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映画感想 OLD(オールド)

 『オールド』は2021年公開の映画。監督・製作・脚本をM・ナイト・シャラマンが1人で務めた。ある家族が謎めいたビーチで不可思議な現象と遭遇する……そんなお話である。
 物語の骨子は娘から父の日のプレゼントとして渡された、グラフィックノベルの『Sandcastle』をヒントにしている。この作品の映像化というわけではないが、元ネタ作品として明らかにされている。
 本作の制作費は1800万ドルで、興行収入は公開初週だけで1685万ドル。初週だけでほぼ制作費を回収しているが、ナイト・シャラマン監督作品の中ではもっとも低いオープニング成績とされている。最終的な世界興行収入は9千万ドル。まずまず稼いだ作品であると言える。
 批評ははっきり「賛否両論」となっており、映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家支持率50%、平均点は10点満点中5.5点。ある評論では「観客を唸らせるか苛立たせるかの2択であり、そこに中間はない」と書かれており、ほとんどの観客の反応は、その評論が示すとおりになっている。『オールド』は観客の半分は絶賛し、半分は酷評し、その中間がない作品なのである。実際に見ると飲み込みづらい作品というのは確かで、ある意味で挑戦的な作品であるといえる。

 では本作のあらすじを見ていこう。


 カッパ一家はあるリゾートホテルへと向かっていた。移動中の車内の様子は穏やかで、仲のいい家族の様子に見えた。一家の大黒柱ガイ・カッパは保険数理士をやっていて、その妻プリスカは博物館の学芸員。トレントは6歳の少年で、マドックスは11歳。うまくいっている家族に見えたが――ガイとプリスカは離婚の予定で、離婚前最後の家族旅行というつもりでやってきたのだった。
 リゾートホテル・アナミカは風景のいい豪華なホテルで、一家はあっという間に気に入った。ホテルに入ってすぐ、トレントはイドリブという少年に声をかけられる。意気投合した2人は、その後浜辺で一緒に遊ぶ仲になっていく。
 2日目の朝、カッパ一家は支配人に声をかけられる。
「実は島の自然保護区にプライベートビーチがあるんです。特殊な鉱物を含む巨大岩で隔絶された場所です。見事な奇観ですよ。普通は紹介しないんですが、皆さんのことが好きになってしまって……。よければ車を手配しますが……」
 カッパ一家はその誘いに乗って、件のプライベートビーチへと向かう。
 そこは確かに見事な景観の美しいビーチだった。それに人がほとんどいない。支配人から直接招待されたカッパ一家と、チャールズ&クリスタル一家、それから後からやってきたカーマイケル夫妻の3組の家族だけ。
 大人達はビーチでのんびり過ごし、子供たちは波際で無邪気にはしゃぐのだった。
 しかし――波に乗って何かが流れ着いてきた。女の死体だ。
 誰かが殺したのか? それとも事故? 穏やかな雰囲気だったビーチは緊張に包まれる。
 問題はそれだけじゃなかった。老婆のアグネスが苦しみだし、間もなく死亡してしまう。
 子供たちはしばらく目を離している間に――なんと成長してしまっていた。6歳だったはずのトレントは思春期の入り始める少年になっていて、マドックスは16歳くらいのティーエンジャーに。幼女だったカーラも第二次性徴が入り始めた少女になっていた。
 このビーチはなにかおかしい。元来た道を引き返そうとするが、その途上で激しい頭痛に襲われ、無意識に戻ってしまい、そのまま気絶してしまう。
 奇怪な現象が起きているビーチ。脱出はできない。携帯電話も繋がらない。ビーチにやって来た一同は、静かに錯乱していくのだった……。


