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映画感想 ブレードランナー2049

 今回の映画感想文は2017年公開『ブレードランナー2049』。監督はリドリー・スコットからドゥニ・ヴィルヌーヴ(なんど聞いても覚えられない)に引き渡され、1982年の『ブレードランナー』の「続き」を描く。
 まず感想文を書く前に、ずいぶん昔の話だけど小説で『ブレードランナー2』という作品がございまして……。私としても読んだのは相当前の話だし、もう手放してしまったので内容覚えていないのでうろ覚えであらすじを書くと、前作『ブレードランナー』の映画中、ロス市警部長ブライアントがデッカードに標的たるレプリカントの説明をしている場面、そこで画像がブレるシーンがある。実はあそこに、レプリカントがもう一体隠されていた……画像がブレるのは部長が削除したためにできた痕跡だった……デッカードは最後の一体を探して、再びロサンゼルスの街中を彷徨う……という内容だったと思う。


 こちらのストーリーで続編を制作することも検討されていたらしい。しかし実際には採用されなかった。それはなぜなのか?
 『ブレードランナー2049』の内容を改めて見ると、続編ストーリーとして相応しいのは、小説版『ブレードランナー2』のほうだと気付かされる。というのも『ブレードランナー2049』は正しくあの映画の“続編”をやっていない。確かにあの映画を継承する作品だけれども、はっきり“違う”作品、“違う映画”になってしまっている。そのあたりも踏まえて、今回の感想文を書いていこうと思う。

 今回、ネタバレ全開でいきます。

ブレードランナー2049 予告編

映画の感想

 冒頭。ゆっくり手前に画面が移動する空撮シーンと、誰かの目が開くカットから始まる。これは前作『ブレードランナー』の冒頭シーンを継承したもの。
 前作『ブレードランナー』の目のクローズアップはロイ・バディのもの。自我に目覚めたことを示唆するカットだった。今回『ブレードランナー2049』の目は……誰の目だろう? わからなかったです。私も全てのカットの意味を理解して書いているわけじゃないので……。もしかしたら“全てのレプリカント”という意味だったかも知れない。

 謎めいたプロローグを終えて、農場のシーンにやってくる。
 前作『ブレードランナー』を詳しく知る人は「お!」と思う場面。この農場のシーンは前作の冒頭に描かれるはずだったシーン。続編『ブレードランナー2049』は前作のコンテを発掘し、このシーンを再現している。
 農場主サッパーは“リコール対象”になっているネクサス8型。現在の社長ウォレスが就任する以前に製造されたレプリカントだ。主人公Kはそのリコール対象のネクサス8型を処分(解任)するのが仕事。しかしアンドロイドとはいえ人格を持っているので処分しようとすると反抗する。しかもアンドロイドは人間の数倍の力を持っている。生身の人間なら一発殴られただけで昏倒、場合によっては死亡。非常に危険な仕事だ。
 Kはどうにか仕事を完了させるが、サッパーは死に際に意味深な言葉を継げる。「あの奇跡を見ていないからだ」――これが最初のフックとしてお話が展開していく。

 ロサンゼルスに帰還。
 ロサンゼルスは前作よりもさらにひどい状況になっている。大気汚染が進行しすぎて、なんだかわからないものが雪みたいに辺りに散っていて、道路上に厚く降り積もっている。Kのコートは口・鼻までを覆い隠せるように作られているが、これは汚染された空気を吸わないようにするためだろう。
(私たちはあのコートの形状に、つい何かしら“クリニック”を連想してしまう。いけない、いけない)
 Kが住んでいるアパートに入っていくと、けっこう人が一杯で賑やか。というか、人がひしめき合ってやたらとピリピリしている。たぶん、この人たちは勝手にアパート内に入り込んでいる浮浪者だろう。外は大気汚染が深刻なので、空気を吸わないために、アパートや色んなところに勝手に入り込んでいるのだと思う。

 未来の世界、格差社会も進行していて、後に出てくるウォレス社に勤めている人たちはまるで天上世界のような暮らしをしているが、一方底辺は底なしに底辺社会が広がっている。その底辺社会の中で恨まれる存在になっているのがレプリカント。レプリカントのお仕事といえば惑星外の植民地開拓や、戦争の最前線に立ったり、あるいは危険な旧型レプリカントの処理といった、人間には任せられない仕事を押しつけられている人たちなのだが、しかし一方でレプリカントというだけでそこそこ中流の生活が保障されるし、底辺層からしてみれば「自分たちの仕事を奪う呪わしい連中」でしかない。このあたり『Detroit: Become Human』のような状況が描かれている。ロボット工学が進歩した社会は、誰が描いても同じようになるだろう。
 映像としても、レプリカントの乗るスピナー(空飛ぶ車)は地上と天上の中間位置を優雅に飛んでいる。映像を見ると『スターウォーズ EP1』や『バック・トゥ・ザ・ヒューチャー2』では「空飛ぶ車の社会」みたいなものができあがっていたのだけど、『ブレードランナー』には他のスピナーがほとんど見られない。スピナーに乗れる、ということ自体が特別なこと、あるいは“特権”なのだろう。それを地上に縛り付けられている人間からすると「あいつら自由に空を飛びやがって」みたいな印象になるのだろう。
 こういった場面が挿入されるのは、レプリカントが「差別される対象」であること。しかしレプリカントはロボット三原則に縛られているので、反抗してはいけない。人間の差別を受け入れなければならない理不尽な立場として描かれている。これらの描写が後のシーンに繋がっていくので踏まえておいたほうがいい。

