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20240612 イラストエッセイ「私家版パンセ」 0015 「仕える指導者」

 前回、ピラミッド型社会(権威主義社会)と民主的な社会についてお話ししました。現在、この二つの陣営が世界の覇権をかけて争っている、そういう風に言われています。
 ぼく自身は民主主義にも多くの欠点があることを認めつつ、まあ、これで行くしかしかたがないかな、という立場です。

 さて今日は、リーダーのお話。
 いかに民主的な社会制度を持っていても、それを運用するには優れたリーダーが必要です。みんなで話し合って決める、というのは聞こえは良いのですけれども、実際問題、リーダーとなるべき存在がなければ何も決まりませんし物事が前に進みません。献身的で、ビジョンがあり、説得力のあるリーダーがいなければ、いかにシステムが整っていても物事はうまくいかないんです。
 例えば古代ギリシャの民主主義体制(デモクラティアー)において、ペリクレスという傑出したリーダーがいなければ、あそこまでの繁栄を誇ることはできなかったでしょう。
 ちなみにデモクラティアーというのは、デモス(民衆)がクラティアー(権力)を持つ体制という意味。

 だとすると、優れた人物、エリート層が社会の意思決定を行う権威主義社会(アリストクラティアー)とどう違うのでしょうか?(アリストスとは優れた人々という意味から、貴族という意味も持っています。)
 人々に選挙権があるかどうかということもあると思いますが、ぼくは、リーダーが支配者になるか、それとも奉仕者になるかの違いだと思います。
 残念ながら実際はそうなっていないことが多いのですけれど、民主主義体制におけるリーダーは、支配者ではなく、奉仕者でなければならない。そのような奉仕者としての優れたリーダーを持つとき、民主主義社会は最も強く、健全な状態になるのだと思います。
 たとえ権威主義社会であっても、献身的で人民に仕えるリーダーを持つ場合には、その社会で生きる人々の幸福度は高くなるでしょう。そして民主主義社会であっても、リーダーたちが人々から搾取するような者たちであれば、その社会は不幸な社会になる。
 このように、リーダーの質はもしかしたら、社会体制の違いよりも大きいのかも知れませんね。
 イエス・キリストが「あなたたちの中で最も偉くなりたいと思うものは、仕えるものになりなさい」と言いましたが、これが一番肝心なポイントだと思います。

 エリートとは選ばれし者という意味ですけれど、現在では優れた人々をさす言葉として使われます。時には「勝ち組」という意味にも。でも本来は、公のために自己犠牲が払える人間のことを指す言葉だったのです。自己犠牲を払うことが出来る人は多くありません。それゆえ選ばれた人々だったんですね。
 リベラルの衰退が叫ばれる昨今ですけれど、それは、リベラルエリートたちが自己犠牲ではなく、単なる勝ち組になってしまったことが一番大きいとぼくは思っています。

グリューネヴァルト作  イーゼンハイム祭壇画 模写

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