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「てるてる坊主=形代」説・再考【てるてる坊主考note#27】


はじめに

 寛政元年(1789)に蝦夷(現在の北海道)を旅した菅江真澄(1754~1829)は、旅の記録を『蝦夷喧辞弁えみしのさえぎ』と題してのこしています。そのなかに、旅の途中で目にしためずらしいてるてる坊主について記しています(傍点筆者)[内田武志・宮本1971:41頁]。

雨は、きのふのやうにはれずふれば、わらはべ、てろてろぼうづとて、紙にてかたしろ●●●●をつくり、かしらより真二つにたちて、ひとつ〳〵に糸つけて、さかさまに木の枝にかけて此雨のはれなんことをいのり……(以下略)

 前日から降り続く雨のなか、子どもが紙で「てろてろぼうづ」を作っています。頭から縦に真っ二つに切り、そのひとつひとつに糸を付け、木の枝に逆さまに吊るすという作法がつづられています。
 注目したいのは、菅江真澄が「てろてろぼうづ」を「かたしろ(形代)」と表現している点。わたしの管見の限りでは、てるてる坊主を形代と位置づけている、もっとも古い事例です。
 形代とは、穢れや災いのもとを託して、川や海などに流し去ってしまおうとするもの。形代のなかでも、紙で小さな人のかたちに作ったものは人形ひとがたと呼ばれます。6月と12月の大祓おおはらえの行事において、人形ひとがたで体をでて穢れを移し、無病息災を祈願する風習は昨今でも広く見られます。

1、柳田国男の「てるてる坊主=形代」説

 そんな形代をてるてる坊主の起源として想定しているのが、民俗学者の柳田国男(1875-1962)。「テルテルバウズについて」と題された一文のなかで柳田は、「町の照々法師は、言はばこの天気祭の破片なのである」と述べています。そして、てるてる坊主のもとであると位置づけている天気祭について、以下のように説明しています[柳田1936:44頁]。

全体に農家は雨天をさう苦にしないから、晴を祈る為の人形といふものは比較的少ないが、それでも嵐を伴なふ大降りはいやがつて予め之を避けんとし、又東北などの低温地帯では、長雨が続くとやはり人形のまじなひをして居る。この事前と事後の人形造りを総称して、天気祭といふのが最も普通の名であつた。

 すなわち天気祭とは、大雨をあらかじめ避けるため(事に)、あるいは長雨に見舞われた際(事に)、人形を作って晴天を祈願する行事の総称であるといいます。
 柳田によれば、天気祭においては集落全体で大きな藁人形が作られます。そして、この「人形によつて晴を祈る風習の由来は、前代農民の災害観に根ざして居る」として、「天気祭もやはり風の神か雨の神かの、人形に姿を託して退却することを、信じて居た者の考案かと思ふ」と述べています。
 大雨や長雨といった悪天候をもたらす元凶である「風の神か雨の神」。そうした忌まわしい存在を藁人形に託して、よそへと送り出してしまう。その結果として晴天に恵まれることを期待する。そうした「農民の災害観」のあらわれが天気祭であるというのです。そのうえで柳田は、先述のように「町の照々法師は、言はばこの天気祭の破片なのである」と述べています。
 なお、この「テルテルバウズについて」の文中、形代という語句は一度も用いられていません。しかしながら、てるてる坊主は天気祭における藁人形と同様に、悪天候をもたらす「風の神か雨の神」が託される存在と位置づけられています。そのため、柳田の主張を「てるてる坊主=形代」説と名づけておいて、まちがいはないでしょう。

2、柳田説への反論と再注目

 こうした柳田の見かたについて、わたしはかつて反論を提示したことがあります。昨今のてるてる坊主にはかわいらしい姿のものが多く、ニコニコと笑顔を湛えたものすら見られます。そうした姿に「風の神か雨の神」のような忌まわしい存在が託されているとは考えにくいでしょう。
 むしろ、てるてる坊主の作り手にとって好ましい存在、すなわち、晴天をもたらす太陽を招き寄せる役割を期待されているのではないでしょうか。言うなれば、「風の神か雨の神」を託す形代ではなく、太陽を招く依代としててるてる坊主を位置づける仮説です(高橋健一「てるてるぼうず考・序説」[高橋2000:13-15頁]、および、「形代なのか本当か【てるてる坊主考note#1】」参照)。