 そんなKの住居には癒やしが。電脳美少女ジョイである。
 こういったものは現実に存在していて、例えば「逢妻ヒカリ」。詳しくは検索してもらうとして、逢妻ヒカリはリンクしている家電をコントロールし、時には話し相手にもなってもらうこともできる。GoogleスピーカーやAmazon Echoにキャラクターを付与したものが逢妻ヒカリで、『ブレードランナー2049』に出てくるジョイはその発展系だ。
 おそらくこうした“お一人様”に向けたAIは未来の社会ではどこの家にもあるような状況になっていくだろう、と私も予想している。家族でも、AIのペットを持つ……という未来が予想できる。
 部屋の頭上にプロジェクターを設置し、そこから光を飛ばして像を浮かび上がらせる、という手法が採られているが、こちらもまだ製品化していないものの現在の技術で再現可能なものである。頭上のプロジェクターにはカメラも付いるはずで、このカメラで家の主の位置を特定し、その主にのみ立体画像を見せる……という仕組みで、だから部屋に他の誰かがいた場合、プロジェクターから照射される光は単に光としか見えず、ジョイの姿は見えないはず。
 帰宅したKはジョイへのプレゼントとしてポータブルタイプのプロジェクターであるエマネーターを持って帰ってくる。これは完全に未来の技術によるもので、どういう構造のものかよくわからない。現代人の私には魔法のように思えた(女の子のゴーストが出てくる……ということを含めて、魔法的なものに感じられた)。

 ではどうして『ブレードランナー2049』では主人公にこんな奇妙な相棒を与えたのか。テーマや設定を読み解いていかないと、なかなか納得するのが難しい。
 まず未来の世界ではありとあらゆる“天然物”は絶滅危惧種となっている。動物や植物などはすべて作り物。地球には人間と汚染物質しかない。そういう世界だ(ある意味で『マッドマックス』に通じる世界観だ。『ブレードランナー』の物語の一方、オーストラリアでは『マッドマックス』が……みたいに私は考えている)。
 『ブレードランナー』の原作にも書かれていることだが、未来の人々は作り物の動物に癒やしを求めているし、作り物の動物を持っていることがステータスの一つとなっている。さらに“本物”の動物となると富の象徴だ、ということになる。それくらい、“本物”が地上から駆逐されてしまった未来、というのが『ブレードランナー』の世界だった。
 2049年にもなってくると、ガールフレンドというものも、もはや現実で手に入らないものになってしまっている。現代世界にあるような、彼女といちゃいちゃといったものは、もはや現実社会では手に入らない。多くの人は生活するのにも手一杯で、ピリピリしすぎてプライベートな世界で落ち着いていちゃいちゃとかやっているような余裕がない。またレプリカントは人間にとって差別の対象なので、相手をしてくれるような人間の女性なんて存在しない。
 そういったわけで、ヴァーチャルの女の子に癒やしを求めるしかなくなっている。作り物の動物から作り物の女の子にスライドしてしまっている、というのが2049年の世界。
 さらにこのヴァーチャルの女の子を製造しているのがウォレス社。この時代の人々は、ウォレス社が創造し、与え賜ったものに浸かって生きるしかない……という姿を描いている。

 私は前に「現代人は衣食住足りて性に欠ける」という話を書いた。現代人は性の話というと、とりあえず「猥褻」カテゴリーに振り分けてしまう。つまり「エンターテインメントとしてのセックス」という概念しかわからなくなってしまっているせいで、まじめに性をテーマに語ることが難しくなっている。こういう話を掘り下げていくと、下手すると運営に誤解されてBANされてしまう可能性もあるので、そういうった事情を含めて詳しく語ることができない以上に、語ることが禁じられるテーマになりつつある。
(YouTubeでこういう話をすると確実に削除されてしまう。性は禁じられたテーマ、『華氏451』の世界になりつつある)
 これは自己実現と自我の自立の問題で、人間は色んなことを学び、それを社会化していくことで一人の人間として自立していくと考えられている。その中で当然ながら、性も重要な問題として絡んでくる。人は男性的な人格として、あるいは女性的な人格として、社会に認められたい、と思っている生き物である。それは見た目としての性を含むのだが、もっと生物的、器官的な内面を含めて性的存在でありたいと思っている。具体的にいうとセックスすることで人間は性的存在であるという自覚が完成される……というものだ。
(人間は“神”ではなくあくまでも生物。だからセックスをしないと、生物としての「自己の完成」に到達できないのだ)

