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自己紹介 - これまでの職歴・経歴 -

 noteではじめまして。というのは3回目だったりするんですが、自己紹介を書いているということは、はじめましての方も多かろうという事で、改めてこんにちは。はじめまして。
今井 俊文(イマイ トシフミ)と申します。
1980年生まれの43歳です。埼玉県在住で、妻と小学生低学年の子供が2人+犬1匹で暮らしております。

 現在、MIXIという会社で戦略人事、HRBPとして複数事業に携わっているのと、副業として数社の顧問・アドバイザーとして、人事領域もありますが、どちらかというと事業寄りの領域でお手伝いさせていただいているのと、さらに複業としてプロコーチとなるべく、認知科学の理論をベースとしたコーチングをMindset Coaching Schoolで学んでおります(↓のnoteでも軽く説明しております)

 このコーチングきっかけで、はじめましての方とお話しする機会が増えてきているのもそうですし、今まで、なんだかんだとあまり自分の経緯を一から十まで人に伝える機会もなかなか無かったので、人生というよりは、職歴というか経歴について、簡単にご説明したいと思いまして、このnoteを書いております(簡単にと言いつつ20年超あるので、かなりのボリュームにはなりそうですw)


自己紹介(これまでの簡単な経歴について)

金融キャリア(2003〜2009)

 大学卒業後、私のファーストキャリアは証券会社でした。いわゆるリテールと呼ばれる個人や中小企業を対象とした営業で、某証券会社の上野支店に配属され、日々飛び込みをしたりアポ電したり、提案資料をまとめたり、右も左もわからないままに先輩に指導いただきながら、それなりに成果も上げ、よくも悪くもないという1年目の社会人でしたが、当時の会社ではいわゆる出世というか、役職が上がる(その当時は「課長代理」というのが最初のハードルでした)のが、実力というよりは年功というか、30歳前後になるまではなれない。ということ(今思うと本当かどうか全然確かめもしなかったですが)を目の前に、それなりに成果を上げていた私は、そんなに何年も下積みをここで積みたくないという思いと、証券会社の支店勤務の仕事にやりがいを感じられてないという思いから、1年にして早々に転職を決意します。


 次に飛び込んだのが、知る人ぞ知る、ザ・営業会社「光通信Grp(グループ)」でした。結果、その中の「HTC(エイチ・ティ・シー)」というベンチャーキャピタル(VC)部門に入社することになるのですが、最初は実は「コピー機の代理店事業」をやっていた「アイ・イー・グループ」にリクナビNEXTからエントリーしたのがきっかけでした。いろいろあって、VC子会社であるHTCに入社したんですが、最初の仕事はホームページを作ることでしたw池袋のビックカメラでホームページビルダーを買い、2週間程かけて会社のホームページを作ってました(おかげで投資先の情報を集めていったり、メンバーの方の情報を集めていく中で、情報キャッチアップが効率的にできたのと、これはこれで楽しかったです)。最初の2年半は既に組入(新規投資)が完了してたこともあり、既存投資先のモニタリングを先輩について回るだけ+新規投資先のソーシングは一応やる、みたいなそんな感じで、今思うと、あのハードモードな営業会社の中にあって、めちゃくちゃのんびりした期間だったな。と思います。
 そんな中での最初の転機が2006年の冬でした。当時のファンドの期限が迫る中で、諸事情があって(長くなるのでw)、当時光通信Grpの社長室直下で、当時ベンチャー投資をやっていた取締役の眞下さんのチームと組織的にも合流し、HPE(Hikari Private Equity)という新しい組織になり、新規の投資のソーシングが出来始めた頃、とある出来事をきっかけに、眞下さんから大きな挑戦のチャンスをいただき、それを機に自分の中で「仕事」に対する認知、向き合いが大きく変化しました。
 HPEでは国内、海外(中国・台湾・アメリカ・オーストラリア)で複数案件への投資に関与させていただき、ソーシングから投資実行、Exitまでという案件数としてはそこまで多くはありませんでしたが、非常に多くの学びがありました。


