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映画感想 ラストナイト・イン・ソーホー

 その思い出は美しくない。

 『ラストナイト・イン・ソーホー』は2021年エドガー・ライト監督作品。エドガー・ライトは監督であり、脚本家であり、俳優でもある。2004年『ショーン・オブ・ザ・デッド』で監督として脚本家として俳優としてデビューする。監督・脚本・俳優としてのデビュー作が同じ……というかなり希有な人材。その後多くの作品に関わる。監督としては『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』『スコット・ピルグリムVS邪悪な元カレ軍団』『ワールズ・エンド 酔っ払いが世界を救う』……と主に低予算コメディ映画を手がけ、批評家から高い評価を獲得していた。それが今作でいきなりトーンの重いホラー映画。それもただのジャンルホラー映画ではなく、独自のイメージをしっかり持った作品として組み立てている。ただのコメディ映画監督ではなかったわけだ。

 主演はトーマシン・ハーコート・マッケンジー。ニュージーランド出身の現在23歳。とっても可愛い女優さんでしょ。でもね……オッパイ大きいの
 映画出演は『ジョジョ・ラビット』『オールド』『パワー・オブ・ザ・ドッグ』と順調にキャリアを積んできている。

 もう一人の主人公、サンディを演じたのがアンニャ・テイラー=ジョイ。2015年にロバート・エガース監督『ウィッチ』、2017年にナイト・シャラマン監督の『スプリット』、2021年に主演を務めたドラマ『クイーンズ・キャンビット』では第78回ゴールデン・グローブ賞、2020年にはMarvel映画の『ニュー・ミュータント』で主演……といま最も勢いのある女優さんだ。

 もう一人、紹介しておきた女優がこのお婆ちゃん。ダイアナ・リグ。1965年『おしゃれ(秘)探偵』でスターになり、1969年には007シリーズ『女王陛下の007』でボンドガールを演じ、その後多くの映画、テレビに出演し1990年英国アカデミー賞最優秀女優賞受賞、1994年トニー賞主演女優賞受賞。2020年、本作の出演後、癌でこの世を去る。享年82歳。映画冒頭に出てくる「ダイアナに捧ぐ」というのはこの人のこと。最後の出演作として名芝居を見せているので、ぜひ注目してほしい。

 本作の制作費は4300万ドル。それに対し、興行収入はその半分の2200万ドルしか稼げなかった。興行収入の半分は劇場収入だったと思うから、大赤字映画だ。
 映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家レビューが351件あり、肯定評価は75%。オーディエンススコアは90%。作品を見た人の評価はおおむね高い。実際作品を見るとかなり面白い。クオリティも高い。にも関わらず収益に繋がらなくて残念。

 では前半のストーリーを見ていこう。


 エリーはコーンウォールの田舎でお婆ちゃんと一緒に暮らしていた。平凡な暮らしをする普通の女の子だけど、お婆ちゃんの影響で1960年代の映画や音楽に夢中だった。いつかロンドンに出て、映画で見たような暮らしをするのが夢だった。
 ただエリーには普通の女の子にはない能力があった。それは――幽霊を見る能力。時々、死んだ母が何気なしに姿を現す。でもそれだけの能力だった。
 そんなある日、エリーに手紙が届く。ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション――服飾専門学校の合格通知だった。
 ロンドンに行ける! ロンドンに行けるわ!
 エリーはすぐに荷造りを始めて、お婆ちゃんに別れを告げて、新幹線に乗る。夢にまで見たロンドン暮らしに気持ちが高まっていく。
 ようやくロンドンに辿り着いてタクシーに乗るが……。なんか嫌な雰囲気だ。
「シャーロット通りに何があるんだ?」
「学生寮です」
「女子寮か? なら美人を拝みに毎日通うか。君のストーカー1号だ」
 冗談で言ったのかも知れないけれど……なんか嫌だ。エリーは学生寮に辿り着く前にタクシーを降りる。
 結局歩いて学生寮まで行くことに。学生寮に到着すると、ルームメイトになるジョカスタと合流する。しばらくお喋りをするけど……なんか嫌な雰囲気だ。ちょっとしたことでもいちいちマウントをかけてくる感じ。対等なお喋りができない。
 これから共同生活だから、と一緒にパブへ行ったけど、そのトイレで聞いてしまった。
「ムカつく。あの子退屈すぎ。変なクリスチャンみたい。あの田舎のネズミよ。いきなり母親の自殺するし。そんなに注目集めたい?」
 ……あんな子と一緒に生活なんてできない。エリーはすぐに自分で部屋を探すことに。見付けたのはソーホーの貸し部屋。行ってみると……そこは静かで古風な場所だった。すぐに気に入ったエリーは、そこでの暮らしを決める。
 その夜、エリーはお気に入りの1960年代の音楽を聴きながら、ベッドに入る。すると不思議な夢を見る。エリーはなぜか1960年代のロンドンにいて、金髪の女の子サンディになっていた。


