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20240705 イラストエッセイ「読まずに死ねない本」014 「アンデルセン

  アンデルセンは単なる童話作家ではないんですよね。
 その作品群(岩波文庫で読めます)はロマン主義文学と言っても良いほど、内容の深いものです。
 ロマン主義文学とは19世紀ヨーロッパで花開く文学活動で、それ以前の古典派が理性、形式を重視したのに対し、感情、感性を大切にしたものがロマン主義です。
 「影」という物語は、ロマン派の代表的な作家、ホフマンの短編を思わせる、幻想的な短編小説と言っても良い。
 アンデルセンワールドというものがあるんです。

 ぼくはグリム童話も好きですが、こちらはユング心理学の深層心理、集合的無意識の世界のような、善と悪の境がはっきりしていない、いわば元型的な物語群です。乾いているというか、凄みがあるというか。
 一方のアンデルセン童話集はすごくロマンチックなんです。(ロマン派という意味ではなく、感傷的という意味で。)ウェットですね。思春期の青年の悩みというか、心の動きみたいなものが老年までずーっと一貫しています。

 それは当然で、グリム童話は民間に流布している物語を採集したものですし、アンデルセン童話集は個人の才能によるものです。グリムは作家というより、民俗学者に近いんですね。ロマン派に分類されているのは、無意識は理性の正反対ですから当然かも知れません。
 ユング心理学的に言えば、グリム童話が集合的無意識、すなわち民族の無意識、神話、伝説であり、アンデルセンは個人の無意識、個人の夢のような作品群と言っても良いかもしれません。

 ぼくは高校生の頃、アンデルセン童話にとてもひかれた時期がありました。思春期のナイーブな精神と親和性があるのです。
 アンデルセンはとてもピュアな心を持ったひとでした。純粋な魂を持つ、永遠の青年のようなひと。ところが、外見がとても醜かった。高すぎる身長、大きすぎる鼻。それで、恋が成就することがなくて、一生独身だったんです。作品にはその悲しみがにじみ出ているんです。初恋と失恋の世界ですね。男女関係になる以前の、憧れの状態のまま失恋する。するとその憧れは冷凍保存されてしまい、幻滅することがない。ずっとその世界にとどまっていて、そこから先の男女の成熟した関係まで行かない。まして男女関係の闇については全くの無知と言わざるを得ない。

 なので、思春期の頃にはひかれますけれど、やがて卒業するんです。そして成熟した大人の世界を生きる者にも耐えうる、もっと重厚な読書に移行してゆく。ぼくもそうでした。

 ところが、です。
 還暦を過ぎて最近、アンデルセン童話集を再読したのです。
 これが良いのだなー。しみるというか。
 つまり、人間は成熟すれば偉いという訳ではない、ということが老人になると分かるのです。未熟な、感傷的な心もまた美しいと素直に思えるようになる。
 子どもや思春期真っ只中の頃は、そうした幼いものを脱ぎ捨てて一刻も早く大人になりたいと思う。(そうではない人もいますが。)けれど、責任ある大人の世界を卒業して老人になると、もっと人生を俯瞰できるようになる。すると未熟だった頃の純粋さもまた、非常に尊いものだと気づくんですね。
 アンデルセンの心のみずみずしさみたいなものが、砂漠のようになった老人の胸に慈雨のようにしみこむんですね。笑

 別の見方をすると、アンデルセンという人は特異な個性だったということが出来るかも知れません。ルイス・キャロルが少女に対して特別な嗜好を持っていたことは有名ですし、病院の雑役婦をしながら、誰にも知られずに「非現実の王国」を築いたヘンリー・ダーガーという人もいましたけれど、彼らに共通するような特異性。そういうものを内側に抱えながらずっと生きてきたかも知れません。隠していてもにじみ出てしまう。しかしそれがかえって物語に深みを増している。もちろん時代的にも考えられなかったのでしょうし、ぼく個人も、そういうものを正面から扱うのはちょっと野暮な感じがしますけれど。

 醜い容姿、人とは違う特異な衝動を内側に秘めておりながら、美しい心と魂の純粋さを失わなかった稀有な存在。それがアンデルセンだと思います。
 親指姫が結ばれる美しい王子は、アンデルセンじゃないんですよね。むしろ、親指姫が嫌悪するもぐら。こっちがアンデルセンなのです。正確に言うと、王子はアンデルセンの心。もぐらはアンデルセンの肉体。そういう悲しみがね、にじみ出ているのです。そしてつばめはアンデルセンの詩人としての魂だと思います。フクザツなんですよね。
 みにくいアヒルの子は言わずもがなです。

アンデルセンの肖像 オリジナルイラスト


 


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