 しかしながら最近になって、やはり柳田の「てるてる坊主=形代」説にも一理あるのではないかと、わたしの考えが改まってきました。昨今のてるてる坊主はさておき、かつてのてるてる坊主には、形代としての要素をいくつか垣間見ることができます。
 たとえば、呼び名をめぐって。むかしの辞書でてるてる坊主について引いてみると、「てり雛」という別名がしばしば紹介されています。わたしの管見の限りでは、江戸時代の中ごろから明治・大正期を経て、昭和前期までのことです(★詳しくは「雛としてのてるてる坊主【てるてるmemo#6】」参照)。

 ひなと聞くと、昨今では絢爛豪華な雛人形が思い浮かびます。しかしながら、雛人形の起源は穢れや災いのもとを託して流す紙雛であったといいます。すなわち形代です。
 もとより、雛の起源が形代であるからといって、「てり雛」と呼ばれたてるてる坊主が形代であったかどうかは定かではありません。「てり雛」は辞書のなかで、てるてる坊主の別名として断片的に触れられているに過ぎません。そのため、目下のところ「てり雛」の具体的な姿かたちやまじないの作法などは不明です。
 ただ、「てり雛」という呼び名のほかにも、かつてのてるてる坊主にはいくつかの点に形代らしさが窺われます。とりわけ特徴的な、「姿かたち」および「川に流す作法」という2つの切り口から探ってみましょう。

3、形代型と着物型の併存

 1つめに、姿かたちをめぐって。昨今のてるてる坊主は、丸い頭を包んだ布や紙を首の部分で縛り、その布や紙がそのまま裾までスカートのように伸びた姿をしています。こうした作りのてるてる坊主を、ここではスカート型と名づけておきましょう。
 いっぽう、江戸時代の資料を見ると、てるてる坊主が昨今とは異なる姿で描かれています。江戸時代のてるてる坊主の姿かたちがわかる絵が何枚かのこされており、わたしの管見が及んだものは6点(★下記の図1参照)。

 6点のうち2点は、人のかたちにかたどった平べったい作りです(図1の①④)。これを「形代型」と名づけておきましょう。わたしの管見の限り、記録にのこっている形代型てるてる坊主は古今を通じてこの2点のみ。江戸時代後期に集中しており、明治期以降には見られません。
 てるてる坊主の姿かたちをめぐって、気になるのは、江戸時代のてるてる坊主が平べったい作りの形代型ばかりではない点。ほかの4点の絵に見られるてるてる坊主は丸い頭をしており、着物を着て帯を締めた姿です(図1の②③⑤⑥)。こちらについては、「着物型」と名づけておきましょう。
 江戸時代のてるてる坊主には、形代型と着物型が併存していたことがわかります。このうち、着物型のてるてる坊主は明治期以降も長らく作られつづけ、昭和30年(1955)過ぎまで見られたようです。先述したような「てるてる坊主=形代」説を唱えた、柳田国男が生きた時代のてるてる坊主も、この着物型だったはずです。

4、川に流すタイミング

 2つめに、川に流す作法をめぐって。先述したように、形代としての雛人形は、穢れや災いのもとを託されて流されます。流される場所としては、川や海が択ばれたようです。
 てるてる坊主についても、かつては川に流す風習が見られました。たとえば、対象を辞書に絞ってみても、てるてる坊主を川に流すという説明が散見されます。わたしの管見の限りでも、7点の辞書に明記されています(★下記の表1参照)。明治末期の1点と昭和前期・中期の6点です。