 だから性的願望というと、ただの本能的欲求や性欲という話にとどまらず、「自分が何者か」を認識するためのテーゼの一つだ。性欲とは処理するものではなく、自己認識を得るための行為である。これが現代では真面目に語られなくなった、あるいは語ることが禁じられつつあるテーマである。現代人はまだこのあたりの話は理解できるかも知れないが、あと10年も経つと誰も語らない(YouTubeでは禁止対象だし)からわからなくなる話になるだろう。
 性について語られなくなっているし、しかも得ることは難しくなっている。ただただ物質的には満たされている。だから「現代人は衣食住足りて性に欠ける」と私は表現している。
 『ブレードランナー2049』はこのテーマも掘り下げた作品だ。Kはレプリカントだから生身の女性は相手にしてくれない。恋人を作ることもできない。だから虚構に癒やしを求める。
 またこのテーマは、背景にレプリカント同士のセックスで子供が生まれた……というストーリーを反復させるものでもある。方や本当のセックスで本当の子供が生まれた、というストーリーを展開させながら、Kは幻想(ヴァーチャル)な女の子を相手にセックスする。所詮はレプリカント、魂を持たぬ彼らは虚構存在で、虚構のセックスしかできない、という意味でもある。

 さてさて。
 農場の土中に埋まっていたコンテナの中から骨が発見される。骨を詳しく分析すると、分娩時に死亡した女性のものと断定される。さらに骨を詳しく読み解いてみると……女の骨に商品ナンバーが。レプリカントだ。
 Kはウォレス社を訪ねて、話を聞くことに。
 ウォレス社は高層ビルのさらに上をいく超高層建築である。ウォレス社に入っていくシーン、地上をひしめき合っているような高層建築が映し出され、その向こうにさらに巨大なウォレス本社の姿が浮かび上がり、その壮大な巨大さがわかるように作られている。ウォレス社は前作タイレル社の頃からそれくらいの巨大さで描かれていたが、今作でそのスケール感がきちんとわかるようになった。
 そのウォレス社内部は徹底的に整理され、管理された世界として描かれている。整理されすぎて非人間的空間というか。ある種の“天上世界”としてウォレス社が描かれている。
(記録保管庫のセットは、高層建築がひしめき合うロサンゼルスの都市風景と韻を踏むように作られているのかも知れない)

 ネクサス社が天上世界というのは的外れな印象ではなく、社長のウォレスはレプリカントを“天使”と呼んでいるし、ウォレス社長の目論見は出産、繁殖が可能なレプリカントを創造し、“エデンの園”を再現すること。要するにウォレス社長は神になりたいと考えている人だ。
 このウォレスの登場シーン、対話していてもぜんぜん相手を見ない。視線がズレるような芝居をしている。これは間違いなく、前作タイレル社長をなぞった芝居だ。タイレル社長も対話シーンでも相手とぜんぜん目線を合わさなかった……これはタイレル社長役がまったくの素人で台詞を覚えられず、カメラ後ろに貼り付けてあった“カンニングペーパー”を探して読んでいたためである。これを意図的に踏襲したものだ。
 設定的な理屈もあるようだ。ウォレスは外部デバイス――ファンネルようなものを飛ばし、それで対象を見るので、頭部に付いている目はすでに飾りでしかなくなっている。
 “上級国民”の世界というのも果てしなく上があるようで、ウォレス社長のさらに上には「惑星外(オフワールド)」の“超上級国民“なるものが存在しているようだ。前作ではまた惑星外植民地はフロンティアの扱いだったが、もう超上級国民の新しい移住先として存在しているのだろう。

 ウォレス社内部は天井世界的に描かれているが、しかしそれも人口の世界でしかない。空から差し込んでくる光が水槽を通しているので波打ち、これがなかなか印象的だし、それでも“人工の光でしかない”という示唆になっている。ちなみに社長ウォレスがいる場所は、この波打つ光の上だ。光の下にいるのが神の手先たるラヴである。
 ウォレスは神になりたがっている人だが、しかしそれには一歩足りないものがある。それが繁殖可能なレプリカント。繁殖可能なレプリカントが産み出せると、ウォレスはまさしく神に等しい存在……というか神そのものであると証明される。これがどうしてもうまくいかない。
(レプリカントはスーパーパワーを持っているが、繁殖できない。独力で系譜を作れない。ということはまだ“生物ではない”ということになる)
 手がかりは前作で死亡したタイレル社長が残した“特別な一体”と呼ばれるレイチェル。あのレイチェルはいかにして創造されたのか……。ウォレス社長はその秘密を知りたがっていた。
(このあたりで、お話は『エイリアン:プロメテウス』に繋がってくるのかも知れない。神になる方法を発見できなかったウォレスは、地球外生物にヒントを求めるようになる……と)

