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形代なのか本当か 【てるてる坊主考note #1】

見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い
≪THE BLUE HEARTS『情熱の薔薇』≫

はじめに

 みんな誰もが知っている存在であるてるてる坊主。その正体が何者であるかをめぐっては、たとえば民俗学において多様な考察が試みられてきました。手がかりとされたのは、てるてる坊主の姿かたちや呼び名、まじないの作法、あるいは海外の類似する事例などです。とりわけ本稿では、まじないの作法を手がかりとして登場した、てるてる坊主を形代(かたしろ)として捉える見かたに注目してみます。
 はじめに、形代とは何か。『日本民俗大辞典』を引くと次のように説明されています(本稿では便宜上、段落分けしたうえで丸数字を付す)[福田ほか1999:360頁]。

①祭礼の際、神体のかわりにするもの。
②禊・祓え・祈禱に用いる人形を指すこともある。体をなでたり息を吹きかけるなどして罪や穢れ、災いを移し、川に流す。(中略)現在、宮中や各神社で六月と十二月の晦日に行われる大祓神事は形代流し・人形(ひとがた)流しとも称される。

 広い意味(上記の①)では、神霊が依り憑くもの全般であり、依り代とも同じ意味です。狭い意味(上記の②)では、穢れや災いを托して流し棄てるもので、除災のために用いられます。なかでも、人の形をしたものはヒトガタとも呼ばれます。ヒトガタでからだを撫でて、穢れをなすりつけて厄を祓う、大祓の風習は広く全国各地で受け継がれています。
 はたして、てるてる坊主はこうした形代(あるいはヒトガタ)の類型の1つなのでしょうか。「てるてる坊主=形代」説の是非を検討してみます。

1、近世(江戸時代)に見られる形代型

 私の管見の限り、てるてる坊主が形代として記述されている初出は、寛政元年(1789)に著された『蝦夷喧辞辯』(えみしのさえぎ)です。作者は近世(江戸時代)後期の旅人である菅江真澄(1754-1829)。寛政元年(1789)に蝦夷を旅したなかで、松前の西海岸沿いを歩いた記録が『蝦夷喧辞辯』です。旧暦5月7日、真澄は平田内(現在の北海道久遠郡せたな町大成区平浜)でてるてる坊主が吊るされている風景に出くわしました。その折の様子を以下のように記しています[内田武志ほか1971:41頁](太字表記にしたのは筆者。以下同じ)。

雨は、きのふのやうにはれずふれば、わらはべ、てろてろぼうづとて、紙にてかたしろをつくり、かしらより真二つにたちて、ひとつひとつに糸つけて、さかさまに木の枝にかけて此雨のはれなんことをいのり、かくて雨ばれのしるしをうれば、このてろてろほうしをひとつにあはせ、またきかたちとなして……(以下略)

 前日から降り続く雨の中、子どもたちが紙で「てろてろぼうづ」という形代を作り、頭から縦に真っ二つに切って、その1つ1つに糸を付けて木の枝に逆さまに吊るし、この雨が止むように祈っている。そして、雨が上がったならば、この真っ二つにしてあった「てろてろほうし」を1つに合わせて真っ当な姿にするそうです。

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 真澄は「てろてろぼうづ」のスケッチも描いています(上記の図1参照)。「てろてろぼうづ」は1枚の紙を切り取って作られた、平面状の作りです。裾が少し広がった衣を着ており、手足がかたどられています。その顔はのっぺらぼうであり、見るからに異形の姿をさらしています。
 ここに記されている姿かたちや作法はたいへん興味深いものですが、本稿では真澄が「てろてろぼうづ」を「かたしろ」と明記している点を、心に留めておきましょう。もとより、真澄の言う「かたしろ」は、先述した辞典の説明にある「形代」の語義2つのうち、広い意味と狭い意味のどちらに該当するのか、定かではありません。
 なお、近世(江戸時代)後期において、形代のようなてるてる坊主はほかにも見られます。真澄が「てろてろぼうづ」を描いてから55年後、天保15年(1844)に江戸で出版された『幼稚遊昔雛形』(下巻)に描かれた「てり〳〵坊主」です(同じ音の繰り返しを表す踊り字(くの字点)は横書きできないため、本稿では「〳〵」で表す。以下同じ)。
 同書は万亭応賀(戯作者。1819頃-90)が子どものころに親しんだ日常的な遊びを図解した合巻物であり、挿絵は静斉英一(浮世絵師。1818-48)が描いています[尾原1991:113頁]。形代である旨の言及はされていないものの、「てり〳〵坊主」は人の形をした形代、すなわちヒトガタを思わせる姿に描かれています(下記の図2参照)。

