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映画感想 バビロン

 映画の世界の住人になること、それは「夢の住人」になるということ。

 映画『バビロン』は2022年のアメリカ映画。監督・脚本はデイミアン・チャゼル。デイミアン・チャゼルは2014年『セッション』で注目を浴び、『ラ・ラ・ランド』が世界的大ヒットとなり、アカデミー監督賞受賞。2018年『ファースト・マン』では人類史上初めて月面着陸を成功させたニール・アームストロングを描いた。その次作として制作されたのが本作『バビロン』。映画の黎明期、モノクロのサイレント映画が、音声付き映画「トーキー」に移り変わろうとした端境期を描く。
 本作には一応、原作らしきものがあり、それが『ハリウッド・バビロン』という本。ただしこの本は1959年に出版されたゴシップ本。当時のゴシップをそのまま映像化したというわけではないし、この本に書かれていることの大半は真偽不明。例えばとある女優が大学のフットボールチームをパーティに招待し、その全員をベッドに並べて順番にセックスした……なんて逸話が書かれているが、これも「事実ではない」と関係者が訴訟を起こしている。ちなみにこのエピソードは本作『バビロン』のなかでも描かれている。
 デイミアン・チャゼル監督も『ハリウッド・バビロン』に描かれてる話が事実だとは思ってないが、ただ1920年代の映画界が現代とはまるで違った社会観であったこと、その内と外ではまるっきり違う道徳律の世界だった……というところが採用されている。タイトルの『バビロン』はただれた快楽を謳歌していた時代観を象徴するものとして採用されたのだろう。
 本作の世界興行収入は6337万ドル。制作費8000万ドルすら回収できず赤字。映画批評集積サイトRotten tomatoでは批評家によるレビューが359件あり、肯定評価57%。オーディエンススコア52%とかなり低評価。『バビロン』は批評家筋でもかなり評判が悪い。しかし一方でいろんな映画賞にはノミネートされている……という事実はある(ただしほとんど受賞なし)。
 この件については個人的に言いたいことがあるので、映画感想文後半で触れよう。


前半あらすじ


 ではとりあえず、前半のストーリーを見ていこう。

 1926年のカリフォルニア州。熱い砂漠の中を、マニー・トレスが車を走らせていた。荷台に積み込んでいるのは“象”。これからドン・ワラックの屋敷に向かい、象を披露することになっていた。
 やがて屋敷へと到着する。砂漠の中の、ぽつんと立っている一軒家。しかし中に入ると、すでに乱痴気騒ぎが始まっていた。みんなどこかで見たことのある映画スター達だ。無名俳優もいるし、世界的スターがいる。そんな人達が半裸になって酒とドラッグをあおり、大騒ぎをしていた。
 そこに、一人の女が現れる。ネリー・ラロイだ。しかし警備員は「招待リストにない」とネリーを追い払おうとした。
 ネリーと警備員が言い合っていたところに、マニーが「ネリー・ラロイ? みんな待ってるよ」と声を掛ける。追い返すのも可愛そうだから、招待客に入れてしまおう……ということだった。
 マニーとネリーは屋敷の中に入り、ドラッグを吸いながら、お互いの夢を語る。映画に関わりたい。その後にずっと残る仕事をしたい。ネリーも女優になりたい夢を持っていて、二人は意気投合するのだった。
 二人は広場で乱痴気騒ぎする一同の中に入っていく。踊り狂うネリーの姿を、マニーは見蕩れる。
 すると男がマニーの肩を叩き「探してたんだぞ!」と連れていく。2階のとある部屋に連れて行かれると、そこに女の死体が転がっていた。酒とドラッグを楽しんでいたら、いきなり意識不明になり、死んでしまったのだ。この死体を運び出さなければ……しかし1階はたくさんの俳優達がいるし、ゴシップ記者もいる。あの中をこっそり通り抜けるなんてできない。
 ……象を使おう。屋敷に象が入ってくれば、みんな象のことを見るはず。
 よし、象だ。……となったが、もう一つ問題があった。死んだ女は明日撮影の映画に出演するはずだった。明日の撮影をどうしようか……?
 男達はパーティで大騒ぎをする人々を見下ろした。その中の一人を指さす。
「あの女。誰か知らんが、明日の撮影に使え」
 と指さしたのはネリー・ラロイだった。