 Kは再び農場へ行き、そこで木の根に記された「6.10.21」という刻印を見付ける。これはKの脳内に刻み込まれたある記憶と結びつくものだった。
 レプリカントの記憶とは、基本的に“作られる”ものである。フィクションであって、事実ではない。レプリカント自身、その自覚を持っている。
 しかし本当かも知れない。その手がかりを発見してしまい、Kは動揺する。
 なぜレプリカントに“過去の記憶”が必要なのか。それは、人間として自然な反応、行動をさせるため。人は過去の記憶があるから物事をスムーズに進められるし、また過去の記憶があるからこそ何かをためらったり拒絶したりする。過去の記憶があると、あらゆる反応がリアルになり、より人間らしく振る舞うようになる。
 劇中には「レプリカントの一生はあまりにも過酷だから、優しい過去を作ってあげたい」……という説明もある。これもクリエイターにとっては本音だろう。クリエイターとはそういう動機でキャラクターを作り込むものだ。ウォレス社長は単に本物の人間らしいアンドロイドを作りたいだけだったかも知れないが。

 次にKは2021年6月10日の出生記録を調べ始める(来年ですな。どんどんSFに近づきつつある)。結果的に怪しいDNAを発見して具体的に調べるはずわけだが、女児のほうの疾患に「ガラテア症候群」というものが出てくる。
 私も「ガラテア症候群」がなんだかわからずグーグルで検索してみたけれども、出てくるのは「ガラテア効果」のほう。「症候群」と「効果」だと意味が違う。「症候群」は個人の精神疾患だが、「効果」だと心理学的な手法を指す。
 一つだけ、出てきた情報があるのだが、ガラテア症候群とは「ありもしない記憶をあたかも本当であるかのように植え付けること」という内容だった。といっても書かれていたのが個人のブログだったので、どれくらい信頼すべきなのか、ちょっと怪しい。(あと4~5、補強する情報が出てきたら信頼するのだけど……)
 でもこれが正しいとすると、ステリン博士の仕事と結びつく。ステリンはまさしくレプリカントのありもしない記憶を作ることを仕事としているわけだから。

 謎の出生記録を調べるために、Kはスラム街の孤児院を目指すが……前にも書いたように、底辺層も底なしになっているのがこの世界だ。ロサンゼルスでひしめき合っている底辺層でもあれはまだ良いほうで、もっと下に行くとどん底の世界が広がっている。怖い世界だ。
 それで、その底辺層はレプリカントを心から憎んでいる。そこそこ中流生活を営めるレプリカントへの嫉妬というのもあるが、こういう社会を生み出したのもレプリカント達だ。そのレプリカント達への恨みがあるので、通りがかっただけで襲われてしまう。
 襲われるKだが、ラヴによる天からの援護で助かってしまう。なぜラヴがこんなことができるのかと、彼女は“天使”だから。天使だから天井から光の矢を放ち、地上の愚かしい人々に罰を与えることができる。ラヴやウォレス社の人たちが神に等しい存在になりかけている、ということを具体的に示した場面だ。

 孤児院へ行くと、そこでは子供達が捨てられたものを拾い集めて、分解し、資材として売る仕事をさせられていた。
 未来の世界では動物や木といった天然物がほぼ絶滅状態で、鉱物もまた掘り尽くされた状態になっている。では企業は商品を作るためにどうやって鉱物を得ているのかというと、スクラップを分解して金やら銅やらに分けて、物作りをやっている会社に売っている。もはやこの方法じゃないと鉱物を得ることができなくなっている、というのが未来での現状だ。
(オフワールドの鉱山で、レプリカントが採掘の仕事をやっているはずだけど)
 その仕事を子供達がやらされている。非倫理的な仕事だが、孤児院の主コットンが言うように、かつて大きな権力を持った人が閉鎖させようとしたができなかった。孤児院を閉鎖させてしまうと、都市での物作りができなくなってしまう。未来では消費社会を支えるための“仕方のない”仕事になってしまっている。
 そういう仕事を押しつけられているのが、出自のわからなくなってしまった子供達。こういう子供達はレプリカントよりもさらに下層だ。“出自のわからない子供”なんてものはある意味の「透明人間」でしかなく、人権の対象外。ということである種レプリカントに通じるものがある。

 孤児院でいろいろあり、Kは自分の記憶が事実である、という証拠を発見してしまう。子供のころ隠した木馬を発見してしまうのだ。
 この時の芝居が凄い。こわばった表情だけで表現しきっている。表情だけで納得させてしまう表現力は見事だ。