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2、風雨の悪神を托す人形

 形代のなかでもとりわけ、先述した狭い意味のほう、すなわち、穢れや災いを托されて除災のために用いられるものとして、てるてる坊主を捉えているのが、民俗学者の柳田国男(1875-1962)です。
 柳田は昭和11年(1936)に「テルテルバウズについて」を執筆しています。当時、尋常小学校で使われていた教科書は『小学国語読本』ですが、その解説書である『岩波講座国語教育 小学国語読本綜合研究』(巻2第1冊)に掲載された短文です。そのなかで柳田はてるてる坊主を「天気祭の破片」と位置づけているのが注目されます。
 「天気祭」とは何か。それは、「風の神か雨の神かの、人形に姿を托して退却することを、信じて居た者の考案」であろうと柳田は推測しています。そして、「嵐を伴なふ大降りはいやがつて予め之を避けんとし、又東北などの低温地帯では、長雨が続くとやはり人形のまじなひをして居る。この事前と事後の人形造りを総称して、天気祭といふ」と説明しています。
 「天気祭」における「事前」(嵐を伴う大雨を前もって回避)と「事後」(低温地帯で長雨が続いた際)の「人形造り」について、具体的には次のように柳田は言います。「天気祭の人形は藁を束ねて、時には馬鹿々々しく写実的なものを男女二体こしらへ」、「行列して之を村はづれに持つて行く」。これは、「悪霊」の「機嫌を取つて送り帰してしまはなければ」という「前代農民の災害観に根ざして居る」行事であり、「御馳走をして、悪神が満足して帰つて行くことを旨」としている[柳田1964:263-264頁]。
 大雨を予防するため、あるいは長雨への対処としておこなわれる天気祭。それは、「前代農民の災害観」に根ざしたまじないであると言います。天気祭で作られる藁人形には、「風の神」や「雨の神」という目に見えない「悪霊」や「悪神」が托される。そのうえで、ご馳走でもてなして上機嫌になってもらったところで、よそへと送り出してしまうのです。
 そして柳田は、「花柳界などでこしらへる照々坊主に、酒を灌ぎかける風習のあるのも、明かに是と脈絡がある」と例を挙げつつ、「町の照々法師は、言わばこの天気祭の破片なのである」と位置づけています[柳田1964:263-264頁]。
 「天気祭」において、風雨をもたらす「悪霊」や「悪神」を托されて送り出される人形。てるてる坊主はその役割を受け継いでいるというのが柳田の説です。「テルテルバウズについて」より22年前の大正3年(1914)に書かれた「ネブタ流し」という論考(のちに『毛坊主考』に所収)でも、災厄を祓う「人形祭」に触れたなかで、柳田はすでに以下のように記しています。「近世の田舎では風雨の害を払う為に人形を送る例もあつた。照々坊主の風習も亦此である」[柳田1962:357頁]。
 柳田が述べたような、てるてる坊主を狭い意味での形代、すなわち、穢れや災いを托す除災の形代とする捉えかたは、辞書にも採用されています。たとえば、各地の伝統的な風習や習俗を集めて解説した『風俗辞典』を引いてみましょう。柳田が「テルテルバウズについて」を発表してから19年後、昭和32年(1957)に発行された辞書です。
 同書の「人形(にんぎょう)」の項において古代(平安時代)の形代に触れたなかで、「神や精霊の形代」の一例として「祓に用いる形代」を挙げつつ、「テルテル坊主も古代の祓の人形の転化したものではなかろうか」と言及されています[坂本1957:557頁]。

3、酒でもてなすタイミング

 柳田が指摘している、「花柳界などでこしらへる照々坊主に、酒を灌ぎかける風習のある」点に注目してみましょう。近世(江戸時代)の浮世絵師、歌川国芳(1798-1861)の作品に、同様の題材を描いたものがあります。近世末、嘉永5年(1852)の作品です。この絵が当時の花柳界すなわち芸者や遊女の社会を舞台としたものかどうか定かではありませんが、女性がてるてる坊主を手に、酒のようなものを含ませようとしている様子が描かれています(下記の図3参照)[名古屋市博物館ほか2019:106頁]。女性は髪を派手に結い上げて着飾っています。

