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子どもが「自分の世界に引きつける」授業とは?~「フォーマルな知識」と「インフォーマルな知識」から~
1.子どもの考えを大事にしたいのだけど…
「子どもなりの発想を大事にしたい」「その子その子の考え方を尊重したい」と考える教員は少なからずいらっしゃるかと思います。特に、幼さ十分に残る小学校段階であればなおさらではないでしょうか。
しかしながら、学習指導要領で示された学習内容を十分理解するには、なかなかそうも言ってられない…「計画していた範囲が終わらない!」と思わず愚痴をこぼしてしまう教員の方も多いでしょう。
法的には、確かに未履修は問題になります。教育内容を担保していないことになりかねないので…
しかし、学習自体を担保していないかというと、そうとも言えないかもしれません。
2.フォーマルな知識とインフォーマルな知識
奈須正裕『個別最適な学びと協働的な学び』2021,東洋館出版社
に、ヒントがありました。
一年生国語科「たぬきのじてんしゃ」の授業、自転車の挿絵について「しゃりん」と「タイヤ」の違いについて子どもが話している場面を取り上げた一節からです。
(前略)
「どうしてあなたは、絵にはなくても本当は小さい『しゃりん』があるって思うの?」
「だって『たぬきのこどもは、ながいあいだのゆめがかなって、あかいじてんしゃをかってもらいました』って教科書に書いてあるでしょ。そうやって子どもが買ってもらったはじめての自転車にはね、必ず『しゃりん』がついているんだよ」
そして、満面の笑顔で誇らしげにこう続けたのです。
「でもね、私の自転車には、今はもう『しゃりん』はついてないけどね」
この子は自分のかつての経験になぞらえて、お話を読んでいたのです。補助輪がついたピカピカの自転車が家にやってきた日の高揚感、毎日練習してのれるようになった時の喜び、たぬきのしっぽこそひかなかったものの、転んで痛い思いもしたでしょう。
(中略)
これが、一年生一学期の出来事だったことから、子どもは本来、どんな教材でも自分に引きつけ、自分ごととして対象に肉薄しながら学ぼうとするものではないかと私は考えました。
(略)
自分に引きつけるとは、一人ひとりの生活や興味・関心に根差した具体的で特殊的で個別最適な知識や経験、心理学でいうインフォーマルな知識が教室にもち込まれることを意味します。対して、小学校就学とともに始まる教科の学習では、抽象的で一般的で普遍的な、いわゆるフォーマルな知識の習得や洗練を目指すことが多いでしょう。そこでは、個々の子どもが抱える具体的で特殊的で個別的な知識や経験にいちいち拘泥していたのでは、フォーマルな知識の習得などおぼつかないと考えてきたように思います。
一方、すべてが自分ごとの遊びやくらしの中で生じる「無自覚な学び」を中心としてきた幼児教育では、むしろその子ならではの具体的で特殊的で個別的な知識や経験を大切にし、それらをよりどころとして学びを紡ぎ出そうとしてきました。ここに、幼児教育と小学校教育の圧倒的な違い、いわゆる幼小間の段差の本質があると考えらえます。(pp.111-113)
※他書籍にも同内容は記載されています。
つまり、小学校の教科書に記述された内容はフォーマルな知識で構成された内容、しかし、子どもの世界に引きつけた学びはインフォーマルな知識との結びつき、という捉えといえそうです。
3.学びはそもそも自身のインフォーマルな知識との結びつきから
そうなると、教科書の内容をもとに組まれた授業計画は、ある程度フォーマルなものにならざるを得ません。「公教育」「再現性」「平等」という点を踏まえて、全国どこでも…となれば、フォーマルな内容の方が相性は当然良くなります。
しかしながら、幼児教育の視点に立てば、学びはそもそも子ども自身のインフォーマルな知識との結びつきの上に成り立ちます。「自分の世界」から見た時、接したときに、「外の世界」から得られた知識がどのようなものであるか、そしてそれを全て自覚しているかというとそうでもなく、無自覚なものの方が多いのは言うまでもなさそうです。
卒園して小学校に入ったからといって、急にフォーマルな学びに適応できるわけではないですから。
これは大人でも言えるのではないでしょうか。様々な教科でフォーマルな内容はありますが、刺さるかどうかは人によって異なります。いわゆる得意・不得意です。
得意なものは、刺さるフォーマルな知識があれば、そのまま自身で興味をもって広げて行きます。この興味の中には、インフォーマルな知識が少なからずありそうです。
逆に、不得意なものは全然入ってきません…その場合、自身の中に、関連するインフォーマルな知識が少ない、もしくは気付いていないことは多々考えられます。
4.フォーマルな知識も、モトをたどれば最初は誰かのインフォーマルな知識なのだから
そして、フォーマルな知識も、モトをたどれば最初は誰かのインフォーマルな知識からスタートしたものではないでしょうか。
誰かの素朴な発見や気付きから、書いたり話したりして共有し、雑談から議論を重ね、理論や概念として世に残るモノ…つまりフォーマルな知識になったはず。
そうなると、インフォーマルな知識を許容することは教育の本質に近いはず。(きっとこれが「資質・能力」や「非認知能力」が重要視されてきた流れのはず)
フォーマルな内容を重視しすぎることは、特に幼小に引きつければギャップを大きくする原因となり、学びそのものの本質から外れる可能性も生み出すかもしれません。
5.子どもが「自分の世界に引きつける」授業
フォーマルな知識を扱う学校段階でも、個々のインフォーマルな知識とのつながりを重視すること、つまり、子どもが「自分の世界に引きつける」授業…具体的には「子どもなりの発想を大事にしたい」「その子その子の考え方を尊重したい」という考え方は、特に学びに向かう姿勢の担保につながるのではないかと考えます。
そんな考え方をもつ教員の授業で育った子どもにとっては、「教科内容が終わらない」といって嘆きそうな状況は、実は大して問題ではないのかも。
未履修を肯定・助長するわけではありません。時数調整するなどして、子どもの学びを充実させましょう!笑
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