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苦手な相手への、マル秘対処法「鼻くそ法&100年法」#017

今回は、タメになることを書いてしまうかもしれない。ご了承いただきたい。

自分が苦手な相手には、「どうせ小さい頃は鼻くそ食ってたくせに」と思えばいい。という話を、コミュニケーションの研修の時などにたまにする。

これは座右の銘だ。それは嘘だが、そう思ってるのは、ほんとうだ。

例えば上司から「君は本当に何も分かっていないな」などと言われた場合、それを真に受ける必要があるかどうかは置いておいて、相手の主観としては、そう思っているということだ。

しかし、ここで私が言いたいのは、そう言ってくる相手だって小さい頃は、鼻くそを食べていたはずであって、そんなに偉そうなことを言えるのだろうか、という事である。

自分が何か偉そうなことを言おうと思った時も、胸に手を当てて考えてみるといい。相手より立派な人間なのかと。

ただし、注意点があって、それを相手に直接言わない方がいいという事だ。

「君は本当に何も分かっていないな」
「そうすかね」
「そうだぞ」
「部長だって、小さい頃鼻くそ食ってたじゃないですか」
「な、なぜ知っているんだ…。そ、それこそ、そういう君だって同じだろう」
「…あ」

こういう会話になってしまうのである。これでは、うっかり仲良くなってしまうではないか。

それともう一つ、苦手な相手とやり取りしている時には「どうせあと100年後には、お互い死んでいる」と考えてみるもおススメだ。

「だから、小さいことなんかどうでもいい」という事でもあるし、「どうせ100年後にはこの世にいないんだから、けんかせずに仲良くしましょうよ」と私は思うのである。地球、宇宙の時間の規模や空間の広がりで見てみると、その人と自分のケンカなんか塵のようなものだ。そんな人とのやりとりなど、誰の記憶にも残らないし、自分が死ぬときに思い出すことも、多分、ない。


ふと「子どもはほんとうに、みんな鼻くそを食べるんだろうか」という疑問が湧いた。

哲学では、答えでなく疑問こそが大事だ、と確か誰か偉い人が言ってたっけと思いつつ、これは果たして偉大な疑問なのかという謎は置いておいて、子育て経験のある知り合いにきいてみた。

数人に聞いてみたのだが、
「うちは結構食べている」
「うちは鼻くそが詰まっているけど、私が見ている所では食べていない」
「うちの子はわからないけど、少なくとも自分は食べていた」

など、子どもがみんな食べているわけでもないようだ。仕事で保育園を訪問している保健師さんも、「クラスに一人くらいほじってるけど、みんなじゃない」と教えてくれた。

しかし、ここまで書いておいてなんなのだが、よく考えてみると「みんな鼻くそを食べていた」説は、自分が信じていれば、それでいいのかもしれない。目の前の相手が偉そうなことを言っていても「どうせ鼻くそ食べてたんだろっ」と考える上では、事実かどうかは、どっちでもいいからだ。

ここに、世界の平和のため、「子どもは誰でも鼻くそ食べる連盟」を結成する。

という必要は別にないのかもしれないが、誰かに設立をお願いしたい。

入会特典:ティッシュ1箱

(追記)
ちょっと真面目なことを言うが、私は「人が人を評価することは、本質的にできない」と考えている。

企業では「利潤の追求」、などのように、何か目的をもった集団の場合には、そこで求められる行動をとれるかどうかは、評価の対象になるだろう。

でもそれは、そこの集団で仕事上必要とされる行動や言動をとれるか、の評価なのであって、「その人自身の価値」とは関係ない。同じ人間同士が、他の誰かの、人としての価値を評価することはできないと思う。

みんな、鼻くそをほじったり、食べたりしているからだ。

(追記2)
この記事を読んだ知り合いの何人かが、「,うちの子は鼻くそを食べてます」とわざわざ報告してくれた。やっぱり思ったより、結構な子どもが鼻くそを食べているのかもしれない。

2023年10月14日執筆、2023年10月21日投稿


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