 やがて朝日が昇りかけて、宴も終わりの時間になる。マニーは映画スターのジャック・コンラッドを車に乗せて帰宅する。
 帰宅したコンラッドはまだ酒に酔った様子で「映画はもっと変わるべきだ!」と夢を語り、一通り語り終えたところでベッドに入り、眠るのだった。
 ベッドに入ったコンラッドはマニー・トレスに「君が気に入った。セットでも側にいてくれ」と頼むのだった。

前半 解説


 前半あらすじはここまで。
 ここまでのお話しで31分。ようやくタイトルが出てくる。ここの構成でわかるように、映画『バビロン』はお話の展開が30分刻みで進行する。全体が3時間もある構成なので、1つ1つのパートが長めに作られている。

 さて本作『バビロン』だが、ちょっと読み解くのが難しい作品なので、ここからはネタバレありでストーリーの解説をしていく。

 はい、映画は始まって1カット目。メーカーロゴだけど、パラマウントの1920年代バージョンロゴ。この映画の時代に合わせている。なかなか洒落ている。

 こちらが主人公マニー・トレス。本名はマニエル。メキシコ人移民で、映画に夢を抱いて業界に飛び込もうとする。しかしメキシコ人だから、いつもどこか一歩引いた視点で見ている……という感じになっている。そういう立場だから、この時代の映画業界をいつも一歩引いた視点で見ている存在……というポジションになっている。
 冒頭のシーンは映画会社の重役ドン・ワラックの屋敷に象を運ぼうとしている。同席している相棒の動物使いはその象のクソまみれになる。華々しい業界の裏側では、こういう裏方がクソまみれになって奉仕している……というところを見せている。
 こんな象のクソまみれシーンのあと、屋敷の乱痴気騒ぎのシーンに入るが、その最初が女優の放尿から始まる。同じクソでも……という対比を見せている。

 さあドン・ワラックのお屋敷にやってきました。中に入ると、ジャズ、ダンス、ドラッグの乱痴気騒ぎ。1920年代映画業界の歪んだ繁栄を描いている。まさに「バビロン」。
 このシーンの画像を載せるのにはちょっと気を遣う必要がある。というのも、ほとんどのシーンでオッパイ見せているだけではなく、“下の毛”が見えちゃっているところも結構ある(ネリーの股間が透けて見える……ように見える場面もちょっとあるし)。どうやら最初の劇場公開版では“それ以上のもの”も見えちゃっていたらしく、ちょっと問題になって、それから“修正されたバージョン”が作られた。現在DVDや配信で出ているものは修正されているバージョンの方だ。いったい何が見えちゃっていたのやら……。興味深い。
 この画面は……たぶん大丈夫。オッパイはだけている人もいると思うが、小さくて見えないはず。パーティのシーンはいくつかキャプションしたけれども、“いろいろ”映っちゃってて使えないカットばかりで……。

 『バビロン』は群像劇。最初のシーンで主人公達が一堂に会する。その一人、ネリー・ラロイ。「私は女優よ」と言い張るが、映画出演は1本もなし。それどころか映画会社と契約すらしていない。映画俳優や重役が集まるパーティに紛れ込んで、仕事を得よう……としていた。
 当然、警備に追い出されそうになるが、そこを助けたのがマニー・トレス。