 ここまでのお話が前半30分。

 ビーチにやってくる人達。美しいビーチだけど、何かがおかしい。死体が流れ着いてきたのを切っ掛けに、異変が顕在化する。老婆が死亡し、子供たちがあっという間に育ってしまう。
 実はこのビーチ、30分で1年分が経過してしまう……という特殊な場所だった。つまり、24時間で48年分。だからもともと老婆だったアグネスは老いで死んでしまい、子供たちは猛烈な速度で育ってしまう。大人達への影響は緩やかだけど、どんどん顔の皺が増えていくし、肉体も衰えてしまう。
 このビーチはヤバいぞ……と脱出しようとしても、出ることはできない。
 ……という、物語の前提にあるものをすべて紹介したところで30分。お話はスローテンポで進んでいるように見えて、前半30分の間にきっちりと、物語の基本的なあらすじを説明し終えている。
 ここから以降のお話は、ほぼこのビーチだけで進行する。周囲から完全に隔絶された環境。登場人物はほぼ11人だけ。ある種の“脱出ゲーム”的なお話であり、この11人だけで進行するから舞台演劇的なお話でもある。

 本作には、ビーチにやってくる11人くらいの人達でほとんどお話が進行する。
 しかしこの11人でも、「登場人物の顔が覚えられない」「登場人物が多すぎる」という意見があるらしくて……。
 では整理しよう。

 カッパ家(字幕ではキャパ家)
ガイ・カッパ
プリスカ・カッパ
トレント・カッパ
マドックス・カッパ
 ガイ・カッパは保険数理士。プリスカ・カッパは博物館の学芸員。一般的な家庭よりも少し地位も上。文系的な一家である。
 一見すると一家は仲良く見えるけれど、プリスカは腫瘍を抱えており、それを切っ掛けにガイとプリスカは離婚の予定だった。今回の旅行は、離婚前最後の家族旅行だった。


 チャールズ&クリスタル家(作中に名字が出てこない)
チャールズ
クリスタル
カーラ
アグネス
 チャールズは心臓外科医で総医局長。クリスタルはその妻だが、妻の職業はよくわからない。カーラはチャールズとクリスタルの娘で、6歳。アグネスはチャールズの母親。
 一般家庭よりも地位は上で、それゆえにステータスを気にする一家で、プライドも高い。自分たちがどのように見えるのか、いつも見た目を気にする行動を取る。妻のクリスタルはそこそこオバサンだと思うが、自分の見た目に対する執着が強く、派手な格好をするし、自分の見た目のチェックに余念がない(ある場面で昔付き合っていた男の話をするが、「不細工だから別れた。自分とは不釣り合いだったから」というような言い方をする。男の選び方からして、周りにどう見られているのか……ということを気にする)。そんなクリスタルに対し、夫は何も言わないが、周りの目を気にしている。ビーチへやって来た時、知らない男が見ている……ような気がして、パラソルを設置する場所を変えている。ステータスとプライドを気にする性格は変わらないが、妻に対しては何も言えず、神経質な面を見せている。


 カーマイケル夫妻
ジャリン・カーマイケル
パトリシア・カーマイケル
 カッパ家、チャールズ&クリスタル一家よりも後にやってくる夫婦。ジャリンは中国系アメリカ人、パトリシアは黒人なので、顔は覚えやすい。ジャリンは看護師。パトリシアは“てんかん”を抱えていて、時々突発的な症状を起こす。


 その他
ミッドサイズ・セダン
 最初からビーチにいる黒人ラッパー。どうやら朝の早い時間にこのビーチにやってきたらしい。一緒にやってきた女は海に潜り、そのまま死亡してしまう。


 以上のように、「カッパ家」「チャールズ&クリスタル一家」「カーマイケル夫妻」の3組にキャラクターを分けて見ていけば、混乱することはほぼないはずだ。それぞれ家族ごとの傾向や、わかりやすい特徴がどこかしらにあるので、それを押さえればわかりやすく見られるはずだ。

