二条城~江戸幕府の誕生と終焉を見届けた城
京都の人気観光地の一つである二条城は、歴史上も重要な役割を果たした城です。
武家政権の長が城を構えた二条
現在の二条城ができる前にも、二条には城郭ないし武家屋敷といえる建築がありました。足利義輝の邸宅は二条古城、織田信長の京での宿所は二条新御所、豊臣秀吉の邸宅は妙顕寺城と、それぞれ別名を持ちます。二条新御所は、本能寺の変の際に織田信忠が討ち死にした場所です。
上記は、いずれも今の二条城から少しずれた場所にあり、現在は石碑が残るのみです。
現在の二条城を築いたのは、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康です。慶長8(1603)年に完成し、朝廷から征夷大将軍に任じられた家康は二条城に入り、祝賀を行いました。
以後、二条城は将軍の在京時の居所として重要な意味を持ちました。豪華絢爛な二の丸の唐門(重要文化財)は、寛永3(1626)年に後水尾天皇の行幸があった際に造営されたと考えられています。
国宝の二の丸御殿
二条城の天守は残っていませんが、二の丸御殿は現存しています。城郭の御殿建築は全国で4例しかなく、現存天守より貴重です。
慶応3(1867)年、徳川慶喜が在京諸藩の重臣と協議し、大政奉還の意志を表明したのが二の丸御殿の大広間であったとされます。二条城は、江戸幕府の誕生と終焉の舞台となったのです。
近世城郭の御殿建築は、雁行(斜めに向かうこと)していくという特徴があります。玄関を入ってまっすぐ奥に行けるのではなく、左斜めに連なっているのです。
四隅を守った櫓
二条城といえば、二の丸御殿や唐門といった絢爛な建築物がイメージされます。しかし、石垣や櫓など、城らしい建物もみられます。
西南隅櫓と東南隅櫓は、いずれも二階建ての櫓です。美しい長方形をしている城郭の四隅には見張り台として櫓が建てられており、2つだけ現存しています。
同じに見えるかもしれませんが、前者は弓状の唐破風、後者は三角形の千鳥破風がついていることで見分けられます。
地味だが楽しい遺構
京都にある二条城は雅な印象を持つかもしれませんが、ちゃんと「戦う城」の顔も持っています。
例えば、南北二つの土蔵(米蔵)が現存しています。地味な建築ですが、これがなければ籠城できない極めて重要な要素です。
二の丸を東西に区切るのは、北中仕切門と南中仕切門です。屋根の部分が個性的な形ですね。
南北いずれも、門を通過するにはクランクせねばなりません。防御を有利にする工夫です。石垣と土塁も効果的に組み合わさっています。
二条城を訪れた際は、国宝の御殿だけでなく、こうした細かい遺構もチェックしたいものです。
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