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【完結版】キリマンジャロもサハラ砂漠も制覇した、福岡糸島のキャリアコンサルタントが見つけた「Playfulに生きる」とは?

「なかったんです、これがやりたいってことが」

2016年、新卒入社から9年間勤めたリクルートを退職し、福岡県糸島に移住して、同級生6人で起業した寺平さんは、そう語る。

会社のビジョンは、”Playful”。

”Playful”とは、自分が本当にしたいことをしているからこそ生まれるワクワクする心の状態を表す言葉だ。

会社で掲げたビジョンとは裏腹に、寺平さんは、独立後、大きな壁にぶち当たる。

仲間たちに「お前は何がやりたいの?」と問われても、答えられない。

鬱々とする中でふと一つの後悔が頭をよぎる。

大学時代、京都から東京まで500キロを歩こうという仲間の誘いを断ってしまった。

「なんで、あん時、歩かへんかったんやろう」

その時、閃いた。悶々とした思いを晴らすためにも、東京から福岡までの1100キロ、当時の仲間の誘いの倍の距離を歩いたら面白いんじゃないか?

歩こうと閃いてから3週間後、たった一人で歩きだす。

人気のない山道を、行けども行けども同じ景色が続く田舎道を。

いやが応でも自分自身と向き合わざるを得ない中で、寺平さんは、大切なことに気づく。

歩くことは、生きること。

寺平さんが歩いてきた軌跡を辿る。


39歳、覚悟を決める

「僕の頭を5ミリにしてくれないか?」

2022年10月某日夜、寺平さんは自らの頭を坊主にして欲しいと、洗面所から持ってきたバリカンを妻に手渡した。

その頭は3日前、美容室でオシャレにカラーリングしてもらったばかり。

最初は戸惑っていた妻も、冗談を言っているわけではないと知って覚悟を決めた。

「いくよ」

髪の毛はサラサラと塊でこぼれ落ち、10分ほどで希望していた坊主頭が完成した。

その翌日、合同会社こっからの経営ミーティングがオンラインで行われた。

「合同会社こっからの人材紹介事業部を切り離し、別会社を立ち上げたい」

ミーティングの冒頭、坊主頭でズーム画面に登場した寺平さんは、共同代表であるメンバー5名に対して、新会社立ち上げの意思を伝えた。

左上、坊主が寺平さん

ガキ大将の挫折

1983年、大阪で生まれた寺平さんはラジオDJとして不動の地位を築いていた父の影響もあってか、自身も目立ちたがりで、人を楽しませることが好きなムードメーカーだった。生後7ヶ月で体重11キロ、小学6年生で175cm、中学1年生の頃には182cmと、体格がよかったこともあり、喧嘩では負けなしの名実ともにガキ大将。

「親父はもう、めちゃくちゃパワフル。自分でラジオDJとしての道を切り開いてきた、パイオニアみたいな人。やんちゃな僕には、めちゃくちゃ厳しかった」

寺平さんは父の勧めで私立中学を受験した。
「父が絶対」という環境の中で、言われるがまま勉強はするけれど、気持ちが全く入らなかった。寺平さんが勉強していないことがわかると、父は受験の妨げになりそうなもの全てを取り上げた。ゲームもテレビも、選抜選手にも選ばれていた大好きなサッカーも辞めさせられた。

それでも結局、受験した中学には合格することができず、地元の公立中学へと進んだ。息子が勉強する姿を横目で見ていた父は、やりきってダメなら仕方ないとの反応だった。当の本人は覚悟していたはずなのに悔しかった。
上には上がいることを知った。

「初めて味わった挫折。次は絶対成功したろと思いました」

受験の辛さを味わった寺平さんは、大学附属の私立高校への入学を目指すことにした。

「今思えば、受験なしで大学行けたらラクやぞと、その時も親父からのナビゲーションがちゃっかりありました(笑)」

親父の人生を生きていた

寺平さんが中学3年の時、フランスで日本代表が初出場するサッカーワールドカップが行われていた。午前3時から始まる日本戦を楽しみにしていた寺平さんは、友達と電話しながらテレビで試合を見ていた。仕事のために起きてきた父が、前半の45分が終わったところで突然テレビを消した。