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 上記の国芳の絵のおかげで、柳田が言う「照々坊主に、酒を灌ぎかける風習」を我々は明確にイメージしやすい。ところで、国芳が描いた酒でもてなされているてるてる坊主は、これから吊るされて願いを掛けられるのでしょうか、それとも、すでに願いがかなったあとで労われているのでしょうか。絵を見る限りはどちらとも言えません。
 ここで、てるてる坊主に物や酒をあげてもてなす、タイミングが明らかな事例にいくつか注目してみましょう。はじめに、昨今よく知られている童謡「てるてる坊主」の場合はどうでしょうか[浅原ほか1921:6-7頁]。

てるてる坊主てる坊主 あした天気にしておくれ
いつかの夢の空のよに はれたら金の鈴あげよ

てるてる坊主てる坊主 あした天気にしておくれ
私の願ひをきいたなら あまいお酒もたんとのませう(以下略)

 この童謡は、今からちょうど100年前にあたる大正10年(1921)に、実業之日本社の雑誌『少女の友』(14巻6号)に発表されました(当初の題名は「てるてる坊主の歌」)。作詞は浅原鏡村(1895-1977)、作曲は中山晋平(1887-1952)。歌の内容に耳を傾けてみると、てるてる坊主に「金の鈴」や「あまいお酒」をあげるのは、願いがかなって晴れたあとです。
 てるてる坊主に物や酒などをあげてもてなす作法は、かつて広く見られたようです。私の管見の及んだ辞書類のなかにも、こうしたもてなしに言及している例が散見されます。たとえば、柳田が先述の「テルテルバウズについて」を記したのは昭和11年(1936)ですが、ほど近い年代に編纂された2つの辞書には次のような記述が見られます[大槻ほか1982:1408頁、新村1949:1536頁]。

てるてるぼうず【照照坊主】 又、照照法師。東京ノ俗ニ、女児の晴(ハレ)ヲ祈ル時ニ、紙ニテ人形ヲ作リテ、檐ニ懸クルモノ。晴ルレバ物ヲ供へ、或ハ、墨ニテ目睛(メダマ)ヲカクト。テリテリバウズ。
≪『大言海』。昭和7~12年(1932-37)≫

てりてりぼうず【照照坊主】 少女などが晴天を祈って、軒下などに懸けておく人形。祈って天気となれば、睛(ひとみ)を点じて神酒を供えた後、川に流す。てるてるぼうず。掃晴娘。
≪『言林』昭和24年版。昭和24年(1949)≫

 てるてる坊主に「物」や「酒」などを供えるタイミングに注目してみると、上記2例においては、いずれも吊るす前ではなく願いがかなったあとです。
 あるいは、時代は大きく下りますが、20世紀末から今世紀初頭にかけて発行された、いくつかの辞書類にも同様の記述が見られます[日本民具学会1997:379頁、福田ほか2000:159頁、日本国語大辞典第2版編集委員会ほか2001:739頁]。

てるてるぼうず【照々坊主】 晴天をもたらす呪具としての人形。(中略)もし願いどおり天気にしてくれたら目鼻や口をつけてあげるといい、また、願いがかなえば頭から酒をかけて川に流すという風習もある(以下略)。
≪『日本民具辞典』。平成9年(1997)≫

テルテルぼうず【テルテル坊主】 特別な日の前日や長雨の続くときなどに晴天を祈って軒下や窓辺につるす簡単な紙人形。(中略)晴れると墨で目を入れる、神酒を供える、川に流すなどの扱いもある(以下略)。
≪『日本民俗大辞典』。平成12年(2000)≫

てるてるぼうず【照照坊主】 翌日の晴天を祈って、軒下などにつるす紙の人形。四角い紙の真中に芯(しん)を入れ、それをまるくしばった簡単なものもある。願いがかなって晴天になれば墨で眼睛(ひとみ)を書き、または神酒(みき)を供えて川に流したりする(以下略)。
≪『日本国語大辞典』(第2版)。平成13年(2001)≫