 ここまでで25分。前半Aパートの内容。ロンドンに憧れる可愛い女の子。ついにロンドン暮らしが叶ったけれど、そこは思っていたような場所じゃなかった。しかしとある部屋で眠ると、まさに1960年代のロンドンにタイムスリップするのだった。そここそ、思い描いていたロンドンだったけれど……。

 すでに不思議な雰囲気が漂っているけれど、詳しく掘り下げていこう。

 カット1番。映画のラストシーンに繋がるカット。

 しかしプロローグに出てくる主人公エリーは、きちんと作り上げたドレスではなく、新聞紙で雑に作ったドレスを着ている。まだ未完成の存在であることが示唆されている。1960年代の音楽を背景に、壁には同じく60年代映画のポスターだらけ。『ティファニーで朝食を』のポスターが出てくるけれど、この作品も1961年。そんな中で気ままに踊るエリーがひたすらに可愛い。

 急に現れる母の幽霊。エリーは幽霊が見える気質。
 しかし母の死因や、なぜエリーが見えるようになったのか……といった物語経緯は特にない。あくまでも「設定」として描かれる。
 そんなに大きなポイントでもないのだけど、“あの世の風景”“異界”は「鏡の向こう」に見える世界となっている。幽霊たちがエリーに干渉することはないし、その逆もない。

 コーンウォールの田舎。画面手前にトラクターが通り過ぎたり、田舎っぽさが描かれているけれど……素敵な風景じゃないか。でも若い女の子にとっては「田舎なんてやだわぁ」という感覚なのかな? 私はこういう風景の街に住みたいけど。

 ロンドンの服飾学校に行けることになって、夢一杯膨らませながら新幹線に乗り込む。しかし今のロンドンは……。
 映画の中ではそこそこ綺麗な街として描かれるロンドンだけど、実際は相当に荒れている。移民問題を抱えて毎日のように暴行、殺人、道を歩けばなにかしらの凶悪事件に出くわすというくらい。家の中にいても強盗が入ってくるので落ち着かない。毎日のように警察が怪我をしたり殺されているというから、かなり凄惨だ。
 移民が来なかったとしても、とにかく人間の質が落ちているので荒れている。若者達の暴力事件や窃盗は毎日のように起きている。学力低下が酷すぎて、みんな粗暴な性格になってしまっているという。
 エリーが思い描く、綺麗な街で、人のいいロンドンっ子たちのいる場所ではなくなっていた。

 この子がエリーのルームメイトになるジョカスタ。典型的な今どきのロンドンにいるクソガキ。自分が相手より上でないと気が済まない女ジャイアン。なのでエリーが言ったことに対しいちいちケチを付けて、「私の方が凄いでしょ」とアピールするし、他の子たちと話している時でも、話題の優先権が相手に取られていることすら許さない(エリーが「お母さんはいないの」というと、「私も」とさらなる不幸アピールするし……こういう不幸話でも自分が上でないと気が済まない)。ジャイアンの中でもクソジャイアンな女。
 こういうクソガキなので、映画中ではなにかとヘイトを向けられる便利な存在になっている。実際、こういうクソガキが酷い目に遭っても「ざまー見ろ」くらいにしか感じない。

 ジョカスタと一緒にパブへ行くと、その通りにある売春宿(?)からお爺ちゃんが出てくる。背景に赤い照明。その照明を背景にニヤッと笑う。妖しさ100万点な演出。赤い色はこの作品において不吉なイメージとなっている。

 エリーは純朴な女の子。今どきのクソジャイアンなロンドンっ子と一緒に生活……なんて無理。そこですぐに学生寮を出て、自分で部屋を探す。そうして見付けたのがこの部屋。安っぽいけど、なんとなく古風な雰囲気のある部屋。エリーはすぐにこの部屋を気に入って住むことに。

