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映画感想 パワー・オブ・ザ・ドッグ

 本日視聴映画はNetflixオリジナル『パワー・オブ・ザ・ドッグ』。タイトルの由来は、葬儀の祈祷書に書かれている一節「剣と犬の力から、私の魂を解放したまえ」から。
 監督はジェーン・カンピオン。男臭い映画だから男性が監督したのだろう……と思いきや女性監督。オーストラリア出身で1993年公開『ピアノ・レッスン』ではカンヌ映画祭パルムドールを受賞している。
 制作は2021年。劇場公開は、後の賞レースの規定に合うよう、ほんのちょっとの期間だけ実施された。ほんのちょっと期間なので「興行記録」といったものはない。
 評価がなかなか凄まじい作品で、映画批評集積サイトRotten Tomatoesでは批評家レビュー96%が支持、10点満点中8.5という高い数字を叩き出した。すでに賞レースを賑わせる作品になっていて、その一部を紹介すると、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞、ニューヨーク映画批評協会賞監督賞、主演男優賞、助演男優賞受賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞監督賞受賞、ゴールデングローブ賞作品賞受賞、そして2022年米国アカデミー賞監督賞受賞……。これもほんの一部で、リスト全体を見るとかなり壮観だ。とにかくも世界中で大絶賛を浴びた作品が『パワー・オブ・ザ・ドッグ』だ。Netflix発の映画が、映画業界全体を席巻しつつある……その存在感を示した一作である。

 では本編ストーリーを見てみよう。


 1925年モンタナ州。
 主人公であるフィル・バーバンクとその弟ジョージ・バーバンクは牧場経営で一財産を築き上げていた。特にフィルは、カウボーイ仲間達から尊敬されるカリスマ的存在であった。
 ある時、フィルとジョージは牛を追い立てて大移動。少し離れた街であるビーチへと向かった。
 フィルとジョージはその街でたった一軒だけあるレストランに入る。テーブルに座ると、綺麗な造花が置かれていた。レストランは未亡人が切り盛りしていて、その造花は未亡人の息子が作ったものらしかった。
 フィルは少年の作った造花をからかい、ロウソクの炎で燃やしてしまう。
 フィル達はカウボーイ達の仲間達と食事を済ませると、レストランを後にして酒場へと向かう。弟のジョージだけが残り、会計を済ませようと未亡人に会う。すると未亡人のローズ・ゴードンはフィルの横暴に泣いていた。


 ここまでが前半22分のストーリー。
 舞台はモンタナ州。名作映画『リバー・ランズ・スルー・イット』の舞台となった場所で、アメリカの中でも特に「自然が豊かで美しい」ことで知られる土地である。ところが、本作の撮影はニュージーランド。現代のモンタナ州では撮影されていない。モンタナ州は「風光明媚な観光地」として有名であるが、それゆえに開発が進んでしまい、セレブたちが一杯別荘を作りまくって、かつてのような美しさはもはやないと言われている。アメリカで撮影されなかったのはそういうことも関係していそうだ。
 年代だが、「1925年」という設定に「おや?」となる。いわゆる「西部開拓時代」と言われるのは1860年代から1890年代となっている。第1次世界大戦が1914年から1918年。1925年だから、それよりもさらに後のお話だ。
 映画を観ていると普通に車は出てくるし、レストランへ行くとラベルの貼った調味料なんかも出てくる。旧世代的な「職人時代」もすでに終わっていて、「大量生産・大量消費時代」に入った頃を描いている(ラベルの貼った商品、というのは大量消費時代の象徴)。ニューヨークへ行くと摩天楼が次々と建造されていて、数年後にはエンパイアステートビルの上をキングコングがよじ登ったりするような時代だ。そんな時代で、いまだにカウボーイなんかをやっている男達を描いた作品だ。本作について、「西部劇」と紹介されることがあるのだが、間違ってはいないが厳密には「西部劇」とは言わない。「西部劇時代は終わっているのに、西部劇っぽいことをやっている男達」の話が正解。
 お話をよくよく見ていると、だんだん「これ、おかしいぞ」というところに行き当たってくる。「おかしい」の中心点は主人公であるフィル・バーバンクに集約される。後にわかってくるが、フィルはイエール大学卒業の教養人だ。古典専攻なので文学に通じてるし、ラテン語も流暢に話せるし、音楽の感性も持っている。しかも自宅は豪邸で、メイドもいる。それなのにマッチョを気取ってカウボーイなんかをやっている。
 牛追いをやっているあるシーンで、弟に「山に行ってアカシカ狩りをやろうぜ」なんて誘ったりしている。それを聞いて、弟は「え? えー…」という反応をする。西部開拓時代でもないのに、なんでそんなことをするんだ……という反応だ。
 弟のジョージは、兄と付き合う時は馬に乗るのだが、それ以外の時は普通に車移動。弟は新時代に馴染んでいるが、兄のフィルはいまだに一つ前の時代にしがみついている。
 どうやらカウボーイの師匠である「ブロンコ・ヘンリー」という男がいて、そのブロンコ・ヘンリーはすでに死去しているが、その彼への心酔がフィルお兄ちゃんがいまだに西部開拓時代的な生活にしがみついていることと関係していそうだ。