「なんでや」

「あかん、寝るか勉強するか、どっちかにせえ」
父は強い口調で言ってきた。

「なんでや。今から後半戦や、絶対寝えへん」
初めて父に反抗した。

寺平さんがテレビをつけようとすると殴られた。父との取っ組み合いの末、着ていたティーシャツはビリビリに破けた。結局、ワールドカップの観戦を諦めてベッドに入るも、眠れぬ夜を過ごした。

「めちゃくちゃ楽しみにしていたワールドカップが見れなくて。でも、親父が言うことは絶対だという中で生きていたから。どうすることもできなかった。今、当時の自分を振り返ると、親父の人生を生きていたような、そんな感覚があります」

お笑い芸人を目指して、心斎橋で路上漫才

中学時代、テストでは常にクラスでトップの成績をおさめていた寺平さんだったが、学校の内申点が悪かった。型にはめられることがイヤで、納得いかないルールに対しては、先生に説明を求めていた。

「うるさい」と先生から一喝されては、歯向かっていた。そのせいで内申点は5段階評価の3や2ばかりが並んでいて推薦入学は期待できない。高校には学力一本で進学するしかないと自覚して、今度は必死で勉強した。その甲斐もあって、合格者180人中トップ10に入る成績で関西学院大学附属高校へ合格した。

高校ではサッカーに打ち込んだ。
2年時には、サッカー部の友達とコンビを組んで漫才の練習も始めた。お笑い番組を見ては、研究に勤しんだ。大学入学と同時に、吉本興行が運営するお笑い芸人養成所であるNSCへの入学を目指し、週末には相方と心斎橋で路上漫才を披露した。寺平さんの父も「やりたかったらやったらいい」と認めてくれた。

人生を変える出会い

2002年春、寺平さんは関西学院大学へ進学する。
それから間もない5月末頃、高校から一緒に内部進学した漫才の相方から、突然「やっぱりNSCには入学しない」と打ち明けられた。相方には他にやりたいことができたとのことだった。一人でNSCへ入学する気持ちにならなかった寺平さんは、NSCへの入学を取りやめ、ほかの学生と同じく大学の授業に足を運んだ。

ドイツ語の授業に遅刻した日、教室の端の席に座った。そこが遅刻者の指定席だった。もう一人、遅れて入ってきた男が寺平さんの隣に座った。

後に合同会社こっからを共に創業するメンバーの一人、スミケンだ。

毎回ドイツ語の授業に遅れる2人は、授業そっちのけで互いの面白さを競い合った。そのうちに、二人の仲は深まり、毎日のように顔を合わせるようになった。
スミケンと遊ぶうちに、スミケンの幼馴染のナオキ、キミハル、ナオキの友達のタケイと、後に一緒に会社を起こすことになる仲間たちとの縁が繋がっていった。

「スミケンとの出会いは、間違いなく僕の人生を変えました」

左:スミケン 右:寺平さん 現在

仲間に導かれて「外」の国へ

大学2年の終わり、スミケンが留学すると言い出した。
英語が堪能な父の姿を見て、自分自身が英語を話せないことを悔しく思っていた寺平さんは、「ここで英語を学ばなければ、一生やらない」と父に留学を申し出た。快諾をもらい、アメリカのロサンゼルスへ、スミケンはボストン、ナオキはシアトルへ、3人揃って一年間、アメリカへ留学することになった。

留学して半年後、スミケンがロスから車で1時間ほどのサンタバーバラに引っ越してきた。アメリカでも、互いの街を行き来しながら時間を共にした。

なんかオモロいことやりたい

留学を終え帰国するタイミングで、「何か面白いことをやろう」と考えた3人は、大阪の三国駅近くにある古びた長屋に同居することにした。

家賃は6万8千円。6畳・4畳・4畳の3部屋で、部屋の壁は相当薄く、よく隣人から「うるさい」と叱られていた。同居を始めてしばらくすると、留学前から一緒に遊んでいたナオキの友人・タケイや、ナオキとタケイのバイト仲間のユウシも遊びにくるようになった。ユウシは高校時代、3年間を共に過ごした同級生であった。

仲間が集まると決まって「なんかオモロいことがやりたい…さあ、何する?」という話になる。それがきっかけとなり、「何かやりたいけど一歩が踏み出せないでいる学生たちが、一歩を踏み出すきっかけ作り」をコンセプトに『学生団体こっから』を立ち上げた。イキイキと活躍している人に話を聞き、その話を記事にしてウェブで公開したり、学生たちの背中を押すような活動に取り組んだ。