 その部屋で過ごす夜。お隣がフランス料理店で、看板の明かりが部屋の中に入ってくる。ここが上手いところで、これからやや作り物っぽい、嘘の世界へと入っていく。その導入部として、わざとちょっと作り物めいた照明を入れている。こういうどぎつい赤の照明は、今どきのリアリティ重視の映画観には合わない。そこで窓の外にフランス料理店の看板がある……ということにして、このちょっと嘘くさい照明を成立させている。
 それにこの作品にとって、赤い照明ってちょっと怪しいなにかが起きる時の照明……。これから起きるなにかを静かに予感させてくれている。

 夢の中へと入っていく……するとその向こうは1960年代の世界だった。『007 サンダーボール作戦』が出てくるから1965年。エリーが理想として思い描いていた、キラキラとした世界観そのものが描かれる。

 謎の異世界「1960年代のロンドン」にやってくるエリー。しかし鏡を見ると、そこにはサンディという女の子の姿が……。
 冒頭シーンから設定として描かれている「鏡」。エリーは幽霊を見ることができるけど、それはいつも鏡越し。1960年代のロンドンにやってくるけど、エリーはあくまでも「鏡の向こう」の人物。あちらの世界に介入できず、あくまでも「見るだけ」。

 ナイトクラブである「カフェ・ド・パリ」に入っていく。イギリスなのになぜにパリなのか……。まあここもエリーが下宿している部屋の隣がフランス料理店……ということで繋がりを作っている。
 エリーは鏡の向こうに映っている。鏡の映り方は1947年の映画『上海から来た女』が元ネタ……見たことないけど。異世界感を強調するために、そのまま鏡に映っている姿を見せるのではなく、わざと像がブレるように撮っている。

 鏡の向こうのエリー。エリーはベッドに入った時の格好なので、薄いシャツ1枚。いやぁ……オッパイが揺れて揺れて……。

 ここのダンスシーン、いったいどうやって撮影しているんでしょうね。サンディ、エリーと入れ替わりながらのダンスシーンだけど。エリーのほうが明らかにダンスが下手……というところが細かい。
 それにしても、この時代の男達ってみんな同じ格好で、みんな同じ人物に見えてしまう。そういう時代なんだけど、なんだか不思議な感じだなぁ。

 と、こんな感じにエリーは1960年代のロンドンにタイムスリップする。ただし、そこで描かれる世界観はかなり嘘くさい。全体的に“作り物”っぽさを出している。それはエリーが頭のなかで想像するとおりの光景。どこかで見たかも知れない映画の再現。なんだか嘘くさい風景だけど、エリーにとってまさに“夢に見たような夢”だから夢中になってしまう。

 現実に戻ってきたエリーは、夢に見た女の子と同じ髪色、同じ髪型にして、同じ服を探しに行く。それに夢に見た1960年代の風景にインスピレーションを得て、服飾学校でのデザインに反映する。
 こうやって、徐々にエリーは夢に見た女の子サンディに近付いていく。

 でも……あれ? この作品ってホラーじゃなかったっけ? 今のところ「不思議なお話」という感じでホラーっぽいものがなに一つない。冒頭に母親の幽霊がちらっと出てきただけ。観客がホラー映画だってことを忘れさせないようにするための、無理矢理なホラー演出もまったくない。
 実は作品の前半はまったくホラーの気配がない。「ジャンル:ホラー」だと思って見ると、あれ? という感じになる。というか、いわゆるなホラー映画とは明らかに違う。わかりやすくホラーではなく、この作品でしかない空気感や特別な決まり事のある作品になっている。むしろホラーだと思って見ないほうがいいくらいだ。

 その後も何度もエリーは夢の中で1960年代のロンドンへ行くのだが……行く度におかしくなっている。サンディはジャックという男に採用されてナイトクラブの歌手になるのだけど……ジャックが紹介した店、というのが怪しいお店。ステージ上でのダンスはストリップ有りで、出演が終わった後はさらにお金を出した客と性的サービスをすることに。ジャックは女の子に逃げられない状況を作り出して、売春させていたクソ野郎だった。

 楽屋裏を映したシーン。ある種の「絵巻物」といえるシーン。カメラが楽屋の奥へ奥へと進んでいくのだけど、カメラを向けると必ずなにかが起きているように作られている。こういう見せ方は好き。

 そのままサンディは言われるままに売春を繰り返すようになる。鏡の向こうのエリーは「ダメよ!」と鏡を叩く。ここでついに鏡が割れて――ここからホラーが始まる。映画がはじまって中間地点50分。ここからがホラー。これまで、あくまでも「鏡の向こう」だった怪異が、エリーの身の回りで起きるようになっていく。鏡と現実の境界線が壊れてしまう。