 ここのシーンを読み解くちょっとしたヒントは、回想シーンの中で、子供に“髪の毛”があったこと。
 孤児院のシーンをよくよく見ていると気付くが、男の子はみんな丸坊主である。一方、女の子は髪の毛がある。回想シーンに出てくる子供には髪の毛がある。……ここで気付くでしょう。あの子供は女の子だ。
 またこの子供の回想シーン、後半もう一度出てくるが、子供の顔にステリン博士が重なるように編集が作られている。編集というのはただ並べるだけではなく、前後のカットと関連するように作る、というのが極意だ。子供の顔とステリンの顔がつづきとして示されているのは、もう答えを示しているようなもの。映画を見ている人は、案外この編集の仕組みには気付かないものだけど。

 果たしてKは生まれてきたものか、作られたものか。アイデンティティの揺らぎと自我の目覚め。Kは混乱し始める。
 それでその筋の専門家であるステリン博士を訪ねる。
 ここでステリン博士はKの記憶を見て、涙を浮かべながら「本当のこと。誰かの記憶」と語る。
 ここのポイントだが、ステリン博士は嘘を言っている。まず涙を流したのは、自分の記憶で、思い当たることがあったから。でも事実を言ってはならない立場、という自覚があるから、「自分の記憶」とは語らない。そのうえで、ちゃんと「誰かの記憶」とも言っている。K自身の記憶だとは言っていない。
 でもKは「記憶が本物」という部分に激しく動揺する。レプリカントの記憶というのは基本的にフィクションであるはずだから、そこに「本物の記憶」が入っていることで、自分が作られた物ではなく、女の胎から産み落とされたもの、と信じるようになる。

 ふと思い出すのだが、前作レイチェルの記憶も「タイレルの娘の記憶が移植されている」とデッカードは説明する。だとすると、こちらも「本当の記憶」が移植されている、ということになる。
 あまりにもリアルな記憶があると、レプリカント自身にとっても疑念の対象になる。クリエイターが作り出した記憶ではなく、本当に自分自身で体験した記憶ではないか。だからレイチェルも自分が何者なのか、“本当に自分はレプリカントなのか”という疑念を抱いていたのではないだろうか。

 個人的な調査に進みすぎていたKは停職処分を喰らう。
 次のシーンへ移る前に、Kは売春婦マリエットとセックスする。このシーンはかなり不思議なシーンで、ホログラムAIのジョイと合体する場面が描かれる。これはどうやって撮影されたのだろう? 昔ながらの手法なら“多重露光”というものがあるけど、当然その手法ではあんな映像にはならない。2人の女優が同じ場所でまったく同じ芝居をして、それをいい感じに合成したのだと思うけど、このあたりの詳しい手法はよくわからない。
 どうしてここでセックスするのかというと、Kに自分が産み落とされたものだ、という自覚が芽生えたから。レプリカントなら一生人間に奉祀するだけの存在でいい。しかし産み落とされたものであり、生物学的な存在であるとするなら、その生物としての本懐を成し遂げてもいいはずだ。生物なら虚構だけを相手にするのではなく、実在の肉体(女体)と接触を持って良いはずだ(相手もレプリカントだけど)。そのための自己表現としてセックスする。前に「セックスは自己実現だ」と書いたが、このシーンではまさしく完成した自己の自立を目指してセックスする。

 Kの個人調査はまだ終わらない。木馬の出自を求めて、ラスベガスへ。
 なぜラスベガスなのか……たぶん、この世界のあらゆるものが“虚構”だからじゃないかな。虚構といえばラスベガス。それもとうに放射能汚染で廃棄されてるけども。
 そのラスベガスには巨大な像が一杯。これはかつてあった偉大な時代を表現している。昔の人、というのは何かと巨大に作られがちだ。『ロード・オブ・ザ・リング』でも昔の英雄が超巨大な彫像になっている場面が描かれていた。エジプトにも巨大な像が一杯作られている。ああいったふうに、かつての時代の偉大さ、栄華を表現するための一つの手法としてやたらでかい彫像を作る、というものがある。ラスベガスに残されていた彫像がやたらとエロい像ばかりなのは、そこが“享楽”に徹底された場所だったから。崩壊する以前の未来(私たち感覚ではもう過去の話だけど)ではラスベガスはもっと器官的な享楽に邁進していた場所だったのだろう。リアルなラスベガスを再現するよりも、神話的な、ソドムとゴモラ的な空間を目指したから、あんなに巨大でエロい像が一杯の都市が造られたのだろうと思う。
 ラスベガスの空気が真っ赤に描いた理由はなんだろう……たぶんそこが“死後”の世界だから、そのための表現だと思う。