例えば、写真が好きで個展を開いてみたいという学生がいたら、同様に写真が好きな学生を募り、カフェを借りて合同写真展を開催した。また、自転車で日本を回ってみるなど、面白いアイディアがあればそれを形にしていった。

「スミケンとナオキがやることが面白そうで、『学生団体こっから』に参加していたんです。当時の僕には、当事者意識がなかった。こっからの仲間と一緒にいることが楽しくて活動していました」と寺平さんは振り返る。

自分が主役になれる環境を求めてリクルートへ

2006年、寺平さんは就職活動の真っ只中にいた。
みんなを楽しませることが好きだった寺平さんは、エンタメ業界を盛り上げたいと、テレビ局一択で就職活動を行っていた。最終面接まで進むものの内定を獲得できずに悩んでいた寺平さんは、人材業界に就職が決まっていたタケイに相談を持ちかけた。

「自分が主役になりたいんでしょ?じゃあ、エンタメを盛り上げたいというより、自分が主役になる方向で考えたらいいんじゃない?」

友人からもらったアドバイスに、心が動いた。

「たしかに僕は、自分が主役になりたいそれなら目指す方向は、テレビ局のように古い業界ではないのかも。自分がビジネスシーンで主役として成長する=裁量権持ってやれるところで働きたい

そこからは、リクルートやサイバーエージェントなど、若いうちから裁量大きな仕事を任せてくれる企業へと視点を変え、最終的にリクルート(当時リクルートエージェント)に入社を決めた。

新人の登竜門「アポとり大会優勝」から、未達の日々

2007年4月、新卒で株式会社リクルート(当時リクルートエージェント)へ入社した。法人企業の採用支援を行うリクルーティングアドバイザーとしてキャリアをスタートする。

新卒社員の登竜門である、求人を受注するための新規アポとり大会では、1件もアポが取れない新人も多い中で、18件のアポを獲得し、新人賞を受賞した。

「みんな電話かけてないんちゃうか?と思うくらいに簡単にアポが取れました」

社会人として幸先良いスタートを切ったが、アポとり以降の業務フェーズに進むにつれて、転職エージェントの仕事の難しさを実感した。

リクルーティングアドバイザーの仕事では、求人票を受注した後が腕の見せ所でもある。企業との採用要件定義、求人票作成、求職者の窓口となるキャリアアドバイザーへの求人広報や情報共有と、企業と求職者の間に入り、細かな調整や交渉を行いながら選考を進めていく。

「なんとかなるだろう」のノリと勢いでは、なんともならない丁寧な対応が求められる仕事であった。キャリアアドバイザーには、「もっと考えて動け」と叱責された。「決まらない営業」とのレッテルを貼られたこともあった。

企業のアポもとれるし、求人票の受注もできる。それなのに、採用成約の結果が出せなかった。

入社から目標達成ができないまま、3年が経った。

憂鬱な日々を過ごしながらも、同じ大阪配属の新卒同期が誰も達成していないことにホッとする気持ちもあった。

採用のプロになると決めた日

「全く達成できていない自分は何者なのだろう。何をしている人で、何でお金もらってるんだろう」

新卒入社3年以内というプロテクトがあり、早期退職の対象外であった寺平さんは、活躍して退社していく先輩たちの姿を見て、込み上げてくるものがあった。

「採用のプロになる、自分の中でスイッチが入ったんです」

それまでは、企業の希望条件を鵜呑みにしていたが、プロになると決めてからは、企業の要望に対して自分の意見をぶつけるようになった。そこから成約が生まれ、目標達成ができるようになった。

2013年、入社から7年目に東京へ異動した。新規開拓部隊のリーダーとなった寺平さんは、3年間のうち1クオーター(3ヶ月間)を除いた全ての期で目標達成した。

何のために働く?