 先述した柳田の説によれば、天気祭においては、藁人形に托した「悪霊」や「悪神」にご馳走をして、上機嫌になってもらってよそへと送り出してしまう。それは「前代農民の災害観」のあらわれでした。同様に「天気祭の破片」であるてるてる坊主においても、酒を灌ぐ風習が見られるといいます。すなわち、天気祭の藁人形と同様にてるてる坊主も、先述した狭い意味での形代です。「悪霊」や「悪神」を托し、酒を灌ぎかけてもてなすことで、好天に恵まれるよう願うのです。この場合、「酒でもてなす」ことが先で、その結果としてあとから「願いがかなう」ことが期待されています。
 いっぽう、童謡「てるてる坊主」の歌詞や辞書の説明文においては、先述のように、てるてる坊主に酒などを供えるタイミングは、いずれも願いがかなって晴れたあとです。この場合、「願いがかなう」ことが先で、その結果を見てあとから「酒でもてなす」という順序です。これとは逆に柳田が示したような、「酒でもてなす」ことが先で、あとから「願いがかなう」という事例は、私の管見の限りでは全く見られません。

おわりに

 本稿では、「てるてる坊主=形代」説の是非を検討すべく、てるてる坊主というまじないの作法をめぐって、「願いがかなう」ことと「酒でもてなす」ことの先後関係に注目してみました。私の管見の限りでは、童謡や辞書の例に見られるのは、「てるてる坊主=形代」説に当てはまらない事例ばかりでした。托された「悪霊」や「悪神」に「酒でもてなす」ことで「願いがかなう」のではなく、「願いがかなう」ことが先で、あとから「酒でもてなす」のです。
 このとき、酒でもてなす対象としててるてる坊主に依り憑いているのは、風雨をもたらす「悪霊」や「悪神」ではあり得ません。むしろ、我々の願いどおりに好天をもたらしてくれる存在です。それは太陽なのかもしれません。すなわち、てるてる坊主を風雨の悪神を托す形代と捉えるのではなく、太陽の依り代と捉える見かたです。てるてる坊主と太陽をめぐる関係については、また機会をあらためて検討してみたいと思います。
 もとより、本稿で例示した数少ない事例だけをもって、「てるてる坊主=形代」説を真っ向から否定してしまうのは早計に過ぎるでしょう。とりわけ、てるてる坊主は「天気祭の破片なのである」として、その根底に「前代農民の災害観」を据える柳田の視角は、てるてる坊主の誕生と変化の過程を探ろうとする際には、とても大事な礎石となるに違いありません。
 まずは、てるてる坊主に願いをかける古今の実例を収集・整理していくことが当面の課題です。「願いがかなう」ことと「酒でもてなす」ことのあとさきに留意しつつ。

参考文献(編著者名の五十音順)
・浅原鏡村〔作詞〕中山晋平〔作曲〕「てるてる坊主の歌」(『少女の友』14巻6号、実業之日本社、1921年)
・内田武志・宮本常一〔編〕『菅江真澄全集』第2巻、未来社、1971年
・内田ハチ〔編〕『菅江真澄民俗図絵』上巻、岩崎美術社、1987年
・大槻文彦・大槻清彦『新編大言海』、冨山房、1982年(初出は『大言海』、1932-37年)
・尾原昭夫『日本わらべ歌全集』27 近世童謡童遊集、柳原書店、1991年
・坂本太郎〔監修〕『風俗辞典』、東京堂出版、1957年
・新村出〔編〕『言林』昭和24年版、全国書房、1949年
・名古屋市博物館・中日新聞社文化事業部〔編〕『挑む浮世絵 国芳から芳年へ』、中日新聞社、2019年
・日本国語大辞典第2版編集委員会ほか〔編〕『日本国語大辞典』第2版 第9巻、小学館、2001年
・日本民具学会〔編〕『日本民具辞典』、ぎょうせい、1997年
・福田アジオほか〔編〕『日本民俗大辞典』上、吉川弘文館、1999年
・福田アジオほか〔編〕『日本民俗大辞典』下、吉川弘文館、2000年
・柳田国男『毛坊主考』(『定本柳田国男集』第9巻、筑摩書房、1962年。初出は郷土研究編輯所〔編〕『郷土研究』(郷土研究社)に連載。該当箇所は2巻4号(1914年)所収の「ネブタ流し」)
・柳田国男「テルテルバウズについて」(『定本柳田国男集』第31巻、筑摩書房、1964年。初出は『岩波講座国語教育 小学国語読本綜合研究』(巻2第1冊)「アシタ ハ エンソク」参考、岩波書店、1936年)


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