ごそうが夜中にお酒やお菓子を楽しもうが突然踊りだそうが泣きだそうが、誰からも何も言われない、私だけの空間に満ち満ちた圧倒的な自由と、自由ゆえの、からりとしたさみしさも。
この部屋で起きたトラブルも喜びも、共有できる人間は自分以外にいないという小宇宙感も。
全部が全部、自分だけのものだ。

あぁ、楽しかった、さみしかった、愉快だった、ときどきちょっとだけ……苦しかった。
そんな感情を一つひとつ反芻しながら、そこここに散らばった一人暮らしの証を拾い集めて、ダンボールに収めていく。

冷蔵庫や洗濯機、思い出のコンロがリサイクルショップに引き取られてからは、部屋はさらに殺風景になった。
もう、遊びに来た友だちや従姉がついうっかり泊まってしまうような居心地のよい部屋の面影はない。

がらんとした部屋

そんながらんとした部屋に、隣の隣の部屋まで声が聞こえるのではないかと思えるほど大声のリサイクルショップのお兄さんや、やたらと腰の低いガス屋さん、そして老齢に差しかかったマリオ風の屈強な引っ越し屋さんが入れ替わり立ち代わりやってきて。

そしてある午後、私は彼氏の住んでいる東京のマンションに引っ越した。
引っ越した次の週、大家さんと管理会社による部屋の状態チェックが入った。
駅からアパートに向かって歩いている途中で、渋滞にはまった大家さんから30分ほど遅れると電話があった。
先にきた管理会社のおじさんに「ずいぶん綺麗に住んでましたね、これまで見た20代の人の部屋だとダントツにきちんとしてる」と褒めちぎられて、ついドヤ顔してしまう。
そんな状態だからあっという間にチェックは済んでしまったのだけれど、大家さんから「どうしても会ってお祝いを言いたい」と電話で言われていたために、私とおじさんはお茶もない、座布団もない部屋でぺたりと座って大家さんが来るのを待っていた。

息子の車で来た大家さんは、おじさんと私にぺこぺこ謝ったり室内を見て私を住まわせて本当によかったとおじさんに強くアピールして、そして私に結婚おめでとうと何度も繰り返した。
そして感極まった様子で、1500円くれた。

私以上にびっくりした様子のおじさんが「いや日割り家賃の返金はもっと少ないし、銀行口座を経由してやるって話でしたよね?」と割って入ったが、「いいんです、今すぐあげたい」と彼女は頑として譲らなかった。
部屋をさらにカスタマイズするべく管理会社とまだ少し話があるからと大家さんが言うので、私はひとり部屋を出て、肉汁餃子のダンダダンで遅めの昼食を食べて彼の待つ部屋に帰った。

餃子定食

「ただいま」とドアを開けたら、彼氏が「やっとただいまって言ったね」と言った。

……バレていたのか。
実は埼玉のワンルームへの仁義から、これまで彼の部屋に入るときには「ただいま」と言えなかったのだ。
あの部屋への未練をそっと断ち切るように、これからこの東京の部屋に「ただいま」を使っていこう。

こうして私の人生の、「埼玉での一人暮らし編」は幕を閉じた。
そしてまだnoteには書けていないけれど、「東京での二人暮らし編」はもうゆっくりと始まっている。
あの部屋で過ごしたものとは全然違う毎日に、日々戸惑いつつもなんとか踏ん張っているところだ。

お読みいただきありがとうございました😆