事業キャリア:前半戦(2009〜2013)

 2009年、上司であった眞下さんが同じ光通信Grpの子会社であり、当時東証マザーズに上場していたe-まちタウン株式会社の会長職として異動されることが決まり、そのタイミングで一緒に来ないかとお誘いを頂いたこともそうですが、海外のVCの方との交流の中で、実績を上げられているパートナーの方の多くが事業会社で非常に多彩な経験と人脈を形成されている方ばかりであることに、衝撃と憧れをもって受け止めていた当時の私にとって、VCという仕事自体には魅力を感じてましたし、やりがいも非常にあったのですが、このままではダメだというぼんやりとした感覚もあったタイミングだったこともあり、眞下さんからのお誘いは、その自分の心を見透かしていただいていたかのようなタイミングだったこともあり、悩む必要なく事業側への転身を決断しました。
 そこで、モバイルコンテンツ事業部の部長として着任したのですが、当然、事業経験も組織マネジメントの経験もほとんどない自分が、いきなり事業会社のしかも事業責任者レイヤーとして、落下傘人事で配属されるわけですから、今思うと、めちゃくちゃ警戒されていたと思います(笑)
 そんな中でも上司にあたる、e-まちの取締役陣の方はじめ、様々ご指導・フォローしていただき、事業として当時はガラケーの3キャリア向け公式コンテンツの中でも、モバゲー・グリーで流行っていた釣りゲーを「釣りビジョン」に監修していただきながら、外注の開発会社さんと一緒に作ってみたり、それこそmixiアプリのオープン化のタイミングでゴルフゲームを作ってリリースしてみたり。とやり方も進め方も全くわからない手探り状態ではありましたが、この後のキャリアにつながる大きな経験ができました。
 ただ、ゲームリリースはしたものの、プロモーション費用の予算もなければ、運営のやり方もわからない中、全然成果は出ず。という状況だったのですが、それとは別に当時、話題になり始めていたGrouponに代表されるフラッシュマーケティングという新しいサービスが流行していた頃で、リクルートが「ポンパレ」をリリースしたり、様々な会社がいろいろな切り口でサービスを立ち上げていく中、当時グループとしてソフトバンクモバイルグルメというサービスに力を入れていたこともあり、ビジネスモデルとして光通信Grpの強みが発揮できるのでは、ということで、SBIさんと一緒に合弁会社を作り、Shareee(シェアリー)というサービスの立ち上げを推進することに。
 会社づくりからファイナンスから人集めから、いろいろと経験させていただき、そのまま管理本部長として参画。サービスローンチ後、まもなくしからは、全国に対象エリアを拡大すべく、お付き合いのある、主にフリーペーパーを運営されている地域のパートナー企業さんに代理店になっていただくべく、1ヶ月で30都道府県の開拓をなんとかやりきり、その後、開拓した代理店さんのお力も借りながら、全国の旅館・ホテルの開拓を行う等、途中から管理も営業も事業開発もやります状態でしたが、そんな中起きたのが「3.11」の大地震。その混乱冷めやらぬ中、約7年間弱お世話になった光通信Grpを3月末に退職、C向けのコンテンツビジネスにどんどんシフトしていくべく、ザッパラスというモバイル占いコンテンツの会社で新規事業を立ち上げるべく転職しました。 


 ところが入社初日、いきなり社長室にお呼ばれし、お誘いいただいた当時社長をされていた元オリコンの平井さんから、「実は・・・」と新規事業開発の部門が無くなってしまったことを告げられ、何をしようかね?という相談があるという。そんな中、何でもいいっすよ。ということで配属されたのが、B向けのソリューション営業の部隊で、昨年、同社代表取締役に就任された、当時マネージャーの溝上さんと一緒に「占い」を簡単にウェブ上に組み込める主にB向けに販売したり、当時B向けにはまだまだ浸透していなかったスマホ対応のホームページのソリューションを提供したりと、いわゆる提案型営業みたいなものを、いろいろと勉強させていただいておりました。
 そんな中、お誘いいただいた平井さんも退任され、惰性で仕事をしている自分に焦りを感じた事もあり、ヘッドハンティング業をやっている知人の方からレコメンドされて転職したのが、モバゲー・GREEに代表されるソーシャルゲームPFにゲームを提供していたSAP(Social Application Provider)で急速に成長していたタイミングのgloops社に転職しました。