「当時は、マネジャーになるためだけに動いていました」

上司からもマネジャーへの期待をかけられながら、がむしゃらに働き続けて2年が経った頃、ふと寺平さんは思った。

「何のために仕事してるんだろう」

マネジャーの仕事は、部長から指示される数字をどううまく捌くか、報告するか。自分にはそのセンスもないし、やりたくもない。さらにその上の部長を目指すかといえば、それも自分には難しいと感じていた。

「こっから」の仲間との約束

社会人になってからも「こっから」の仲間たちとはちょくちょく集まり、遊んでいた。3年に一度くらい、みんなで起業しようとの話も出るが実行に移さぬまま30歳を迎えていた。

2014年夏、社会に出て7〜8年が経った頃、いつものように「もうそろそろ、なんかやれへん?」という話になった。

その頃、仲間の一人が地方と都会のデュアルライフをするための家を探していた。旅行と物件探しで訪れた福岡県の糸島で、その仲間は、後に「こっから」の本社となる糸島の一軒家を購入した。

そこから事が大きく動き出した。いつもつるんでいた6人で、1年半後に会社を辞めて、糸島の家を拠点として何かを始めようと約束したのだ。

2014年7月19日糸島で物件探しの旅

32歳、リクルートを退職し仲間と独立

2016年3月9日、寺平さんを含む同級生6人で「合同会社こっから」を設立した。リクルートでマネジャーを目指すことに意味を見いだせなくなっていた寺平さんは、「こいつらと一緒にいることが楽しい」と、迷うことなく退職を決めた。

僕はやりたいことがあって独立したというよりは、こいつらと一緒に何かやりたいという思いで独立したんです。だから、合同会社こっからとして独立した時に、みんなのあれやりたい、これやりたいという会話についていけなかった。当事者じゃなかった

「どちらかというと、何やりたいのかを探しているくらいの感覚でいた」という寺平さんは、他のメンバーからの「お前何してんねん?」とのプレッシャーを感じていた。

「みんながPlayfulとか言ってる中で、僕自身はPlayfulのかけらも感じることができなくて。なんで、こんなに仲間に詰められて、しんどいことやってるんやろう。僕の居場所はここじゃない、こんなに楽しくない独立は意味がないと思った。本気で、独立一年目で辞めようと思っていました。あの時、人生で一番しんどかった

そして、僕は歩き出す

何かやりたいのにやりたいことを見つけることができずに苦しんでいた寺平さんは、学生時代の後悔を、ふと思い出す。スミケンに「京都から東京まで、1号線を歩こうや」と誘われたが、お金もないし、バイトもあるからと断った。

「なんで、あん時歩かへんかったんやろう」

冒頭に記したように、寺平さんは後悔を晴らすために一人で歩くことを決めた。
「それめちゃいいやん。距離的にも1000キロ以上あって体も鍛えられるし、一人で乗り越えるとなると自分の器が磨かれてるんちゃう?」

寺平さんのふとした思いつきを、こっからの仲間も応援してくれた。

2016年4月24日から5月10日までの17日間で東京から福岡までの1100キロを歩くことに決めた。17日間で歩き切るには、1日62キロ、時速6キロで10時間ちょっと。ペースが落ちたら12時間歩かなければ期日内にゴールに辿り着かない。

「朝早くから歩けばなんとかなるだろう。美味しいものでも食べながら行こう」くらいの気持ちで東京を出発した。景色を楽しむ余裕があったのは、神奈川に入るところくらいまで。それ以降は、両足がガチガチに固まり、太腿や膝が痛み始めた。休むことばかりを考えていた。

「なんでこんなしんどいこと始めたんやろう。もう初日やけどリタイアしよう」

ホテルを目指して夜の山道を歩きながら、寺平さんは心に決めた。

ホテルにつくと死んだように眠った。朝起きて、まだ足も痛む中、とりあえず歩き始めた。「途中でリタイアすればいいか」と思いながらも、今までの旅路を無駄にしたくないとの思いも湧きあがってきた。足の激痛に耐えながら、無心でひたすら足を動かしていたら2日目もホテルに着いた。

ヘトヘトになりながら、2日間歩いてみたことで、見えてきたものがあった。
一時間で自分がどれくらい歩けるのか、どれくらい疲れるのか、自分のペースを掴むことができた。そのことで、この辺で休憩を挟もう、もう少し歩こうと、戦略を立てることができるようになった。3日目以降、心に余裕が出てきていろんなことに感情が持てるようになった。

道中楽しむ

Googleマップを頼りに歩いていると、マップが示す最短距離の道は、実際は人が歩いて通れないことがある。3−4キロの道を30−40分かけて歩いては、引き返すということが時々起こる。足が痛む中、往復1時間を無駄にしたことに最初は腹を立てていた。