 『オールド』の印象は「舞台劇っぽいなぁ」という感じ。どうして私はそう感じたのか。
 映画の世界には、物語を進行させるために、「役割」だけが与えられているキャラクターがしばしば登場する。「役割」があるだけだから、その人物の「来歴」がない。そういった現場では、監督から「お前、殺し屋な」と指示が与えられたら、役者は「殺し屋」って顔をして芝居をする。その人間がどういった背景を持って現在に至っているかわからなくても、とりあえず「殺し屋」と言われたら「殺し屋という芝居」をする。役者も演技のプロだから、「殺し屋の芝居をやれ」と言われたらキチッとこなす。映画の世界にはこういうことはそれなりにあるが、こうやって作った映画は、いざ人物を掘り下げるというフェーズに入ると安っぽくなりやすい。
 映画というのは2時間しかないから、その時間内でそれぞれの人物を掘り下げて描く……なんてことはできない。それはドラマシリーズの描き方だ。だから人物の描写を省略し、誰が見てもすぐに理解できるように記号的、漫画的に描かれることが多い。それが映画の登場人物がステレオタイプに陥りやすい原因でもある。

 この手のスリラーには、異常な状況にパニックを起こして、場をかき乱すようなキャラクターが必ずといっていいほどいる。なんでそういうキャラクターが出てくるのか、というとその世界観において何が「アウト」なにか観客に伝えるため。あるいは物語に緊張感を持たせるために。『オールド』のような作品の場合、全員が理性的なキャラクターばかりだったら、ただただ淡々とお話が進むだけ……になってしまう。それが面白いか……というと面白くない。観客はなんだかんだ言っても「惨劇」が見たいのだ。わかりやすい刺激がほしいのだ。
 でもステレオタイプのキャラクターだけを場に放り込んだだけだと、物語は安っぽくなってしまう。ではどうするのか?

 この作品の場合、チャールズ&クリスタル一家が、場を引っかき回すキャラクターだ。でもそういう状況に陥っていくまでの心理を丹念に描いている。
 クリスタルはもうオバサンなんだけど、見た目に対する執着は異常なほど強い。そこで秒ごとに年を食っていくという状況に放り込むとどんな反応を見せるか。夫のチャールズは外科医でかなり高い地位を持っていて、一見すると理性的な人物に見えるけど、実は自尊心がやたらと強い。妻のクリスタルは、「男が自分をどう見るのか」ということにしか興味がなく、チャールズはそういう妻に対して不満を抱えているが、実は小心者でもあるので何も言えない。自尊心の強さと小心を同時に抱えていて、それが異常な状況に置かれた時、パニックになって暴力性を発揮させていく。とにかく不安を感じるものを排除しよう……と身を守るつもりで攻撃性を発揮させていく。

 こういう細かい心理の掘り下げ方をするのが舞台演劇的。
 舞台演劇は役者が主導になって物語を作り上げていくものだから、それぞれの人物がどうしてそのような行動を取り、そんな台詞を言うのか、自身で納得して言えるようになるまで作り込んで表現する。そういう余裕を持たせているのが舞台演劇だ(そうじゃない奴も一杯あるけども)。
 映画『オールド』の場合は、全員がどういう職業なのか、どういう人間観なのか……という作り込みがあって、それから物語が表現されている。こういうところが映画的というより、舞台演劇的。
 映画の前半の描写を見ると、状況を進展させるために導入された描写もあるのだけど、人物を掘り下げるための描写も多い。例えばホテルのレストランで、クリスタルが食事を注文しているシーン。クリスタルはまず子供に「座っている姿勢」の注意をする。姿勢が悪いと、「男にモテなくなるわよ」と指摘し、男の給仕にちょっと色目を使い、夫のチャールズが神妙な顔をしてその様子を見ている。見た目からステータス高そうな雰囲気をまとっているが、この夫婦が抱えている心理を表現している。こういう描き込みがあってから、次第にチャールズ&クリスタルが精神崩壊していく姿が描かれていく。

 もう一つ「おや?」と感じたのは、「映画的演出」を重視していないこと。
 カメラの動きやアングルにぜんぜん重きを置いてない。
 例えばチャールズが黒人ラッパー、ミッドサイズ・セダンをナイフで斬りつけるシーン。「そのアングル?」と聞きたくなるほど無防備なカメラワークで撮っている。
 こういったシーンのセオリーは、斬りつけるほうの背後にカメラを設置することだ。すると距離感がごまかされ、(実際には数十センチあったとしても)本当にナイフで斬りつけているように見える。どんな映画でも、殴り合いのシーンになるとカメラが殴るほうの背中に回り、殴られるほうがのけぞるリアクションをする。これで鼻血でも出せば本当に殴っているように見える。
 『オールド』では、そういうカメラワークをあえて外してきている。M・ナイト・シャラマン監督はベテランだから、そういう撮影のセオリーを知っていて当然なので、わざと外しているのだろう。つまりカメラワークで物語を演出していない。