 同社は当時モバゲーでNo.1のSAPというポジションを確立していましたが、モバゲー・GREEに加えて、mixiやハンゲーム(NHN社が運営していたゲームPF、後のLINE社ですね)といった他のソーシャルゲームPFにも横展開していくためのPF推進を進める部署の責任者として入社したのですが、入社して1週間も経たずして、当時同社の稼ぎ頭であった「大熱狂‼️プロ野球カード」というNPBのプロ野球をモチーフとしたカードゲームのチームのコンディションが芳しくないという状況で、チームマネジメント含めた立て直しをしてほしいと、現場のPMとしてアサインされることになりました。
 その後、タイトルの立て直しとしてのリニューアルプランの策定、実行までを優秀な現場のメンバーの力を借りながら、なんとかやり切り、それなりに成果が出たことを評価いただき、「大熱狂」を冠した2タイトルのマネジメントも担当することになりましたが、思い返せば、直観的にそういう責任者ポジションというよりは、もっと横断的なサポートをしていくような動き方の方が自分の価値が発揮できるし、自分も楽しいということもあって、採用周りのフローを整備してみたり、ナレッジの発信をしてみたり、PF営業担当の方から頂いたDeNA内製タイトルや競合他社の情報をヒアリングして、それを社内に発信する、みたいな事をやりはじめていたのですが、最後の情報発信的な動きを、部門としてやろうということで、社長室付でプロダクトマーケティングという切り口で競合分析、成功施策の分析と社内タイトルの課題に対するソリューションとしての情報提供をするという部門の立ち上げを完全にプレイヤーとしてやっていました。これがまた非常に楽しく、めちゃくちゃマニアックに競合分析していたことをよく覚えてます。

 そんな中、実は光通信Grpから転職するタイミングで、お話をしていたが、当時はご縁がなかった、セガ社で、モバイルゲームを専業でやる組織としてセガネットワークス(SGN社)が立ち上がっていたタイミングだったこともあり、SGNでCOO的に動かれていた岩城さん(現マイネット社代表取締役)とお話しする機会があり、gloopsでやっていた事をシェアさせていただいたところ、ぜひ同じ事をSGNでやってもらいたい。というお誘いを頂いた事、ゲーム領域は自分の趣味の領域でもあり、マーケットとしても今後セガのような大手ゲーム会社がモバイル市場に参入しはじめているタイミングでもあったこと、何より私の転職軸というのが、光通信以降は、仕事の内容や、報酬というよりは、誰に誘っていただいたか、その方と一緒に働きたいか、というPeople軸の優先順位が突き抜けており、その方から期待されていることについては、やりたいこと(will)、できること(can)をほとんど考慮せず、まさにmustが100%に近いパラメータとして転職、異動という選択肢を繰り返していたため、まさにその理由で転職を決めたのでした(こんな感じでゲーム業界に本格的に飛び込むきっかけになったgloops社は、その後紆余曲折あり、会社としては解散してしまったのですが、それはそれで非常に寂しく感慨深かったです。)


事業キャリア:後半戦(2013.4~2022.4)

 このSGNから始まるセガグループでのキャリアが約7年ほどあり、33歳から40歳になるまで在籍していたのですが、この7年間の経験は非常に自分の仕事人生において大きな価値を生み出せたと思っていますし、自分がエフィカシーが高く発揮できる領域や、自らの価値が出る仕事の仕方に自覚的になった期間でもありました。