 屋敷の中に入ったマニーとネリー。とある部屋に入ると、モルヒネ、アヘン、エーテル、ヘロイン、コカイン……それぞれが山積みになっている。
 そのコカイン、ヘロイン、アヘンをテーブルの上に並べて、順番に吸いながらお互いの夢を語る2人……。
 マニーは話しているうちに夢中になっていく。映画の世界に入りたい。映画に憧れ以上の夢を抱いていた。

マニー「どこでも行ける! 西部劇の世界に行ける。宇宙にだって行ける。それに、ギャングにもなれる。映画で人は踊ったり死んだりするよね。でも本当は死んでない。すごいことだよ!例えば、殺してみて!」
ネリー「バーン!」
マニー「うわっ! ……これ、現実には何も起きてない。でも同時に、ここには命より大事なことがあるんだ。心に響く。例えば、映画を観ると悲しくなったり、胸が張り裂けそうになったりする」

 映画の世界に起きていることはすべて嘘。しかし本当のこと以上に大事なことが語られているような気がする。それこそ“映画の夢”。その夢の中に入っていきたい――それがマニーの夢だった。
 という話を、ドラッグを吸いながら語っている。ある意味で正しく“夢を見ている”といえる場面。

 さあ、もう一人の主人公も登場。レディ・フェイ・ジュー。パーティの中で異様な存在感を放つ彼女だけど、しかし女優ではなく、「字幕担当」スタッフ。
 「役をもらえず、字幕ばかり書いている」……という台詞があるから、もしかするとチャイニーズだから役者になれなかったのかな……?

 画面が暗くてわかりづらいが、車の外に立っているのがブラット・ピット演じる映画スター、ジャック・コンラッド。車の中にいるのがその友人でプロデューサーであるジョージ・マン。
 ジョージ・マンは出てくるときはいつも女の子に振られて、「死にたい」というくらいに落ち込んでいる。それをジャック・コンラッドが慰めている……という場面が何度も繰り返される。
 これ、なんなのかというと、ジャック・コンラッドとジョージ・マンが2人で1つの存在であることを示している。
 まず最初のシーンだけど、ジャック・コンラッドはブチ切れた妻から「離婚よ!」と言い渡されていた。しかしジャック・コンラッドは気にもしない。一方、ジョージ・マンは女の子に振られて「死にたい」というくらいに落ち込んでいた。
 この二人はいつも似たような状況に行き当たっている。ジャック・コンラッドの別の面を、ジョージ・マンという人物を通じて描いている。二人はコインの裏表のような関係性になっている。そこを理解して見ると、ジョージ・マンという人物の重要度もわかってくる。なぜならこの2人“終わり方”も一緒なのだから。

 レディ・フェイのショーの後、ジャック・コンラッドと語り合う。
 この場面についてだけど……あとでもう一度この場面について触れるので、頭の片隅で覚えておいてほしい。
 話している内容は、落ち込んでいるジョージに自信を付けさせてやってくれ……と他愛のない内容。

 さあ、ふたたび広間の乱痴気騒ぎ。カメラの手前側から人が消えて、舞台劇のような画面構成になっている。その中を、ネリーが踊る。
 ……この場面も、オッパイとかあまりにもモッコリしすぎるパンツを履いている男性とかが映っているので、掲載する画像に困る。この画像は大丈夫なはず……。

 そのネリーを見ているマニー。
 このカットは何なのか? 一つには「一目惚れをした瞬間」が描かれているのだが……。実はもう一つ意味が隠れている。後で説明するので、覚えておいてほしい。

 さあ酒やドラッグで乱痴気騒ぎをやっていると、女優の1人が過剰摂取で死んでしまった。その代理で、「誰だか知らんが、あの女を出演させろ」ということで出演が決まるネリー。ついに映画出演の夢が叶った! と有頂天になるネリー。