 それはともかくとして、牛追いをやりながら辿り着いた街・ビーチで未亡人ローズ・ゴードンとその息子ピーターと会う。フィルはローズ&ピーター親子にいやがらせをしてレストランを去って行く。
 しかしそんな横暴な振る舞いに、ジョージはローズのことが気になってレストランに残るのだった……。

 続きのお話を見ていこう。


 弟のジョージはあれからたびたび車でビーチまで行き、未亡人のローズと会って親交を深めていった。
 そんなジョージに、兄のフィルは「あの女の狙いはへなちょこ息子の学費だぞ」と揶揄を込めて警告する。
 それにも構わずジョージはローズとの親交を深めていき、そのまま結婚。ローズとピーター母子を自分の家に招くことにした。
 ローズがバーバンク家の豪邸にやってくるが、フィルはローズを歓迎しない。ありとあらゆる嫌がらせをして、精神的に追い詰めてしまうのだった。やがてローズはバーバンク家の生活が苦痛になっていき、アルコール中毒に陥っていく……。


 ここまでが40分くらい。

 やはりフィルお兄ちゃんの行動原理がおかしい。
 映画の冒頭、お風呂に入っている弟ジョージに対して「俺は風呂なんて入らねぇ」みたいにイキがっていたが、実はこっそり体に泥を塗って湖で水浴している。裸になるシーンがいくつかあるが、すごく綺麗な裸。本当はかなり綺麗好きというか、妙に潔癖症なところがある。フィルお兄ちゃんの格好だけど、常に首までしっかりボタンを留めて、肌が見えないようにしている。まるで他人に肌を見せることを恐れているようでもある。
 弟ジョージがローズと結婚する……と報告を受けた後、馬小屋にいる雌馬に対して「この売女め!」と八つ当たりをする。
 いよいよローズがやって来て、壁の向こうで弟との情事の声が聞こえ始めると、フィルお兄ちゃんはそわそわし始めて屋敷から脱出し、ブロンコ・ヘンリーが残した馬の鞍を磨き始める。