 ビーチから抜け出そうとするシーン、洞窟に入ったところで役者に逆ズーム(カメラを後方に移動させつつ、ズームアップするという手法)、次に役者の顔面を捕らえて、暗転。次のカットに入ると、洞窟の手前に戻っていて「何が起きた?」というシーンに入っている。
 映画的な演出でいうとショボい。映画はこういう超現実的な場面を作るために、カメラワークでもっともらしく見せたり、VFXで表現したりする。そういう見せ方も当然できたはずなのだけれど、あえて外してきている。
 こういうのは演劇的。演劇はその舞台上で完結させないといけないから、舞台上で描けないものは台詞で説明したりする。そういう描き方をしてしまっている。
 演出もカメラの動きも、物語の状況から外れているように見えるから、妙に浮いているような感じが出てしまっている。本当なら、カメラワークは観客側に、「そういう演出を使っている」と認識させないほうがよい。でも『オールド』の場合は、むしろちょっと変なカメラワークを使ってますよ……と認識させるような描き方をしている。
 この辺りが、この映画が映画的演出に重点を置いていない、と感じるところ。おそらくこの映画を観て、「出来が悪い」と感じた人達は、こういう妙に素人っぽい、「外した演出」に違和感があったという人達だろう。要するに、映像的な「驚き」がまったくない。
 この映画の評論で、「大絶賛」か「酷評」の2つに分かれた理由はたぶんここだ。この映画が舞台演劇的に作られている……と気付いた人達は「大絶賛」。映画的な演出を求めて見た人は「酷評」……という感じだろう。

 でもおそらくこれは意図的なものだろう。なぜならM・ナイト・シャラマン監督の別作品ではきっちりやっているから。ヒット作を何本も抱えているベテラン監督だ。そんな素人が見てすぐわかるような失敗するわけがない。
 おそらくはビーチ周辺の風景を演劇的な空間にするため。あえて映画的演出を外してきている。子供たちが突然成長してしまう場面にしても、その瞬間を描いてない。全て役者の表情だけで説明させている。こういうところで、役者の能力に信頼を置いて映画を作っていることがわかる。
 ただ、「映像的な驚き」がまったくない映画……というのも事実で、そこで表現して欲しかった……とは思う。「老い」の表現ももっとメイクでガチガチにやって欲しかったなぁ……とかも思う。

 では映画本来的な「役割」だけで『オールド』の登場人物を見ていこう。
 ガイ家 主人公一家
 チャールズ&クリスタル一家 場を引っかき回す人達
 カーマイケル夫妻 物語のオチを説明するためのキャラクター
 ミッドサイズ・セダン チャールズに“疑われるだけ”のキャラクター
 というところだが、こういうただの「役割」だけのキャラクターだけに陥らず、それぞれの人物に来歴を与えて、人間観がわかるような見せ方をさせつつ、その上でそれぞれの人物がどうして物語上のような状況に陥ったかを掘り下げている。こういうところが演劇的だし、見応えあるドラマになっている。

ここからネタバレ!