 最後に一つ注釈しておくと、エリーはサンディの亡霊を見ていたわけではない。あくまでも「残留思念」を読んでいた。このベッドにサンディの強烈な残留思念があったから、エリーはそれに捕らわれていく……というお話になっている。
 冒頭で「幽霊を見ることができる」という説明はあるけど、「残留思念も読むことができる」とは説明されていない。まあ説明が難しいところだけど。残留思念を読んで、1960年代という時代を夢に見ていた……というのがこのお話、というところは押さえておこう。しかし後半、「飽くまでも鏡の向こうのお話し」という境界が壊れてしまい、ホラーが始まる。


 映画の解説はここまで。ここからは感想文。

 こんな感じで、「わかりやすいホラー」ではない。幽霊は出てくるけど何もしないし、それで怖がらせようとしていない。殺人鬼も出てこなければ、流血もなし。ぜんぜんホラーの気配はなく、前半は「不思議物語」。『鏡の国のアリス』のように、鏡の向こうに“1960年代のロンドン”という不思議な世界が展開していて、主人公エリーはあくまでも鏡の向こうからその様子を覗き込んでいる……という状態。作品がホラーになるのは、中間地点50分を越えてから。
 どうしてこんな不思議な構成になっているのか……。まず監督のエドガー・ライトがどうしてこの映画を制作しようと思い立ったのか、その経緯から見ていこう。

 エドガー・ライトは両親の影響で、両親が青春時代を謳歌していた頃の音楽に夢中になっていた。これが映画中では「お婆ちゃんと孫」という関係性に置き換わっている。主人公エリーの不在の親……というのがちょうど年代的に監督が当てはまっている。
 音楽を通じて60年代文化に親しみを持っていくエドガー・ライトであったが、母親から話を聞くと、60年代はさほどいい時代でもなかったという。
 1965年頃――本作が描かれた年代を「スウィンギング シックスティーズ(Swinging Sixties)」と呼んでいた。第2時世界大戦後の混乱から立ち直り、若者文化が花開いた時期だった。新しい音楽、新しいファッション、表現の自由に性の解放……。ロンドンを発信基地にして、新時代の文化が次々と生まれた時代だった。サイケデリックカルチャー、メアリー・クワントのミニスカートファッション、ビートルズ。政治の世界では反核運動なんてものがあった。
 そうした文化がいきなり出てきたというわけではなく、1950年代に公民権運動やベトナム戦争反対といった社会運動があって、そういう勢いが1960年代に入って開花した。それが1960年代文化だ。
 しかしその時代を体験した当事者の証言としては――つまりエドガー・ライト監督の母親が言うには、1960年代はいい時代ではなかったという。エドガー・ライトの母親は一度ソーホーへ行ってみたが、そこで男達に嫌がらせにあって、逃げるように出て行ったという。そういう体験話からソーホーを舞台にした物語の構想ができあがってくる。
 エドガー・ライトは自身でも1960年代に深入りしていく。その時代の証言を探っていくと、確かに1960年代は混沌とした時代だったとわかってきた。
 エドガー・ライトはこう語る。
「私が本当に悪夢だと思うものには、自分自身を厳しく叱責するような要素があると思います。この作品の場合、過去数十年を過度に懐かしむことの危険性です。ある意味では、この映画は過去をロマンチックに書き換えています。それは間違っています」
 例えば日本では『三丁目の夕日』という映画があって、この作品の中で1950年代の東京を綿菓子に包んだ内容に書き換えてしまった。『三丁目の夕日』は大ヒットして、現代の人々にある種の夢と理想を与えたけど……あの時代、あの場所で実際に生活していた人からすると、「あんなデタラメな映画はない」ということだった。実際にあの時代を過ごした当事者からすると、あんな良い時代ではない、もっと混沌としていた。なにもかもが理不尽だったし、みんな暴力的だったし、店にいってもあるのは粗悪品ばかりだったし……。
 こうした潮流はどこの国にもある。過去を理想化して、「あの時代は良かった」「あの頃に戻りたい」……そういう作品はたくさんある。
 でも本当にそれでいいのだろうか? 良い面ばかりではなく、暗部に目を向けなくてもいいのか? それがエドガー・ライトのメッセージだ。その想いからエリーという現代っ子が1960年代の光と闇を体験するストーリーの骨格が生まれてくる。

