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【書評】金子拓「長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像」(中公新書)

 天正3年(1575)に起きた長篠の戦いでは、織田信長・徳川家康の連合軍が武田勝頼を撃破しました。
 教科書に載る「長篠合戦図屏風」には、織田・徳川連合軍の馬防柵と鉄砲隊の活躍が描かれています。いわゆる「三段撃ち」が後世の創作ということは一般にも知られてきましたが、「織田信長が鉄砲を活用した戦い」という認識が普通でしょう。

 昨年発行されたばかりの本書は、これまでの長篠合戦の研究をコンパクトにまとめ、現時点での学術的な「長篠合戦像」を提示した一冊です。

 三段撃ちの虚飾以外にも、長篠合戦をめぐる新たな視点を得ることができました。


長篠合戦をマクロにとらえる

 長篠合戦は、徳川領である三河に侵攻し、長篠城を包囲した武田軍を撃退した戦いです。「信長の戦い」のイメージが先行しますが、あくまで徳川軍が主体となる防衛戦であり、織田軍は援軍です。

 さらに、信長の大局的な戦略を俯瞰すると、合戦当時の信長は石山本願寺・越前一向一揆・伊勢長島一向一揆といった一向宗勢力との戦いに忙殺されていました。

 勝頼は、同盟者である本願寺に呼応して動いています。長篠合戦は、「信長と本願寺の戦いの一部」と見ることもできるのです。

連合軍の勝因とは

 連合軍を勝利に導いたのは鉄砲だけではありません。鉄砲の存在は「信長公記」を始め良質な史料にも見えます。しかし、連合軍が馬防柵を用いて陣地を城のように防御したこと、ぬかるんだ地形のため武田軍が広く展開できず、攻めかかる部隊が次々と撃破されたことなども勝因です。

 また、長篠城を包囲していた武田軍が、酒井忠次率いる別動隊によって壊滅させられたのも重要です。武田軍は退路を断たれ、馬防柵を強行突破せざるを得なくなった…という流れが見えてきます。

「鉄砲戦」の幻影はなぜつくられたか

 時代が下るにつれ、長篠合戦は「鉄砲」の要素が実際以上にクローズアップされていきます。また、初期の史料には見られない武将の逸話なども生まれてきます。

 長篠合戦に参加した徳川方の武将は、多くが江戸時代に譜代大名となりました。大名たちが、祖先の働きを顕彰するために、潤色を加えていったのが一因です。
 
 また、江戸時代に「徳川とその家臣を称える」方向でつくられた虚像が、近代以降にはむしろ「信長を称える」方向に変わっていったのも面白い点です。「乱世の革命児だった信長が、新兵器の鉄砲を駆使し、旧態依然の武田軍を破った」という物語が、小説やドラマなどで再生産されていったのです。
 


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