 妙に女々しい。マッチョぶって自分から体を汚しているように見えて、その裏で実は潔癖症。極端な女性蔑視。
 ……なんか怪しい。さてはフィルお兄ちゃん……。
 映画の中間地、1時間15分ほどのところで判明することだが、フィルお兄ちゃん、実はゲイである。というのは映画の前半部分で一杯ヒントを示してくれているから、「あ、この人、ゲイだな」とわかるのだけど。
(私がもう一つ考えていたのは「童貞説」。行動が童貞っぽいんだもの。童貞かゲイかのどっちかだな……。童貞説はハズレたけど)
 どうやらカウボーイの師匠であるブロンコ・ヘンリーと性的関係を持っていたようだ。この辺りのストーリーは『ブロークバック・マウンテン』を連想させる。男同士山で野宿暮らしをしているうちに、ある日一線を越えてしまい……。描かれていないところで、そういう物語があったんじゃないか、みたいに想像する。
 後は『アメリカン・ビューティー』のようなストーリーだ。『アメリカン・ビューティー』にはマッチョ気取りで、口癖が「お前、ゲイじゃないだろうな!」のお父さんがいたが、実はその当人がゲイ。ゲイであることを悟られないよう、マッチョを気取って、「お前ゲイじゃないだろうな!」と周囲に対して予防線を貼っていた。あれと同じ心境だ。
 フィルお兄ちゃんはレストランへ入った時、少年が造花を作っているのを見て、イヤミを言って燃やしてしまう。少しでも女性的感性を感じさせるものに対する恐れがそうさせる。造花を見て、素直な感情を吐露したら、周りに気取られるかも知れない。だからマッチョを気取って、造花を燃やすという行為に出てしまう。
 自分が「マッチョでなければ…」という不安感を抱えているから、その造花を作ったのか誰なのか、敏感に察する。こういう察する能力はじつに繊細だ。
 普段からなにかとマッチョを気取るのも、ゲイであることを悟られないようにするため。実際のフィルお兄ちゃんは大学卒の教養人だし、音楽の感性も持っているし、実はそこそこ綺麗好き。実は繊細な感性を持っている。しかしそれゆえに、その感性を周りに暴かれることを恐れて、マッチョを気取る。ゲイであることを悟られぬよう、マッチョを装う。普段から肌を見せないのも、自身の内面を守ろうと努めているため……という解釈もできる。1925年という時代になって、いまだに前時代的な「西部劇」をやっているのも、男性性を誇示したいがためだ(また愛しきブロンコ・ヘンリーのためでもある)

 男性がマッチョを装う動機は2つくらいしかない。ただの「バカ」か「性的不安」を抱えているかのどちらかだ。バカが自分の力を誇示したくて……という場合はそのまんまの意味なので省略しよう。面倒なのは自分の性自認に不安を抱えていて、それで無理矢理にマッチョを装うタイプだ。
 こういうタイプは、得てして攻撃的な性格になり、自分の価値観を周りに押しつけやすい。自分が力を持っていることを誇示したがる。弱みを見せない。女性蔑視もこの意識から生じる。少しでも女性的な感性を持っていることを指摘されることを恐れる。それは「弱さ」を指摘されると同義だからだ。女性に自分が力を持っていることを誇示したくて、女性蔑視思想に陥るタイプもわりと多い。
 自分に「男性という性」に不安を抱えているタイプは、男性性を誇張したくてなにかとマッチョアピールをしたがる。攻撃的になるし、自分の価値観に閉じこもりやすい。「男性としての自分」を崩されることを極端に恐れる。こうした「男性性」に対する不安は実は普遍的なもので、大きい小さいにかかわらずいつの時代でも、ありとあらゆる男性が抱えている、ある種「根源的」といってもいいくらいの不安である。
 日本でもそういう「男性性」に不安を抱えてマッチョを演じている男は世の中に一杯いる。こういう不安は本当に国籍、年代問わず、どこにでもあるようはお話なのだろう。

やたらと「イキリ」たがる男はだいたいがコレ。自身の男性性に不安を抱えているから、隙を見せまいとやたらとイキリをやってしまう。男が競争したがる理由もこういうところから来ている。性の不安から脱することができれば、こうした男特有のイキリもなくなるが……そういうのは「理想」かも知れないが、たぶんあり得ないんだと思う。
「男」をテーマに性不安の話をしているが、実は女も似たような性不安を抱く場合がある。