 一方、マニーは映画スターのジャック・コンラッドが酔い潰れてしまったので、車に乗せて彼の家まで。そこでジャックの演説が始まる。

「そう、映画の再定義だ。スタンドの給油係はなぜ映画に行く? なぜ? 理由は? 孤独を忘れるためだ。なのに古くさいものを見せていていいのか。ヨーロッパを見ろ! 頑張ってる。12音技法やバウハウス建築! 実にモダン! だろ。ところが俺たちは、いまだに時代物! 恐竜どものせいだ。ビバリーヒルズにいながら頭は化石時代。昔はよかったと過ぎた日々を、懐かしがるのに手一杯でやるべきことが見えてない! 変革が必要だ。刺激が必要だ。肉体の限界を超えて、デカい夢を見なきゃならん。その夢をセルロイドに描き、歴史として焼き付ける。そして今日には無理でも明日には、さみしがっていた男は銀幕に映し出される世界に目を見張り、初めて口にする! そうか! 俺は一人じゃないんだ!」

 映画は変わらなくちゃダメだ! みんな映画館へ行く。みんな映画を楽しみにしている。ガソリンスタンドの無教養の兄ちゃんだって映画を見に行く。
 なのに映画はこのままでいいのか? 映画はもっと新しく、刺激的ではなくてはならない! ヨーロッパを見ろ。ヨーロッパの文化には教養と格式がある。映画だってそうならなくちゃいけない。映画こそがアメリカの文化であり、世界に誇れるものなんだ!
 ……と、ジャック・コンラッドは語りながら、酔っ払っているせいでもあるのだけど、バルコニーから転落してしまう。
 新しくなるべきだ! と言いながらバルコニーから転落する……これから起きるであろうできごとを暗示しているようだ。

 そんなやりとりがあって、ようやく映画のタイトルが出てくる。映画のタイトルが出てくるまで31分。タイトルが出てくるまでこんなに長い映画はいつぶりくらいだろうか……。

 さあ、ネリーさんがようやく映画撮影所にやってきました。本日が撮影初日……ってこの風景、本当? サイレント時代の映画って、こんなところで撮ってたの?

 映画撮影所の中を、カメラが進んで行く。絵巻物ふうの場面で、色んな場面が次々に描かれていく。
 さすがにサイレント時代の映画撮影がどんなだったか……なんてわからない。どこまで本当なのだろう。ある映画を撮影している数メートル横で別の映画が撮影されている。しかも気分を盛り上げるためにミュージシャンたちが生演奏している。当時の映画は音が乗らないから……とはいえ、こんな環境で集中できるのだろうか。

 映画の現場を映しているある場面……って、おい! 雪のシーンで、それっぽい「白い粉」をまいているのだけど、まいているものがアスベスト。当時はこんな危ないものも使っていたんだな……。

 カメラが映画撮影をやっている中をノーカットで進んで行き、その最後にロングショットになる。この画面になるまで5つくらいの撮影現場を通り抜けてきたけれど、ロングショットになると実はこの程度の空間。こんな狭い空間で何本もの映画が同時に撮影されていた。
 本当にこんな様子だったのだろうか……?

 初めての撮影現場を、茫然と見ているネリー。初めての映画撮影を見て茫然としている……という場面だけど、実はもう一つのニュアンスが隠れている。その解説はもうちょっと後でしよう。

 一方、ジャック・コンラッドは……。ジャック・コンラッドはローマ帝国時代の映画を撮影している。しかしこっちも色んな意味で無茶苦茶。歩兵が突っ込んでいく中に中途半端に騎兵が混じっているし、その背景で火薬がドーン! ドーン! ……この時代にまだ火薬はなかったはず。撮影しているすぐ横で、盛り上げるためにオーケストラ演奏をやっている。
 この時代はろくに安全確保もしないで撮影しているから、撮影やっている間に怪我人続出。怪我人が出たらすぐに舞台裏に担ぎ込まれて治療。治療をやっている間にも撮影は続く。しまいには死人まで出てしまうが、それでも気にせず撮影は続く。
 すべてにおいて滅茶苦茶。サイレント映画時代って、本当にこんなんだったの?

