見出し画像

ぼくのADHDや学習障害について、ちょっとだけ触れておく。


先日、謝罪の記事でも、少し触れている通り、ぼくはADHDなのである。

といっても、子どものころは、そういった病気があるわけでもなく、落ち着きのない子どもとか、注意力が散漫だとか、学習に集中できないとか、そういった見方しかされていなかったので、ぼく自身、自分がADHDだという自覚をして育ったわけではない。

もちろん自覚もしていなかったので、特別、実際に病院で検査を受けたわけでもない。

けれど、大人になって、そういう病気が一般的になってきてから、ネットなどで診断してみて、思い返せば、「あー、たしかに当てはまるわ」とか「あーわかるわかる!!」など、ADHDの症状に当てはまる行動をしていたことに気づき、自分がADHDなのだと自覚したのだ。

むかしからぼくは、学校の義務教育でする学習というものに、どうしても関心が持てず、算数、数学、国語、社会、理科、英語、ほぼ全教科、壊滅的に成績が悪かった……。

ただ、ぼくがふつうの〝ADHD〟と違うのは、子どものころは周りに迷惑をかけるような〝ADHD〟(注意欠陥多動性)ではなかったということだ。むしろ子どものころだけで言うなら〝ADD〟(注意欠陥のみ)の要素のほうが強かったように思う。

どういうことなのかと言うと、興味のない教科の授業のときは、ぼーっと外や宙を眺めて、空想に耽っているような子どもだったからだ。そもそも授業は聞いていなかったし、授業中に先生に当てられても、気づかないなんてことはザラだった。ただ、だからといって、それで他の生徒に迷惑をかけたことはない。この時点だけで判断をするなら、ふつうに考えれば〝ADD〟のように思えるだろう。ただ、ふつうと違うのは、ふだんは〝ADD〟の要素が強いのに、ある事柄になると、途端に〝ADHD〟の要素が強くなるのだ。

ちょっとあとで話すが、ひとまず子どものころの話をしたいので、話を脱線させずに進めていく。

学校で宿題を出されても、ほとんどやっていったことはない。夏休みの宿題も周りの友だちが、夏休みの最後に必死こいてやっている中、ぼくは一切、手をつけていなかったし、そもそもやろうともしていなかった。理由は、それで人に迷惑をかけるわけでもないので。(先生には迷惑をかけていたかもしれないけど……)

とにかく興味関心の持てないことは、やらない子どもだった。

で、さっきの〝ADHD〟の説明をしていくのだが、ある要素とは何なのかと言うと、そう〝自分の興味のあることや気になったことに関して〟だけ、そのADHDが発動するのだ。

なぜか、そこでスイッチが入ってしまい、自分でも制御できないほどに、集中力を発揮してしまい、やらずにはいられなくなってしまうのだ。そして、その傾向は年齢を重ねるごとに強くなってきている気がする。とにかく同じ場所でじっとしていることが苦痛だし、そのADHDモードのスイッチが入ってしまうと、常に動いていないと落ち着かないのだ。

つまり子どものころは興味のないことばかりやらされていたせいで(義務教育の環境のせいで)、スイッチOFFの〝ADDモード〟(注意欠陥)の要素が強かったのに対し、大人になってからは仕事や趣味だったり、人生の自由度が増えたことによって、必然的に興味や関心のそそることをやれる環境が増えた影響で、今まで眠っていた〟ADHDモード〟(注意欠陥多動性)、要するにスイッチONの状態が、徐々に顔を覗かせるようになり、その傾向が強くなっていったのだ。

そして、ADDのモードの要素が強い学生時代では、ぼくは完璧に劣等生認定を周囲の人たちから受けていたのだが、その環境が変わり社会に出てからは、ADHDモードが強くなった影響で、今まで苦手だと思い込んでいた学習も、実は得意であることが判ってきた。