 ご存じの通り、アメリカという社会はゲイに対してとことん排他的な性格を持っている。ゲイであるとわかった途端、コミュニティから排除され、仲間達に迫害される。場合によっては「リンチを受けても仕方なし」という立場に追いやられる。
 「自由の国アメリカ」というキャッチフレーズに騙されやすいが、実はアメリカは異端に対する排除は徹底する社会だ。
 どうしてアメリカ人がそのような行動を取りがちなのかというと、社会全体が常に不安を抱えているからだ。『アメリカン・ビューティー』に登場するあのお父さんみたいに、「お前、ゲイじゃないだろうな!」という不安を社会全体が抱えている。自分や周りが「ゲイ」という“異端”に陥ることを恐れている。自分にも周りにも「マッチョでなければならない」と心に言い聞かせ、みんなの合い言葉にして、その不安を裏返した社会を作り出す。
 だからコミュニティの中にゲイがいるとわかると、徹底的に排除する。攻撃する。「それ!」とばかりにみんなで中傷する。なぜそうするかというとみんな常に不安で、その不安のスケープゴートになり得る存在が現れたから。安心すると同時に、アメリカ社会はゲイを攻撃する。
 かくしてアメリカには日本的な「女性的な容姿を持った美少年的アイドル」は生まれないし、映画スターはだいたい筋肉ムキムキマッチョばかり(「男の娘」なんてものは絶対に現れない)。「憧れ」を映してそういうアイコンを生み出すのではなく、その逆で「不安」を払拭してくれる存在であるから、映画の世界にマッチョスターが求められるのだ。

 かつての時代では、ゲイ(のようなもの)は「病気」と見なされ、治療が必要とされるもので、「治療できるもの」と考えられていた。でも私は常々、逆なのではないかと考えている。ゲイを忌避し、攻撃する人達のほうこそ、実は治療が必要な心の病なのではないか……と。
 しかし、ゲイを忌避する人々のほうが常に多数派であるから、「正義」と認識されてきていた。性に対する不安、多数派から外される不安……そういう不安を抱えている人こそ、攻撃的になるのではないか。こういう時の攻撃性は「正義」ではなく「心の病」なのではないか。

 本作に登場するフィルお兄ちゃんが陥っている不安感がこれ。実は自身がゲイであるということ自体の不安。ゲイであることを周りに悟られるんじゃないかという不安。実は繊細な感性を持っていることを悟られるんじゃないかという不安……。その不安の裏返しで、埃にまみれたマッチョを演じている。
 フィルお兄ちゃんはローズのことが嫌いなのではなく、自身の中に眠っている「女性性」を感じさせるから。不安を感じるから、排除したい。そこでねちっこく苛める……という実に女々しい行動を取らせる。

 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』には第2の主人公がいる。それがローズの息子、ピーター少年だ。
 ピーターは体の線が細く、女性的な容姿を持っている。後ろ姿を見ると、女の子のように見える。手先が器用で、ありあわせのもので造花を作ったりもする。映画の前半で、新聞の切り抜きみたいなファイルを作っているが、ここでもピーター少年の感性が見て取れる。
 ピーター少年の内面的な独白はほとんどないが、映画の冒頭にこんなモノローグが挿入されている。
「父が死んだ時、僕は母の幸せだけを願った。僕が母を守らなければ、誰が守る?」
 これがピーター少年が「何を考えているのか?」「どうしたいのか?」という問いの答え。ピーター少年は何より母親が大事で、母親を守るためにはなんだってする。父が死んだことにより、そういう決意を持った少年だ。熱心に造花を作っていたのも、母親を喜ばせたい、という心理から来ている。
 その一方で、実は「冷酷」とも読める側面を持っている。父親から生前「お前は冷酷だ」と実際に言われたことがあるそうだ。その父を、自分で解剖したこと。あるシーンで野ウサギを捕まえるシーンがあるのだが、その野ウサギを愛でて楽しんだ後、殺して解剖している。造花を作っていたのも、母親を喜ばせるための演技だった……という読み方もできる。
(実は花には興味はないが、母親を喜ばせるため……かも知れない。別のシーンで花を摘んでポケットに入れるシーンなんかがあるから、まったく興味がないわけではなさそうだが)
 女性的な見た目と繊細な感性とは裏腹に、実は冷酷な側面も持っている。ピーター少年はそういう人間として造形されている。
 ピーターがバーバンク家を訪ねた時、ピーターは丘にできる影に「狼」の姿が映ることに気付いている。これはピーターが鋭い感性を持っていることを示すところだが、この「狼の影」はフィルお兄ちゃんが周りの仲間達に隠していたものだった。周りの仲間達は丘を見ても「狼の影」には気付かない。これはどういうことかというと、フィルお兄ちゃんの内面に周りの男達が気付いていない……という意味。しかしピーターは丘に移る影に気付く。つまり、ピーターはフィルの内面的な秘密に気付く……という意味だ。
 ピーターは鋭い感性で、いつかフィルお兄ちゃんが隠している秘密に行き当たる。冷酷な性分と、母親を守るためなら何だってする……という行動動機が、ピーターを最終的にある行動に向かわせていく。