 このなかで『大辞典』(表1の④)には、「もし験ありて晴るれば、古は墨にて眼睛を入れ、後世は神酒を供へて川に流し、現時はまた眼睛を入れる」といった具合に、お礼の作法の変遷が示されています[下中1936:402頁]。『大辞典』は昭和11年(1936)の発行。
 「いにしえ」と「現時」は瞳を書き入れ、そのあいだの「後世」には神酒を供えたうえで川に流したといいます。川に流す作法が見られた「後世」とは、具体的にいつの時代を指すのかは不明ですが、当時(「現時」)よりひと昔前の明治・大正期あたりでしょうか。
 前掲した辞書以外の書物においても、てるてる坊主を川に流す作法は数えきれないほど確認できます。ほとんどの場合、願掛けの結果、願いどおりに好天に恵まれたことによる、お礼の意味が込められています。
 唯一、願掛けの結果、お礼ではなく罰として流されようとしているのが次の事例。『風俗画報』346号(明治39年=1906)掲載の「信濃子供遊」に、てるてる坊主に対する唱え文句が報告されています[佐藤1906:23-24頁]。

明日天気晴るれば神酒みきを供ふれど、雨天うてんなれば川へ流すが、合点がつてんか、どうぢや〳〵。

 すなわち、願いどおりに晴れたら神酒を供えるが、願いがかなわず雨だったら川に流すというのです。

 川に流す作法をめぐって、気になるのは流すタイミング(★図2参照)。願いがかなった場合のお礼にせよ、願いがかなわなかった場合の罰にせよ、てるてる坊主が流されるのは願掛けの結果が出たあとのこと。かつての雛人形が、穢れや災いのもとを託された形代として、願掛けの時点で流されたのとは対照的です。
 そうしたなか、わたしの管見の限りで唯一の例外として、願掛けの時点でてるてる坊主を流しているのが次の事例。『少年倶楽部』6巻5号(大正8年=1919)の読者投稿欄「ハガキ文」に掲載されています[『少年倶樂部』1919:91頁]。

銀糸の様な春雨がもう二三日も降り続いて居る。弟等はてるてる坊主を拵へて近くの川へ流したが、一向利目がない……(以下略)

 「春雨」というお題に応えて寄せられた、おたよりのなかの一文です。差出人は広島のひと。選者は評論家の望月紫峰(1888-1955。本名は茂)です。
 雨が2~3日降り続くなか「弟等」はてるてる坊主を作ると、すぐに「近くの川」に流しています。形代としての雛人形と同じく、願掛けの時点でのことです。ただ、残念なことに効き目は一向になかったと記されています。

おわりに

 はたして、てるてる坊主とは何者なのでしょうか。先述した柳田説のように、「風の神か雨の神」のような忌まわしい存在を託された形代なのでしょうか。あるいは、わたしがかつて想定したような、晴天をもたらす太陽を招く依代なのでしょうか。
 ヒントになりそうなのが、『日本民俗事典』の「人形ひとがた」の項に見られる記述。そこには、人形にんぎょうを「送り人形」と「迎え人形(飾り人形)」に区別する考えかたが示されています。執筆は民俗学者の今野円輔(1914-82)。
 具体的には、「送り人形」とは「節供の流し雛にかぎらず神送りの形式で災厄を送り流す疫病送り・虫送り・ネムタ流しなど」に用いられるもの。いっぽう、「迎え人形(飾り人形)」とは「神霊の形代かたしろ依代よりしろとして門口かどぐち・村境に立て、または祭りの山車だし屋台やたいに作られる」もの。そして、「送り人形→迎え人形」という変化の例が次のように示されています[大塚民俗学会1994:597頁]。

信仰が衰微し、人形工芸技術の進歩にともなって近世以降、飾り人形、保存する人形が都会から流行するようになったが、雛人形や武者人形はもとは毎年流すものであった。

 雛人形や武者人形は形代(送り人形)から飾り人形(迎え人形)へ移り変わったといいます。その時期は近世と説明されています。
 同じように、てるてる坊主についても「送り人形→迎え人形」という変遷を想定することは可能でしょうか。変遷の時期についてはまったくわかりませんが、おおまかな見通しだけ示しておきましょう。切り口とするのは、本稿で整理した「姿かたち」および「川に流す作法」です(★下記の表2参照)。