 入社後、SGNコンテンツサポートラボ(後に「コンテンツラボ」という部門として名称が短縮され、通称「ラボ」と呼ばれるように)という部門を1から立ち上げることになりました。前職で学んだ事を改めて体系化して整理していくことに加えて、完全にネイティブアプリにシフトしていたタイミングでしたので、ここは全くのゼロからの知識でしたが、謎に根拠のない自信があったようで、今の今まで、そこに対してそういえば知識とかなかったな〜とか気にもとめてなかったなぁと。

 それよりも、改めて大手のゲーム会社、それもセガサターン、ドリキャス世代だった私が学生時代にめちゃくちゃハマってたゲームを開発されてたすごい方ばかりで、こんなに面白いゲームを作れる方々が、スマホのF2Pのゲームで売れないはずがない。と謎の使命感が湧いてきまして、その要因、組織としてどこに力を入れていって、何をどう改善していけばいいのか、という仮説がバンバン浮かんできたわけで、とはいえ、その時の私は、ゲーム業界の中での経験は皆無なわけで、ただ、大学生の頃から社会人序盤までくらいは、PCオンラインゲームでいわゆる廃人プレイ生活を送っていたこともあって、共通の話題としてそのゲームの話になると、めちゃくちゃ盛り上がるわけです。そのすごいゲーム開発の方々たちと。 結果、なんかよくわからないですが、お話を聞いていただいたり、提案を聞いていただいていただけるようになった(ゲームで廃人やってて初めて役に立った感覚でしたねw)わけですが、言っても、メンバーレイヤーで入社しているので、自分が正しいと思う事を、出来るようになるには、大企業においては特に「えらくなる」ということが手段としては必要だなと思ったわけです。踊る大捜査線の室井管理官も「正しい事をしたければ、偉くなれ。」と言ってましたが、まさにそれ。で、「毎年偉くなろう」と決めたのが、そのSGNに入ってすぐに決めた事でした。

 で、実際、運が良かった事もあったと思いますが、基本的には最初の5年間くらいは、ほぼ毎年偉くなるか、管掌範囲が広がっていました。コーチングでも「決断が先、方法は後」と言いますが、今振り返ってもまさにそんな状態で、偉くなると決断したら、上司がどんな問題を解決して欲しいかが見えてくるわけで(見えなかったら聞けばいいわけですが)、表面化している問題だけやっても、相手の期待値を超えることはないわけです。なんかサラリーマンハックみたいな話になってしまいますが、上司の気持ちになって考えてみたらわかるんですけど、言われた事を言われた通りやる部下ってのはもちろんそれはそれでめちゃくちゃ貴重なんですけど、「ありがたやー」にはなっても、「期待値を大きく上回る」って感じにはならないわけです。それだと、いわゆる超過評価って得づらい可能性が高いです。
 
 一方で、上司が本当は困ってて解決したい問題、重要性は高いんだけど緊急性が低いから、棚上げしてしまってた課題に対して、どんどんソリューションというかこうしたら良いのではないか?と提案し、提案するだけでなく、やれる人いないなら、やりますよ。とやってしまう。うまく出来れば当然超過評価は得られるし、仮にうまくいかなかったとしても、マイナス評価にはならず、むしろプラスになることの方が多かったりするわけです(当然、上司や会社に依存するので、必ずしもではないですが、挑戦する事を否定する文化がない限りは大丈夫なはず。)ということは、やらなきゃ損だし、上司の期待値を超え続けていく事、その上司をいかに偉くするかを考えてた(上司が偉くなればそのポジションが空くので、自分がそこに入れる可能性が生まれる)ので、必然的に結果がついてきたのだろうなぁと思いますが。