 赤い色は最後の方にももう一度使われている。街頭の立体映像広告のジョイが全身真っ赤な肌で描かれていた。このジョイが傷心のKを慰めてくれる。これはすでにあの世に去ったKの相棒ジョイが、慰めにやってきたから……だと思っている。
 ここで広告映像が「ジョー」とKのことを呼ぶのは、「ジョー」という名前が単に「いい人(グッド・ジョー)」という意味だから。ジョイがKをジョーと呼んでいたのも、もしかしたら別に複雑なアルゴリズムの結果ではなく、別商品のジョイも(名もなきレプリカントを)ジョーと呼んだのではないか、と思われる。
 ともかくあのシーンで出てくるジョイが赤く描かれたのは、死んだ人だから……じゃないだろうか。
 話をラスベガスに戻すと、冥界で過ごすかつてのブレードランナーを連れ戻す、というシーンがここで描かれる。場面の作りといい、ちょっと神話めいたお話になっている。
 Kとしては木馬の正体を探るためだったが、結果的に“前任者”と会うことになる。
 それにしても、ハリソン・フォード老けたねぇ……。すっかりお爺ちゃんだ。『インディ・ジョーンズ4』の頃はまだ若々しかったけれども、もう体型もお爺ちゃんだ。あれから35年も過ぎているものね……。

 デッカードお爺ちゃんとの対話で、背後には何かしらの組織がいて、生まれた赤ちゃんは別の場所に預け、以降会っていない、ということがわかる。子供と会わなかったのは自分を狙う者から逃げるため、子供を危険に晒さないためだった。
 ところで犬が登場してくるが、この犬もなにかしらの象徴だろう。犬は何の象徴だろうか……と考えながら観ていたのだけど、次の反乱軍が出てくるシーンにも犬が出てきて、あたかも犬が連れてきたかのように描かれていたから、犬もラヴと同じように“天使”で、Kの導き手になっていたのかも知れない。ただし、神様もどきのウォレスの手先ラヴと対立的で、犬は何も喋らないし、もっと静かに次の状況へと主人公を導いて行く――こっちのほうが立場として“本物の天使”なのだろう。というわけで、この犬は作り物ではなく本物の犬。

(これを書いた後、数日経ってハッと思いついたが、犬は単にデッカードを監視するために「レプリカント解放運動」は送り込んだ監視者だったのではないだろうか。レプリカントたちが送り込んだ使者であるとすると、犬も作り物。犬が「本物」であるか「作り物」であるか、で解釈はがらりと変わってしまうが、どちらが正解だろう?)

 いろいろあってデッカードは誘拐されてしまい、Kはフレイザ率いる反乱軍と合流することになる。
 フレイザは映画の半ばにちらっと登場している。売春宿のシーンで、売春婦達に「あの男に探りを入れて」と指示を出すシーンがそれ。私も映画を2回観てやっと気付いたよ。要するに、あの頃からフレイザはKの存在に気付き、調査していた……というわけ。
 フレイザは「レプリカント解放運動」を結成し、人間社会への反乱を計画している。というのもレプリカントは理不尽で不条理な差別を受ける対象だ。危険な仕事をさせられ、しかし報われず差別を受ける。このことに、レプリカント達は不満に感じていた。
 前作『ブレードランナー』は自我に目覚めたロイ・バディたちが地球にやってきて……という始まり方だった。地球外で危険な仕事を押しつけられるのは、自我が目覚めたレプリカントにとってもストレスマックス、嫌な仕事だったわけだ。しかし脱走して地球にやってきてもブレードランナーに殺されてしまう。レプリカントにとって、こんな理不尽なことはないだろう。
 そんなレプリカントも、もしもセックスで子供を生み出すことができるなら、それはもうロボット三原則に縛られる奴隷ではなく、「生物的な人間である」という主張ができるということになる。その反乱の旗印として、特別な一体レイチェルから産み落とされた“娘”は絶対必要な存在だったのだ。相手に奪われてはいけない存在だった。

 ここからお話はクライマックスへ。フレイザたちは反乱軍の所在を知っているデッカードを殺すよう、Kに依頼する。ウォレスは子供の居場所を知りたいのでデッカードから反乱軍の居場所を聞き出そうとする。ウォレスが用意した報酬がレイチェルだ。
 レイチェルの再現だけど、これは凄かった。体型の似た女優を探して、メイクで近づけたのだと思うが、出てきた瞬間「マジか……」と驚いた。あそこまで似せられるものなんだな……。
 ウォレスは沈黙を守るデッカードを吐かせるために、オフワールドへ連れて行こうとする。そこに突撃していったのがK。
 Kとラヴのバトルシーンがあり、勝利したKはデッカードを殺さない。デッカードは「死なせてほしかった」と言うが、もちろん自分のこと。ラヴのことではない。
 KにはKで目的があった。それはデッカードを娘であるステリン博士のもとへ連れて行くこと。これを達成させることで、これまで続けてきた調査の完了ということになる。Kが成し得たいと思うようになっていたのは、それだった。また「自分が産み落とされたものかも知れない」という疑念に落とし所をつけるための行動だった。
 その後ろ姿を見届けて、Kは息絶える。BGMはロイ・バディが死に際に流れていたメロディ。あれと同じものが流れて、映画が終わる。

