【読書】 外れたリミッターと底の無い下限。 ~ グロテスク 桐野夏生 ~
桐野夏生さんの本なので、間違いがある訳はありません。
実際にあった事件がベースなので、読んだら確実に重い気持ちになるだろうと思って今まで読まないでいました。
数か月前に、お世話になっている会計士の先生とお食事している時に、面白かった本の話になりました。
自分は暗く病みそうな本と、楽しく軽いものを交互に読むことが多いです。
好きな作家さんの新作は気になりますし、新聞の広告欄の新作案内で面白そうな本は本屋さんに見に行ったりします。
先生が興奮気味にヤバかった本として「グロテスク」を上げられて、しかも奥様に「どう思う?」と感想を聞いて、奥様が「登場人物の気持ちを汲み取った」ようなことをビシっと言い放ったので怖くなった、と仰っていました。
先生は本当に面白かったり、熱くオススメしたいことがある時は、猛烈に饒舌になられるため、この本は面白いに違いない・・と、戦々恐々で本屋さんにて購入した次第です。
ここからはネタバレなことを書いていますので、これから読む予定の方は、読後にお読み頂けたらと思います。
ストーリーとしては・・・
ある年に渋谷で娼婦が殺害され、翌年にも同じように娼婦が殺害されます。
犯人は中国からの密入国者「チャン」で、捕まっており、先の殺された娼婦については罪を認めていますが、後に起こった殺人については無罪を主張しています。
先に殺された娼婦「百合子」のひとつ年上の姉「わたし」が、自分達の幼少から今に至る経緯を語る形で進行して行きます。
後に殺される娼婦「和恵」と、ある宗教に執心し罪を犯した「ミツル」は「わたし」と同じ学校の同級生。「百合子」も後々、同窓生となり同じ学生生活を送っていました。
第一の舞台となる4人が通う高校は屈指の進学校であり、日本社会における「成功している人間(社会)」がひしめくような「THE階級社会」となっています。
「百合子」は怪物級の超美少女であり、高校時代から同級生の同性愛者の男「木島」がマネージャーとなり、高校のエレベータ式大学の「花形」な運動部の主将たちであったり、教師や教授と「売春」を繰り返します。
「わたし」はそんな怪物の妹を忌み嫌って、まともに対峙しません。
「ミツル」は飄々と学年トップの学業成績を維持し、運動なども苦労している様子が微塵もなく、どんなことでもサラっとこなします。
「和恵」はガツガツと何でも必死さを「丸見え」に頑張り、同級生から小馬鹿にされていますが、そのことに気付きもせず、がむしゃらに生きています。
この4人が大人になり、内、二人は「立ちんぼ」と言われる街娼へ、一人は信仰の元で大罪を犯し、残る一人も導かれるように「二人」と同じ道を辿って行くようになります。
特に「和恵」の堕ちていく様が凄まじく、狂気や自己破壊を通過した怪物へと変貌していきます。
「二人」の死に様はほぼ同じ様相で、「たちんぼ」という「仕事」も同じであっても、そこに至るまでの生き方や考え方は、全く違います。
「百合子」が売春を働くようなシーンでは「ユリコ」と表記されるようなのですが、それはひとりの人間であっても「二面性」があると示していると思いました。「性交」を至上の喜びとする「ユリコ」と、「男」を冷めきって見ている「百合子」。
対する「和恵」は真面目な高校生時代から、昼は日本屈指の優良企業に勤める身の上でありながら、夜は「立ちんぼ」になり、殺されるところに至るまで、終始「和恵」の表記です。
これは「いずれユリコを凌駕する怪物になる」という「一貫性」を示しているように思いました。
本書は「美しさ」や「賢さ」も尊いものですが、「若さ」がそれ以上に価値を持ち、「肩書」は「肩書を持っている」だけで、その人自身に価値があることにはならない、そんな厳しいことを示唆しているようでもあります。
高校時代から患っている病が「和恵」の内も外も駆逐するような様や、事務所に籍を置く「ホテトル嬢」から、直引きの「立ちんぼ」になってからの「思考停止」と「妄想」、そして「現実(リアル)」には、「何でそんなに」「そこまで」の言葉しか出ないと思います。
自分は以前、某AV映像メーカーに事務職で短期間勤務していました。
社内で聞く話だったり、同僚や外部制作の方と飲みに行った時に聞いた話は「グロテスク」にとても近かったり、超えているように思う話も聞きました。とてもまともに聞いていられなかったので、違うことを考えながらのながら聞きでしたが、脳裏に焼き付いてしまったこともあります。
話がやや逸れましたが・・・
人に備わっている体力的なチカラは、火事場の馬鹿力のような瞬間でも無い限り、100パーセントのチカラを発揮出来ないように「リミッター」がかかっているそうです。さもないと「カラダが壊れてしまうから」と。
そう考えると、精神的なチカラにも「リミッター」はきっとあって、その一線を超えてしまったのが「和恵」なのかもしれません。
「チャン」「百合子(ユリコ)」「和恵」は、それぞれ上申書であったり、手記を残しています。
全ての書を読んだのは「わたし」だけです。
それでも「わたし」は「百合子(ユリコ)」と「和恵」と同じ道を、甥っ子と一緒に進んで行ってしまいます。
ひょっとすると「リミッター」は、外すことに「甘美」なものを覚える人がいるのかもしれません。
でも、外れてしまった先の書はありません。
底の無い下限は、本当のところを「本人」しか知ることが出来ないと思いました。
「和恵」と同じ病で「リミッター」の外れた人の物語が、こちらの本にもありました。
やや形は違いますが「百合子(ユリコ)」と「ミツル」はこちらに近いものを感じました。
乃南アサさんも、この方面のお話は痺れるものがありますね。
ご興味を持たれましたら、各本の読後は軽ーーーい本を間に一冊挟んでお読みなることをオススメします。
「リミッター」が外れないように。。
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