 舞台となっているのソーホー地区とは、ロンドンのウェストエンドあたりにある街だ。文化の発信地で多くの劇場、クラブ、レストラン、バーが点在し、音楽、演劇、コメディアンやダンスといった文化が花開いた。歴史的な建造物も多く、「古き良きロンドン」が感じられる地域でもある。イギリスの歴史的な文化と最新の文化が合流する場所……ということで多くのアーティストがこの地域を拠点としている。
 一方で昔からナイトクラブやバーといった「夜の施設」が多い地域でもあり、犯罪や不正規活動の温床にもなっていた。ソーホーには多面的な要素を含む地域であるから、映画の舞台として打ってつけだった。そうした地域の表面と裏面を本作では描いている。

 舞台となっているのはナイトクラブだ。世の中の暗部を知らない女の子が憧れていそうな、キラキラした場所……。
 日本でも一時、「女の子のなりたい職業」に「キャバ嬢」が上位に入ることがあった。バカなマスコミがキャバ嬢をテレビで取り上げて、キャバ嬢というものがあたかも「綺麗な服を着て、お姫様ようにみんなからチヤホヤされる体験ができる職業」……というふうに女の子達は思ったのだろう。あれも正直、どうなのかな……という気がしたが、最近では完全に姿を消したようである。
 一方のエリーとサンディは、ナイトクラブにキラキラした憧れを投影していた。自分の見た目に自信がある。歌も踊りもある。飛び込んでみたら、自分もステージの上のお姫様になれるかも知れない――。
 でもナイトクラブなんて場所はただひたすらにおじさんたちに搾取される場所でしかない。ナイトクラブの表面と裏面が本作では同時に描き込まれていく。

 像がブレる演出。昔のミュージックビデオで時々見かけた手法だ。はっきりいって「ダサい演出」だけど、こういうダサい演出を現実と差異を持った「異界的な表現」として見せているところが上手い。“昔ふうのダサかった表現”に新しい価値を与えている。途中に『上海から来た女』みたいに何枚もの鏡で像がブレる表現があったが、その表現ともリンクしている。1960年代のシーンはあくまでも「作り物」っぽく描かれる。それはいかに1960年代に憧れても、それは現代人が夢想した妄想に過ぎないから……ということを示している。

 過去を懐かしむ今どきの潮流に対するアンチテーゼ。しかし一方で、エドガー・ライト監督は1960年代への愛を捨てることはできなかった。60年代暗部を掘り下げていっているはずなのに、逆に60年代への愛は強まっている。
 例えば表現。像が2重にブレる……という昔のミュージックビデオでやっていたようなダサい表現を、現代映画の中で一つの様式美としてアップデートさせている。昔ふうの表現を入れ込むことで、「現代的な表現」との差異を作っているわけだが、その取り扱い方に明らかな愛着がある。表現に対する敬意がある。
 現代へのアンチテーゼ、60年代暗部の暴露……後半ほど映画は攻撃的になっているのに、不思議と愛情も強くなっている。
 60年代暗部のシンボル的存在だったサンディも、最終的にエリーによって打倒される……というわけではなく、むしろ手が差し伸べられて救済される(サンディを貶めた男達は救う気はない……というポジションはいい)。最後にはサンディはエリーの守護天使になってしまう。60年代への憧れを「捨て去る」のではなく、共にその後の時代を生きよう……という終わり方になっている。
 これは映画の物語が行き着いた地点……というより、エドガー・ライト監督自身が行き着いた地点。エドガー・ライト監督の心理的経緯がそのまま映画になってしまっている。

 と、ここまで書いてきたものが、この映画に描かれている内実。「ホラー映画」だけど、幽霊に呪い殺されるお話しではなく、ユニークな殺人鬼が出てくるお話しでもない。かなり明確なメッセージが込められた作品だ。だからエンタメとしてのホラー映画……つまり通俗的なホラー表現を求めるとガッカリする。それにホラーが始まるのは後半になってからで、前半1時間はホラーじゃない。あくまでもエドガー・ライトによる60年代への愛情と、「あの頃は良かった」という潮流へのアンチテーゼ的な作品だ。現代へのアンチテーゼのためにホラーというジャンルが採用されただけの作品だ。
 そういうメッセージ性を持った作品としては、しっかり作られている。見応えのあるエンタメ映画だといる。

 ところがこの作品は商業的には惨敗だった。これはなぜなのかよくわからない。ストーリーもいいし、表現もいい。エンタメ映画としてしっかり作られている。難しい作品でもない。評判もいい。なのになぜかぜんぜん売れなかった……。作品を見ていても、「売れなかった理由」が見いだせないくらい良い作品。
 まあ映画にはそういうこともあるさ……そう言うしかない。


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