 ところでなんでローマ帝国時代の映画を撮っているのか……というとアメリカは歴史が浅いから、「かつてあった巨大帝国」みたいな歴史に対する憧れが強烈なんだって。映画産業はまだ若い文化だったけれど、そのトップにいるのがお爺ちゃん達で、そのお爺ちゃん達が好きでコンプレックスを感じている対象がローマ帝国という歴史観。ある意味で“ハリウッド的”といえる題材だから、ローマ帝国時代の映画がこのシーンで選ばれたのだろう。

 いろいろあったけど、撮影終了!
 この時のたった1日の撮影で、ネリー・ラロイはスター女優への道を掴み取る。

 それからしばらくして――1927年。この年、「音声付き映画」である「トーキー」が発明される。
 という話を、トイレで交わされる。
「本当に音が必要だと思うか?」
 という台詞の後、派手にクソの音。最初のシーンからクソまみれだったから、もはや気にならない。「音声付きになったら、クソの音も聞けますけど、それでも良い?」って意味かな。
 とにかくも当時の人は、「映画に音が付くぞ!」と聞かされても「音って必要?」みたいな感覚だった。

 誰も音声付き映画なんて見たことがない……そこでマニーは「トーキーを観に行ってこい」と指令を受ける。
 その最中、ニューヨークでネリーと偶然にも会う。すでにネリーはスター女優の道を歩んでいて、通りに出たら人々に取り囲まれるくらいに人気があった。ネリーはマニーを車に乗せて、ある場所へ行く。
 そのある場所……というのが精神病院。ネリーの母親は精神病院に入院していた。
 ……というこの場面。見るからにCG。この監督にしては、やけに下手なシーン構成だな……。(追加撮影だったのかな?)
 CGかどうかはさておき、精神病院へ入る前、ネリーはやたらと派手なネックレスをわざわざ外している。それから母親に会いに行くが、視線はずっと下。
 実はこれが“素”の状態のネリー。普段から「派手な女」という印象のネリーだけど、あれはすべて演技。この瞬間のネリーが本当。
 このシーンの後の台詞。

ネリー「嫌いなの。アイスクリームのトッピングって。飾りはいいものをダメにする」

 車の中で、とつとつと語り始めるネリー。
 実は猛烈なコンプレックスがあって、普段の派手な振る舞いは、その裏返し。あまりにもコンプレックスが強いから、誰にも“本当の自分”を悟られたくない。強くて派手で、注目されている私でいたい。そのように評価されたい……。そうしたなかで、次第に「本当の自分」を見失っていく……。
 このシーンの最後、ネリーはわざわざ外していたネックレスを身につけ、サングラスをかけた上で車から出る。派手な飾り物はネリーにとっての“心の鎧”。それがないと人前に出られないのだろう。
 マニーは図らずも、ネリーの「本当の姿」を見てしまうのだった……。

 さあ、マニーはようやく音声付き映画《トーキー》の上映劇場に入っていく。すると俳優が歌い出すと劇場中の客が立ち上がり、一緒に歌い始める。その様子を見て、マニーは茫然とする。そして劇場を飛び出して行き、電話ボックスに入って「映画が変わるぞ! トーキーだ!」と叫ぶのだった。

 ここまででBパート。だいたい1時間10分くらい。


 Cパート、というわけでトーキー映画の撮影が始まる。
 しかし……この時代、マイクの質がよくなかったから、俳優は指定された場所に立って台詞を喋らないといけなかった。サイレント映画時代は俳優による“即興”の部分が多く、その俳優の即興に合わせてカメラが追いかけていく……という感じだったが、トーキー時代に入るとマイクなどの環境的事情に合わせて演技をしなくてはならなくなった。
 すると俳優の芝居が萎縮してしまう。見るからに“退屈な芝居”になっている(ということは“退屈に見える芝居”を演技で表現しているってことだけど)。
 次第に「良いシーンを撮ること」が目標ではなく、「その場面を撮りきること」が目標になっていく。そんな映画が面白いわけもなく……。
(ちなみに最後のテイク、よく見るとNGを出している。ネリーは電話の送話口を持って喋らないといけないのだが、それを忘れている。あれじゃ電話の相手に声が届かない。もう「撮れればなんでもいい」という状態になっていることを表現している)