 形代型のてるてる坊主が見られたのは江戸時代後期。とはいえ、当時優勢だったのは着物型のようで、わたしの管見の限りでは、形代型は2例しか確認できません。
 そして、その形代型2例ですら、願いを込められる時点においては、川に流されるのではなく木の枝や軒に吊るされています。てるてる坊主を「送り人形」として、願掛けの時点で川に流す作法は、江戸時代後期にはすでに見られなくなっていたようです。
 このように、形代型てるてる坊主2例は、姿かたちに限っては「送り人形」の面影が見られるものの、願掛け時の作法の面では、当時もはや「送り人形」ではなくなっています。すなわち、てるてる坊主の「送り人形→迎え人形」という変遷は、願掛け時の作法から先に進行し、姿かたちの変遷はあとから遅れて進行したのであろうと推測できます。
 そうしたなか、願掛けの時点でてるてる坊主を流すケースが、わたしの管見の限りでは1例のみ見られました。先述した大正期の広島における事例です。それは、てるてる坊主がかつて「送り人形」だったころの、かそけき名残なのかもしれません。

参考文献
 
【全体に関わるもの】(編著者名・書名等の五十音順)
・内田武志・宮本常一〔編〕 『菅江真澄全集』第2巻、未来社、1971年
・大塚民俗学会〔編〕 『〔縮刷版〕日本民俗事典』、弘文堂、1994年
・佐藤賀陽(賀陽生) 「各地子供遊」其124 信濃子供遊(『風俗画報』346号、東陽堂、1906年)
・下中弥三郎〔編〕 『大辞典』第18巻、平凡社、1936年
・『少年倶楽部』6巻5号、大日本雄弁会講談社、1919年
・高橋健一 「てるてるぼうず考・序説」(神奈川大学日本常民文化研究所〔編〕『民具マンスリー』第33巻7号、神奈川大学、2000年)
・柳田国男 「テルテルバウズについて」(国語教育学会〔編〕『小学国語読本綜合研究』巻2、岩波書店、1936年)

【図1に関わるもの】(丸数字は図に対応。二重括弧内は原典にあたることができなかったための参照元)
①、菅江真澄 『蝦夷喧辞弁』上、1789年 ≪菅江真澄〔著〕内田ハチ〔編〕『菅江真澄民俗図絵』上巻、岩崎美術社、1989年≫
②、式亭三馬〔著〕歌川豊国(3世)〔画〕 『鬼児島名誉仇討』、西宮、1808年 ≪林美一〔校訂〕『鬼児島名誉仇討』(江戸戯作文庫)、河出書房新社、1985年≫
③、尾上梅幸〔作〕歌川国貞〔画〕 『皇国文字娘席書』、丸屋甚八、1826年
④、万亭応賀〔作〕静斉英一〔画〕 『幼稚遊昔雛形』下巻、吉田屋文三郎、1844年 ≪尾原昭夫『日本わらべ歌全集』27 近世童謡童遊集、柳原書店、1991年≫
⑤、歌川国芳〔画〕 「三海めでたいつゑ 十 天気にしたい」、1852年 ≪名古屋市博物館ほか〔編〕『挑む浮世絵 国芳から芳年へ』、中日新聞社、2019年≫
⑥、歌川国芳〔画〕 『時世粧菊揃』まじなひがきく、19世紀半ば

【表1に関わるもの】(丸数字は表に対応)
①、三省堂編輯所〔編〕 『日本百科大辞典』第7巻、三省堂書店、1912年
②、落合直文ほか 『言泉』、大倉書店、1927年
③、新村出〔編〕 『辞苑』、博文館、1935年
④、下中弥三郎〔編〕 『大辞典』第18巻、平凡社、1936年
⑤、新村出〔編〕 『言林』昭和廿四年版、全国書房、1949年
⑥、福原麟太郎・山岸徳平〔編〕 『ローマ字で引く国語新辞典』復刻版、研究社、2010年(原版は1952年)
⑦、新村出〔編〕 『広辞苑』、岩波書店、1955年

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