 2015年にセガグループの再編・新会社設立に伴い、セガネットワークスが、コンシューマ・デジタル部門の「セガゲームス」に吸収合併されることとなり、SGN以外のセガグループ内でもスマホゲームを開発する流れが強くなってきたのに伴い、セガゲームス内でよりビジネスサイドで管掌する領域が多角化していった時期でした。2018年頃にはモバイルゲーム事業が会社内だと、ビジネス領域と開発領域と組織が大きく2分されていたのですが、そのビジネス領域側全般を見る責任者くらいまでには偉くなれていたので、それこそ入社当初に掲げた「自分が正しいと思う事を、出来るようになる」切符はある程度発行できるようになっていました。
 2019年に社内の組織再編で大きめの人事があり、そのタイミングで、それまでデバイス軸(コンシューマとかモバイルとか)で組織が分かれていた体制からIP軸になっていき、モバイル事業の組織もビジネスと開発で分断する、というよりはそれを統合していく流れになり、私もその流れの中で、今度は、ビジネス領域(戦略策定・支援領域)に加えて、主に内製開発を行っている数タイトルのラインを束ねる開発組織の部長。という大役を担うことに。これも当時の事業本部長(クリエイティブオフィサーな偉い人)から、「今井もセガに入ったんなら、一度は開発組織の部長とかやったほうがいいと思うし、君なりの価値を出してくれれば、それで良い。開発組織のことでわからないことはプロパーでたたき上げの開発経験がある副部長に聞けば大丈夫だから」と、そんなことを言われ、これまた、その方がいうなら大丈夫だろうと謎の根拠のない自信(エフィカシー)が発動したわけです。
 
 ただ、その少し後で自分が運営プロデューサー的な役割でも入っていたゲームタイトルの事業譲渡が決まりまして、それが現職のMIXIへの事業譲渡だったんですが、その譲渡交渉から、社内調整から、PMIからとやりつつ、実際に9ヶ月近くかけて、関与しているメンバーを全員期間出向して引き継ぎを実施するような形でやっている中、セガで部長をやりながら、週3で業務委託で出向勤務するという、擬似パラレルワーク状態だったのですが、その流れで、いろいろあって、そのままMIXIにお世話になることになったのが、まさにコロナが流行し始めていた2020年4月でした。 


 MIXIでは、最初は、すでにだいぶ開発が進んでおり、もうリリース間際と聞いていた状態の組織に、主に組織づくり、責任者(プロデューサーだったメンバー)育成の文脈を強めに期待され、その組織に事業責任者としてジョインすることになっていました。
 内製で開発をしている組織ということもあったので、セガ時代の経験もあって、すんなりと入っていけた感覚はありますが、タイトルの開発進捗自体も、苦労や困難もそれなりにありまして。さらにパートナーシップありきの規模も大きい案件だったこともあり、対外交渉から社内調整からそれなりに幅広い領域に携わっていました。
 また、その組織の上位組織というのが、いわゆる新しいデジタルエンタメコンテンツを、グローバルを視野に生み出していこうという250名前後の大きめの組織だったこともあり、その組織の組織開発・組織戦略についても、セガ時代の経験を踏まえて関与しておりました。 
 そんな中、2021年GWに入る直前くらいだったことを覚えてますが、いわゆるWeb3.0ブームが到来しはじめており、NFTという言葉が、界隈を賑わせていた頃、英語圏、特にアメリカを中心にNBAをモチーフとしたNFTコレクティブサービスとして「NBA Top Shot」がめちゃくちゃ話題になっており、急成長している事例としてよく取り上げられていたのですが、この開発元であるDapperLab社と一緒に協業パートナーシップを、みたいな話の中で、MIXIとして新しいNFTサービスを立ち上げていこう。ということで、当時のライブエクスペリエンス事業(スポーツ領域)の責任者をやられていた方と一緒にDAZNさんにお声がけをしてサービスの立ち上げをしたのが、DAZN Momentsというサービスでした。

 このサービスの立ち上げ最中に起きた出来事をnoteに綴ったのが以下になります。


人事キャリア(2022.6〜)

 2022年2月、DAZN Momentsのサービスロンチ前月の佳境も佳境の最中で、大病が発覚し、いわゆる「死を覚悟する」ライフイベントが発生したわけです。
 上記noteにも書いてますが、2回の検査入院(生検ってやつ初めてやったんですが、めちゃくちゃ痛かったですw)とさまざまな検査の結果、結論としては、重い病気だし、珍しい病気なんだけど、進行自体は遅い病気とのこと(とは言え、症例数がほとんど報告されていないというレベルのレア度ではあるんで、どこまでいっても個別判断になってしまうんですが)だったのと、ラッキーにも治療方法が見つかったこともあり、その治療方法を使いながら、定期的に通院治療をしはじめてから、約1年9ヶ月程になりますが、幸いなことに、病状は進行はしていない状態ですし、何なら柔術まではじめてしまっているわけなので、周囲からは全然病人扱いされませんw