歩き出して3日目、またマップの示す道が通れず引き返すことになった時、ふと、寺平さんの気持ちに変化が起きた。

これさえも楽しむことが大事やな。道を間違えて引き返すことを楽しむのか、腹を立てて終わるのか。せっかくなら道中も楽しみたい。これは人生にも通ずるものがある」

捨てるを覚える

歩き続けて10日目、大阪に着いた寺平さんは、リクルート時代の先輩2人に連絡をとり会うことになった。高架下の居酒屋で珈琲焼酎を飲みながら弱音を吐いた。

「12キロのリュックがとにかく重いんです」

「なんでそんなに重い荷物持ってんの?大阪の実家に全部を置いていったらええやん」

先輩の言葉に寺平さんはハッとする。

何かあった時のためにとリュックいっぱいに荷物を詰め込んでいた。それが、結果的に自分の身を重くし、歩く上での負担になっていることがわかった。大阪まで10日間歩いたことで、何があれば過ごせるのかも大体わかった。

寺平さんは、リュックを大阪の実家に置いていくことを決意した。クレジットカードとスマホと充電器だけをポケットに詰め込んで、再び歩き始めた。体も心も軽くなると、景色を楽しんだり、あれ食べよう、これ食べようとの気持ちが湧いてきた。重荷がなくなったことで、歩くこと自体を楽しめるようになったのだ。

「備えあれば憂いなし。だけど、備え過ぎるのはよくない。こっからの仲間との関係性や仕事のプレッシャー。恐れや不安から重い荷物を背負うことを選んでいるのは自分自身。荷物を手放したことで、物理的にも精神的にも軽くなり、どうやったら楽しめるだろうと考えるようになった

決めるのは全部自分

最終日、山口県の門司から100キロを歩き切り、ゴールの福岡に到着した。

歩くと決めたのは自分
リタイアすると決めるのも自分
道中を楽しむかどうか決めるのも自分
荷物を下すことを決めるのも自分
やり切るのも自分

決めるのは全部自分

東京から福岡まで1100キロにも及ぶ旅は、寺平さんにかけがえのない気付きを与えてくれた。「これまで何を気にしていたんだろう。仲間に色々言われようとも、僕自身が楽しめるように頑張ったらええんやと思えるようになったんです」

寺平さんが事業として取り組んでいた人材紹介についても、どうやればもっと楽しくできるかを考えるようになったことで、自ずと業績もついてくるようになった。

その後も、キリマンジャロへの登頂、サハラマラソンの完走、漫才コンビを結成してM-1グランプリへ出場、福岡のLOVEFMでラジオDJとしてレギュラー番組を担当するなどさまざまなチャレンジを続けた。その過程で、リクルート時代から16年間続けてきた人材の仕事でも、もう一段チャレンジしたいとの思いが湧いてきた。

人のキャリアや生き方を応援する事業をもっと幅広く進めていきたい。そのためにも、より自分自身で裁量を持って事業経営ができるよう、「合同会社こっから」の事業部としてではなく、別会社として事業をスタートさせることを決めた。起案当初は「本当にやるのか?」と反対する仲間もいたが、頭を坊主にして覚悟を示したことで、最終的には「やってみよう」と新会社設立の承認をとることができた。

今、仕事が一番楽しい

2022年11月11日、株式会社つぶだてるを創業した寺平さんは、代表取締役兼キャリアコンサルタントとして、求職者のキャリア支援や企業の採用コンサルティングを行っている。

「自分で決めてやることの責任の重さや、面白さを感じている。一方で資本金が減っていく緊張感もたまらない。短期の業績をどう上げるか、また、長期的にやっていくことも考えながら、仕事に向き合えていることがめちゃくちゃ楽しい」

「合同会社こっから」として独立した2016年、某イベントで寺平さんは、”自分の在り方”について「好きな仲間と働くことが、自分の在り方につながる」と話していた。7年経った今、寺平さんが感じる”自分の在り方”に変化はあるのだろうか?

「シンプルに、誰かを楽しませることが、僕のど真ん中にある。人を笑わせるのもそうだし、人のキャリアを応援するのもそう。自分自身も楽しみたい」

幼い頃から、ラジオDJとして身一つで人を楽しませる父の背中を追いかけてきた。間近で見る父は、誰よりも楽しそうに仕事をしていた。

寺平さんは今、父が歩いてきた道ではなく、たしかに自分の道を歩いている。

「他人の評価や人の目を気にしなくなったというのが、僕は、イコール”Playful”なんじゃないかと思っています。

周りを気にせず、僕がやりたいことをやる。
今”Playful”に生きています」


                      (インタビュー・文=さおりす

最後に

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