 『オールド』におけるドラマの中心は、カッパ一家にある(逆に言えば、カッパ一家以外はドラマを持ってない)。カッパ一家は、仲よさそうに見える家族だが、両親は離婚することを決めており、離婚前最後の家族旅行……というつもりでリゾートホテルにやってきた……という一家だった。
 それが“脱出不能”でしかも猛烈な速度で老化が進んでいく謎のビーチへやって来て、離婚するはずが、ガイ・カッパとプリスカ夫妻は「最後の時」まで添い遂げる……という結末になってしまう。離婚するはずだった……それがカッパ一家が直面していた問題だった。プリスカが腫瘍を抱えて、家族と別れて1人での生活をするつもりだった。その瞬間のプリスカは、そのことしか考えられなかった。
 しかし謎のビーチへやって来て、その悩みも「その瞬間」のものでしかなかったことに気付く。その瞬間に抱いた気持ちも迷いも、大きな視点の中で見てみると、小さなものに過ぎない。物語後半に入っていくと、「離婚しよう」と思い詰めていたあの時の悩みも、「思い起こせばそんなこともあったなぁ」という過去の思い出の一つになっていく。自分を許し、相手を許し、お互いへの想いに気付いていく……この瞬間に映画のドラマが高まっていく。

 本作にはどんでん返し的な「大オチ」が用意されてあるのだけど、私にはそれはちょっとした「オマケ」に感じられた。ドラマの中心軸はあくまでもカッパ一家がどんな心情に行き着くのか……そこに重点が置かれている。

 トレント・カッパは猛烈な感情のドラマを体験するキャラクターだ。
 トレント・カッパは最初は6歳だ。それが謎ビーチに入ってきて、あっという間に思春期の少年になってしまう。同じく謎ビーチに迷い込んで来た同じ年のカーラと恋をしてしまう。カーラもトレントに恋をして、お互いに猛烈に愛情が昂ぶってしまい……。
 しかしトレントもカーラも性の知識が6歳のまま。ただお互いへの気持ちが昂ぶり、すると体が昂ぶりに呼応するように反応を示し……。その昂ぶりを解消しようと本能のまま動いていたら……。30分で1年分が過ぎてしまうビーチなので、数分のうちにカーラのお腹はどんどん大きくなってしまう。カーラは自分のお腹がどうして大きくなってしまったかわからない(それ以前に、大きくなっていることに自分で気付かなかった)。
 トレントは自分たちがした行為がセックスだったことに気付き、ショックを受けるが、その後もカーラへの愛情は変わらない。カーラと結婚し、添い遂げるつもりでいる。
 感情だけで先走りがちな少年の心情を、直線的に描いている。
 そんな少年期を経て、青年、中年へと成長していく。そこまで進むと、両親を想いやる落ち着きある大人の男性へと変わっていく。

 こうして見ると、不思議なくらい『オールド』は普遍的な家族のドラマに見えてくる。通常の映画だと、「編集」によって時間は圧縮され、その家族にこんなことが起きました、色んな出来事があって、変遷があって、ようやくお互いを静かに想いやる気持ちに行き当たりました……という描き方をする。『オールド』の場合は、「時間が猛烈に過ぎ去っていくビーチ」という特殊空間に放り込むことによって、家族物語がこの中で凝縮されて描かれていく。離婚寸前の夫婦の物語、情熱だけで先走るあまり、女の子を妊娠させちゃう少年の物語、そんな色々あって、それでも一つにまとまっていく家族……こういうまとめ方をすると、状況が特殊なだけで、ドラマの形そのものはよくある家族物語だったことに気付く。
 ビーチにやがて夕闇が迫り、老夫婦になってしまったガイ夫妻がその前に佇む姿が美しく見えてしまう。ひょっとして家族物語を描くための方便として、「謎ビーチ」という仕立てを持ち込んだんじゃないか……というくらい。

 そんな老夫婦もやがて老いによって人生を終えて、子供たちがビーチに残されてしまう。脱出も諦めたトレントとマドックスは急に砂遊びを始める。このビーチにやってくる前までは当たり前のようにやっていた遊びだ(物語前半、砂遊びをする子供たちの姿が描かれている。ある種の「伏線」だ)。そもそもトレントとマドックスはそういう遊びをする子供だったはずだし、ああいった中年に入ってくると、子供時代の遊びをふとまたやりたくなるものだ。
 その子供の遊びに戻った瞬間、トレントは脱出の糸口を発見する。この辺りの展開は巧い。心情的にも自然に感じられる。うまい描き方だ。
 ここから結末に入っていくが……ビーチの正体がなんだったのかは、見てのお楽しみ。


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