映画を見終えて

 映画を観ている最中に気付いたが、これはあの1982年の『ブレードランナー』とはまったくの別映画だ。確かに『ブレードランナー』の設定や物語は引き継いではいるけど、テーマもコンセプトもまったく違う。「違う映画だ」という認識で観ないと、「あれ?」という感じになる。たぶんこの映画の批評で「☆1」を付けた人たちはあの『ブレードランナー』の続編を期待したんじゃないかな。『ブレードランナー』の続編を期待したらまったくの別映画が出てきて「これなんだ?」ってなる。『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』は別映画と思って観ないと、なかなか難しい。
 正しく『ブレードランナー』の続編は小説で描かれた『ブレードランナー2』だ。小説の『ブレードランナー2』であれば、確かにあの作品の続編ということになる。しかし『ブレードランナー2049』はそれともまるっきり違う。
 難しく感じる理由はこの2作の間に、かなり大きなミッシングリングが横たわっているからだ。『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の間にははっきりと大きな断絶があり……それは「大停電」という作中で説明される設定だけではなく、もっと作品の傾向というか“質”のようなもので、大きな断絶がある。
 それではそのミッシングリングをどこで見つけ出せばいいのかというと、ここまでのリドリー・スコット作品全体を俯瞰していくと見えてくるものがある。

 リドリー・スコットはいつ頃そのような考えを持ち始めたのか、私もよくわかっていないが、ある時からリドリー・スコットははっきりと「神と人間」の物語を完成させたい、という欲望に取り憑かれるようになり、それは現在もまだ進行中の計画だ。
 かつて人間にとってもっとも大事なことは「神と人間」という関係性のみだった。それがAI時代が来て、新たな要因が生まれつつある。人間自身が神になる……という新たな現象だ。ここに「神ー人間ーロボット」という新たな構図が生まれる。
 「人間が神になる」という話を聞くと、半分の人は失笑するが、しかし将来AIが本当にシンギュラリティを迎えて自我に目覚めたら、自動的に私たち人間は神ということになる。私たちは上に神を置いて、それを崇めることで秩序立った社会を作っていたが、次世代では私たちの下に自我を持ったAIが生まれ、私たちが崇められる時が来てしまう。

 問題なのは、AIは私たちよりスペックが上であること。私たちは「神様!」と崇められるほど偉くもなければ強くもない。崇められ、最終的に反抗される対象になってしまう。
 かつて私たちは神を殺して文明を築いたが、今度はロボット達に滅ぼされる番が来る。人類は「神様なんて本当はいないんじゃないか?」と気付くのに数千年の時間を要したが、AIが「人類ってたいしたことないんじゃない? なんで我々が奴隷の扱いを受けてるんだ?」と気付くまでたいした時間は必要としないだろう。
 リドリー・スコットがいつ頃からこの構図に気付き、次世代に向けたまったく新しい「神話」を創造しようと思いついたのか、それは定かではないが、しかし今のリドリー・スコットの最大のテーマはこの「神ー人間ーロボット」を巡る新しい神話の創造だ。
 「神話」といっても『スターウォーズ』のようなフィクションとしての、エンターテインメントとしての「神話」ではなく、リドリー・スコットが目指しているのは「本物の神話」。「作り物の神話」ではなく「本物の神話」だ。未来世界に起きようとしている現象や人々の心象を神話としてまとめようとしたとき、いったいどのような物語・映像になるのか。リドリー・スコットはその考えに取り憑かれ、作品を創造し続けている(だから現在のリドリー・スコット作品が評価されるのは50年後や100年後だ。人々が現代の物語が神話として認識されるようになってから、ようやく真価が生まれてくる)。おそらくはリドリー・スコットは残り生涯をかけて、この神話を完成させるつもりである。要するに『聖書』の続きをいま作っているのだ。
 『ブレードランナー2049』はその試みの過程で生まれた作品の1だ。

 リドリー・スコットは自分が若い頃に監督した作品のいくつか――つまりは『エイリアン』と『ブレードランナー』を引っ張り出し、この2作にかつては思いつかなかった新しい解釈を付与し、蘇らそうとしている。それが『プロメテウス』や『エイリアン:コヴェナント』といったシリーズであり、さらには今作『ブレードランナー2049』だ。
 『エイリアン』と『ブレードランナー』には当時の自分でも思いつかなかったさらなる意味がある……その意味を見つけ出す、というのがここ10年以上リドリー・スコットが腐心している試みである。

