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暴力事件で読む百人一首(後編)

前回はこちらです。

 百人一首に選ばれている歌人たちが、(被害者にせよ加害者にせよ)意外と暴力と縁があった、というお話をしてきました。
 今回も、「殴り合う貴族たち」に暴力エピソードが掲載されている歌人を紹介します。


三条院

心にも あらで憂世に ながらへば 戀しかるべき 夜半の月かな

 三条天皇は、1011年から1016年まで在位した天皇です。1015年、なんと天皇が宮中で殴打されるという事件が起きました。

 天皇の傍に仕える女房(女官)が錯乱し、使用人の童子に暴行をふるい始めました。三条天皇は童子をかばったため、天皇も暴力を受ける形になったのです。

 この一件は、「女房が悪霊に憑かれた」とみなされ、女房が咎めを受けることはありませんでした。

藤原公任

瀧の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ

 藤原公任は、和歌・漢詩・管弦など多方面に才能を発揮した文化人でしたが、かなりひどい目にあったこともあります。
 997年、藤原公任と藤原斉信という二人の貴族が、花山法皇の邸宅を通過しようとしました。すると、彼らの牛車が法皇の従者たちに取り囲まれ、激しい投石を受けました。

 花山法皇には奇行の傾向があり、邸宅の前を通過しようとすると、貴公子であろうと投石を受けたといいます。

藤原定頼

朝ぼらけ 宇治の川霧 絶えだえに あらはれ渡る 瀬々の網代木

 藤原定頼は、公任の息子です。優れた文人でしたが、小式部内侍にやり込められた逸話(百人一首の「大江山~」の歌の話)も残っています。また、暴力事件の加害側と被害側の両方になったことがあります。

 1014年、何らかのきっかけで、藤原定頼の従者と皇族の敦明親王の従者の間で乱闘が発生。親王側の従者が重傷を負い、間もなく死亡しました。定頼は、親王の従者をリンチして殺した者たちの主人として、「殺害人」と謗られることになります。

 一方、1018年には藤原兼房と定頼の間にトラブルがあり、兼房が定頼を暴行しようと追い回すという事件が起きています。

藤原定家

来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

 「殴り合う貴族たち」には載っていませんが、小倉百人一首の選者たる藤原定家も、暴力エピソードの持ち主です。

 生来、定家は神経質で癇癪持ちであったと言われます。1185年、宮中祭祀の一つである新嘗祭(にいなめさい)の最中、源雅行に侮辱を受けた23歳の定家は、激怒して脂燭(しそく)で相手の顔を殴りました。

 重要な祭礼の最中に事件を起こした定家は、天皇の怒りを買って除籍処分を受けます。この時は、父の藤原俊成が奔走したため、許しを得ることができました。

 実に陰惨な暴力に満ちていた貴族の世界。雅な和歌の世界が、また違ったものに見えてきます。


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