 ただ、この時のライフイベントは本当に自分のキャリア・仕事に対する向き合い方を大きくアップデートしてくれました。上記noteでも引用してますが、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式のスピーチで話したセンテンスは何回見てもめちゃくちゃ刺さります。

自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて

 長生きするということも、人生においては大切なのかもしれません。健康はもちろん大切です。ただ、いつ病状がどうなってもおかしくない、ある種爆弾を抱えている状態(まぁ、これを認知しているってのはある意味強みなのかもしれませんがw)な私にとっては、それと同じくらい、もしかするとそれ以上に、これからの人生を「どう生き切るか」「どう駆け抜けるか」が大切だと思うようになりましたし、「死に直面しても残る”本当に大切なこと”は何か?」を軸に仕事と向き合った時に、素直にやりたいと思ったことが、「人事、それも戦略人事」だったこと、そして、「プロコーチ」だったということになります。

 このあたりの背景、意図含めて、なぜ戦略人事なのか、なぜプロコーチなのか、みたいなところは改めて間を空けずに別のnoteでお伝えしたいと思っているのですが、今日は自己紹介ということで、簡単に人事キャリアとして何をやっているのかについて、触れさせていただければと思ってます。

 MIXI社のHRBPの取り組みはまだ比較的、新しい取り組みになっており、基本的には全社人事との役割を分けながら、密に連携して動いています。
 基本的には全社人事では制度から仕組みから施策から、全社視点での標準化を前提となってしまいがちですが、HRBP側は、その全社のものをベースにしつつも、現場最適化して運用する、というスタンスで各事業に携わってまして、そのあたりの柔軟性も含めて、最適化・クイックな取り組みがしやすい環境ではあります。
 
 私はMIXIの中でもライフスタイル領域(みてね、minimo、SNS mixiなど)に加えて、今期(2023年4月)からは徐々にソーシャルベッティング事業領域のHRBPとして関わっていますが、領域としては、事業毎にかなり個別化しており、場合によっては事業戦略の策定の領域にまで踏み込んだり、場合によっては、事業側で組織開発が自走できる状態を作れるための組織作りにマネジメントも兼務で見ながら実行してみたり、事業部長の参謀的な立場で、事業面でのサポートを実施したりと、まさにBP(ビジネスパートナー)としての動きがありつつも、主にMGR層を中心とした成長・育成支援に力を入れて研修を企画・実施してみたりと、かなり自由度高く動かさせていただいています。

 そして2024年に入り、次のチャレンジをしようと今水面下でいろいろ準備を進めてますので、このnoteを更新する形になると思いますが、来月早々にでも、今後の人事キャリアの展望についても追記できればなと思っております。


終わりに

 ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
 予想通り(宣言通り)、かなり端折りながら書いたつもりでも、やはり20年ちょっとビジネスパーソンをやっていると、それなりのボリュームになってしまいましたが、改めて、自分の職歴を振り返ってみると、結果として「ヒト・モノ・カネ」を一通りやる感じになっているなーというのと、当時はいろいろ遠回りしている感覚があったり、鬱屈した感覚があった期間も多かったように思うのですが、今振り返ると、どの期間も、どの経験も、すべて今に繋がっているし、今に活きているなぁと痛感します。

 次回は、文中にも記載の通り、今日も一部記載はしてますが、なぜ私が、戦略人事として、プロコーチとして生きる覚悟を決めたのかについて、言語化してみたいと思いますし、特に、プロコーチを目指してコーチングスクール期間中にどのような自己適用が起きていったのかについても、お話しできればと思います。
 もしよければ次回も読んでいただけると嬉しいです!

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