何を言いたいのかというと、べつにぼくは勉強ができないわけではなかったのだ。

子どものころは興味の持てる分野が、周りに少なかっただけで、興味の持てる分野であれば、人一倍の集中力を発揮できるし、それを理解できるだけの、頭脳は持っていたということだったのだ。

その証拠に、自慢に聞こえるかもしれないが、仕事を覚えるのは、冗談抜きでメチャクチャ早いです。

どれくらい早いのかというと、わざわざ1〜10を説明してもらわなくても、周りの動きを観察していれば、ある程度、仕事の内容は理解できていたし、人から何の説明もなかったとしても、パターンや過去のデータから算出して、場合によっては自力で仕事内容を解読することもできた。

それに、ほんとにニッチな分野になるかもしれないが、自分が興味を持てることだったり、自分の関心のある分野であれば、大抵、一度見たり聞いたりしたものは、1回で記憶することができるし、一度、記憶したものは、ほとんど忘れることはない。

とくに脳内で動画として保存したものに関しては、いつでも脳内で再生できるので、道も一回で覚えられるし、仕事の手順も見たモノを、ただ再現すればいいだけなので、べつに覚えようとするまでもなく、半自動的に覚えることができる。

なので、基本的にぼくは、仕事を覚えるときはメモを取らない。なぜそうするのかと言えば、目に記憶を焼きつけたいのに、メモを取っていたら、その記憶術が使えなくなるからだ。ということで、ぼくは仕事中は最低限のメモしか取らない。(上司や先輩からメモを取れと注意されることもあるが、「覚えたので大丈夫です」とか返事をしているのだから、冷静に考えると感じ悪い新人である……)

まあ、だからといって苦手なことがないわけではない。とくに苦手なのは、書面に書いてあるものを記憶することや、短期的に記憶しておかなければならないワーキングメモリーを必要とする作業だ。

まずワーキングメモリー(とくに長期的に覚えておく必要もないけど、短期的には覚えておかなくてはならない事柄に関して)は壊滅的に人よりも欠落している。たった今やろうとしていたことすら、三歩歩いた瞬間に忘れてしまう。ニワトリ並みの記憶力しかない。なので、事前に忘れてしまいそうなことは、メモ帳や、スマホのメモ機能などに、メモっておく必要がある。そうしないと仕事に支障が出る。

次に書面に書かれた内容を理解したり、覚えたりすることなのだが、自分で見たり聞いたり経験したことなら、目にビデオカメラがついているようなものなので、そこまで覚えるのに苦労はしないのだが、どうしてもそれが書面に書かれているものとなると、話はべつである。読むのも面倒だし、とくにその内容が小難しく書かれてあると、理解をするのも億劫になってくる。

もうそうなると、脳みそが勝手に「これは面倒臭いので、覚える必要ない」モードに切り替わってしまうため、何度読み返しても、頭に入ってこない。「つまり、何が言いたいわけ?」「あー、面倒臭い、もうやーめっぴ!!」となってしまうのだ……。(ADDモードだ)

つまり、何が言いたいのかと言うと、

実はぼくは、頭が悪いわけではなかったということだ。

学生時代落ちこぼれだったのに、対象がお金を稼いだり、自分の生活がかかってるなかで、仕事を覚えなきゃいけない環境であれば、しかもそれで人に迷惑がかかるとなれば、さすがのぼくもケツに火が点き、必死になって仕事を覚えようとするし、たとえそうじゃなかったとしても、自分の興味の持てる分野だけなら、人並み以上の集中力を発揮し、その事柄を理解できるだけの理解力は兼ね備えていたということだ。

とにかく、義務教育という環境が自分には合っていなかったし、学生時代は周囲の人たちから、散々、学習障害だの知恵遅れだのとバカにされていたのは、それは義務教育という環境の中で、無理やりぼくという人間を測ろうとしていたから、勘違いされていただけのことであって、そう勘違いされていた真相を、もっと深く読み解いていくと、ただ、ぼくという人間を測る〝環境や物差し〟が間違っていただけだったのだ。

ここまで読んで頂き、ありがとうございましたm(__)m


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?