 この映画がなぜアメリカで絶大な評価を得たのか。アメリカは文化の中心が「映画」だから、その映画で誰もが持っている、普遍的な「不安感」の正体を言い当てたから。日本の場合だと、これが「漫画」になるのだけど、自国を代表する文化の中で、自分たちの精神性を言い当てている作品は評価されやすい。
 すでに書いたように、アメリカはゲイに対して、猛烈な不安感と差別意識を潜在的に持っている。アメリカ人はなぜそうするのか? ……を『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は精神的な「物語」という形できっちり表現している。アメリカ人なら誰もが内面的に抱えていることなので、この映画と向き合うと、一瞬「うっ」と落ち着かなくなる。指摘を受けているわけだから、見ているほうがむしろえぐられるような感覚に陥る。そのえぐられるような気持ちを、物語の最後で解消する……という構造を持っている。だから『パワー・オブ・ザ・ドッグ』はアメリカで絶大な評価を得ている。
 その「アメリカ人の内面」を言い当てたというのが、オーストラリア出身の女性。『アメリカン・ビューティー』はイギリス人だ。外国人だからこそ、あるいは女性だからこそ男性達が抱えている不安を指摘できた……とも言える。  「物語」は人の心情に寄り添う、という効果がある。もしも『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のようなお話を、「論文」のような形で表現しても、それは「頭」では理解できるが、「心」では納得できない。なぜ物語の形で表現し、語る意味があるのかというと、「頭」ではなく、まず先に「心」で納得しないとそれは「わかった」とは言わないから。「頭」で理解できることと「心」で理解できるものの間には、そこそこの隔たりが存在している。
 それに、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は「お前らの内面はこんなんだぞ」と言っているようなものなので、論文みたいな形で示されると「なんだよ!」と言い返したくなる。『パワー・オブ・ザ・ドッグ』は実際にはかなり「言われて嫌なこと」を指摘している。こんなふうに向き合えるのは「物語」という形になっているから。  そうした、誰もがギョッとするような精神を的確に描写しているからこそ、この作品は評価される。「物語」だからこそ、人の心情に寄り添える。多くの人が「ああそうだ」と感じたからこその評価だ。

 日本人から見ると、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』という作品は時代背景もわかりづらいし(1925年なのに西部劇?ってなる)、登場人物の内面は推し量りにくいところはある。日本にもアメリカ的マッチョイズム文化というのがあるけれど、それすら普遍的ではなく、女性的な男性アイドルは昔からいたし、「女性より艶やかな」男性を描いたアニメ作品が昔から山ほどある。遡ると、江戸時代にもすでに「陰間」という現代で言うところの「男の娘」がいたし、さらに遡ると戦国時代でも男性同士の恋愛はかなり多かった。意外に日本は「ゲイ容認文化」があった(戦争を挟んで断切はあったが)。文化観が違うから、『パワー・オブ・ザ・ドッグ』のような作品を見ると、少しわかりづらいと感じる部分はあるだろう。
 だがこういった作品が読めるようになると、外国の文化、そこから進んでその内面的なところまで理解できるようになる。外国人という立場からは、そんなことを考えながら、この作品と向き合うといいだろう。


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