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暴力事件で読む百人一首(前編)

 最近読んだ本の中でも、かなりインパクトがあったのが、繁田信一著「殴り合う貴族たち」でした。「王朝貴族と呼ばれる人たちが、かなりの程度暴力に親しんでいた」ことを、良質史料の『小右記』などの記述をもとに論じた本です。

 あきれるほど野蛮で粗暴だった貴公子たち。「殴り合う貴族たち」に登場する貴族の中には、優れた文化人として名を残していた人も(被害者・加害者双方に)います。

 本稿では、「小倉百人一首」と「殴り合う貴族たち」の両方に登場した人々を取り上げ、歌人と暴力の意外な関係を紹介したいと思います。


在原業平

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 から紅に 水くくるとは

『大鏡』によれば、883年(または884年)のある日、宇多天皇と在原業平が清涼殿(天皇の住まい)で相撲に興じていました。業平はなんと宇多天皇を投げ飛ばし、天皇の座る椅子を壊してしまいました。
 この一件はスポーツであり、暴力事件とは言えませんが、当時の貴人はずいぶん荒々しい気質だったのだということを伝えています。

陽成院

筑波嶺の 峯より落つる みなの川 戀ぞつもりて 淵となりぬる

 陽成天皇が在位していた883年、宮中で驚くべき事件が起きました。『日本三代実録』によれば、源益(みなもとのまさる)という貴族が、清涼殿の中で突然「殴り殺された」というのです。

 犯人は不詳ですが、狂気じみたふるまいの多かった陽成天皇が殺害した、というのが一般的な見方です。この事件のために、陽成天皇は翌年に17歳の若さで退位させられた、と理解されます。

 しかし、『殴り合う貴族たち』では違う解釈をしています。気になる方は読んでみてください。

曽禰好忠

由良の戸を わたる舟人 楫をたえ 行方もしらぬ 戀の道かな

 下級貴族の曽禰好忠は優れた歌人でしたが、偏狭な性格であったとも伝えられます。
 985年、円融上皇が紫野で宴を開きました。その中に、招待もされていない好忠が紛れ込んでいたため、多くの貴族から足蹴にされるなどの暴行を加えられ、追い出されたと伝わっています(『今昔物語集』など)。

藤原道雅

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

 百人一首に登場する歌人の中で、最も「暴力」に縁があったのが藤原道雅(左京大夫道雅)でしょう。その素行の悪さから「悪三位」「荒三位」というあだ名をつけられました。

 1013年、道雅は小野為明という下級役人に対して、自邸に拉致した上、従者たちに命じて集団暴行を加えさせるという事件を起こしました。

 また、1024年には花山法皇の娘で、藤原彰子に仕えていた女性が殺害され、遺体が路上にさらされるという衝撃的な事件が発生しました。その女性に思いを寄せていたが答えてもらえなかった「荒三位」が犯人だ、と世間の人々は噂した、ということです。

(後編に続く)

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