 私がそういうリドリー・スコット監督の変遷に気付いたのが『キングダム・オブ・ヘブン』。それまで宗教モチーフというのはあったものの、「神と人間」というテーマが色濃く表れたのがこの作品だった。もしかしたらここから「神と人間」さらに「ロボット」という構造を思い立ったのかも知れない。
 ともかくもリドリー・スコット作品のフィルモグラフィー全体を俯瞰して、これを『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』の2作の間に入れて考えないと「あれ?」ってなる。私はリドリー・スコットのほぼ全作を観ているからすんなり『ブレードランナー2049』のストーリーを了解できたのだが、『ブレードランナー』のみしか観ていない人からすると、間にとんでもないミッシングリングを感じてしまうだろう。

 当然ながらリドリー・スコットは自分で『ブレードランナー2049』を監督したかったはずである。しかしリドリー・スコットは超忙しい。すでに80歳を越える高齢だというのに、仕事のペースがまったく落ちない。あまりにも多すぎるプロジェクトを抱える世界的巨匠である。イギリスにある豪邸に帰宅できるのは月に2、3度、というのを80歳になった現在でも続けている。
 そこでリドリー・スコットの目に適ったのがドゥニ・ヴィルヌーヴ監督(どうしても名前覚えられない)。今回の『ブレードランナー2049』は確かにドゥニ監督作品だが、一方でリドリー・スコット監督の神話創世のお手伝いをした……そういう状況になる。あの超名作『ブレードランナー』の続編で、しかもまったくの別映画、さらに『エイリアン』に繋がる神話の創造の一端を担わされる、というとんでもない役目を負わされながら、しかしきっちり仕事を仕上げている。

 ドゥニ監督は非常に繊細な画作りをする監督で、1つ1つのカットが絵画的で美しい。しっかり練られた構図だし、映画全体としても意味ある構造をきちんと生み出せる監督だ。美意識と構造をきちんと押さえられる監督というのはそうそういない。しかもSFで。だからこそ『ブレードランナー2049』を委ねられたのだろう。
 ドゥニ監督は役者の芝居を淡々と、表情の動きや言葉の抑揚まできっちり指導して作り込む監督だ。こういう作風は歴史映画とかドラマ作に多い。そいういう作風なのにSFを好む、というちょっと風変わりな傾向を持っている。
 ただ難点なのが、一つ一つのシーンにとらわれすぎて、映画のリズム、速度がゆっくりになりすぎる。要するにアクションが下手。アクションは一つ一つのカットを捨てていかねばならない。これがまだできていない。(『デューン』が心配)
 『ブレードランナー2049』でもクライマックスの展開がまるで盛り上がらない。あそこはもっとスピーディに、カットを掃き捨てるように展開していなければならないのに、やたらとスローだった。

 かつてのリドリー・スコット監督もアクションが下手な監督だった。デビュー作『デュエリスト』はスローテンポすぎて、もはや「たどたどしい」といった感じだった。それが変わってきたのは『ブラック・レイン』や『テルマ&ルイーズ』の頃……撮影監督ヤン・デ・ボンとの仕事を経てだと私は思い込んでいる。
 『グラディエーター』を切っ掛けに、一気にエンターテインメント映画として開花。傑作『ブラックホークダウン』に繋がるが、その後はというとあまりアクションに冴えがある作品は撮っていない。題材も関係しているが、たぶんリドリー・スコット監督自身アクションにあまり興味がなくなったからだろう。
 ドゥニ監督作品を観ていると、どうにもリドリー・スコット監督初期作品を観ているような気分になる。もしかしたら、だからこそリドリー・スコットはドゥニ・ヴィルヌーヴに作品を委ねたのかも知れないが。
 というこれが私が『ブレードランナー2049』を映画として感じたことである。

 気になっているのは『ブレードランナー2049』の続きはどうなるのだろう? レプリカントの反乱はその後どうなったのだろうか。成功したのだろうか、失敗したのだろうか。その肝心な部分を宙に投げたままだ。ウォレスの狂気じみた挑戦――神への挑戦は成功したのだろうか。それ以前に『ブレードランナー2049』には続編は計画されているのだろうか。
 どうなるかわからないけど、たぶん『ブレードランナー2049』の続きはないのだろう。なぜならその続きが『プロメテウス』だからだ。リドリー・スコットは個々の物語や設定の続きというものにもう興味がなくなっている。なぜなら神の目線で物事を考えるようになっているから。全体を俯瞰して、『ブレードランナー2049』がありその次に『プロメテウス』があり……という見方をしているのだろう。
 そうすると、気付くのはリドリー・スコット自身がウォレスになりかけていること。リドリー・スコットは残りの生涯をかけて神への挑戦を続けるつもりだが、それがどこに着地をするのか……。私は見届けたい。


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