 描写はわかりやすいくらいに極端に描かれている。サイレント映画時代は極端に派手に、トーキー映画時代は極端に地味で退屈……という描き方をやっている。ここまで極端にやると漫画だなぁ……という気がしたけれど、この映画らしいという感じもするし、これくらいに極端に演出しないと伝わらないんだよなぁ。
 ただ、この映画はすべてにおいて極端に描いているので、描かれている光景のすべてを鵜呑みにするわけには行かない。「誇張」は一杯あるだろう。「この時代、そういうところもあった」……くらいに思って見るべきだろう。

 トーキー映画の撮影を1つ終えて、またパーティ。このシーンの最初に「サウンド万歳」という言葉が出てくる。トーキー時代に入って、苦労する人、大成功する人……このあたりで道が分かれてくる。
 上に掲げた場面では、ガタイのいい半裸の男達が出てくる。これが昔のゴシップ誌に書かれていたという、「大学のフットボールチームを招待して、まとめてセックスした」……という伝説に基づいて描かれた場面。本当かどうかはわからない。

 そのパーティの最中、トイレに入ったところでネリーは聞いてしまう。

「ネリー・ラロイ? 立ち位置に立てず、予算が倍だ。しかも声が瀕死の豚。ワラックは契約を破棄する気らしい。だろうな。才能もない。薄汚いアバズレ。酷い声のゲス女だ」

 声がダメ。それだけの理由でネリー・ラロイの人気はダダ下がりだった。これがトーキー時代に入って起きたこと。「声が思ってたのと違う……」。サイレント映画の頃は、画面に映る美男美女を見て、みんな心の中で「きっと美声に違いない」と思っていた。ところが音声付き映画を観ると、ぜんぜんそうじゃなくて幻滅……。
(当時はマイクの質が悪くて……というのもあった)
 日本では昔、アニメの声優ってあまり顔を出さなかったんだよね。というのも、みんな声だけ聞いて、「きっとすごい美男に違いない」「美女に違いない」って想像を膨らませるけれど、実はそうじゃない……という自覚が業界的にあったから。「夢を壊すといけないから」と顔出ししない人は一杯いた。有名声優だけど、顔は知られてない……という人は一杯いた。アニメのキャラクターは虚構の存在だから、自分が顔を出すわけには行かない……という考えもあったけど。
 まあそれが、最近の声優は本当にそこそこイケメン、そこそこ美女が一杯……という業界に変わったから。時代も変わったもんだなぁ。

 トイレでみんなの陰口を聞いてしまったネリー・ラロイは、唐突に「私のパパがヘビと戦うのを見たい!?」とみんなに呼びかけるのだった。
 なぜネリーがこんな行動を取ったのか……まず第1にみんなからの注目をどうしても集めたいから。関心を繋ぎ止めないと、忘れられてしまう……という不安感があった。
 第2の理由が、その陰に隠れた願望が「父親に対する憎しみ」。ネリーは潜在的に父を憎んでいたわけだ。母親が精神病院に入って自我崩壊しているのに、父親は気にせず映画業界に入って女優をナンパしている。それどころか女優として成功した娘に、寄生して生きている。ネリーが破滅的な性格になった一端は父親の影響でもあった。
 みんなの注目を浴びたい。と同時に、父親を死なせてしまいたい……。歪んだ願望と目論見がない交ぜになっている場面だ。

 さあ荒野にやってまいりました。目の前にはガラガラヘビ。ネリーの父親がガラガラヘビへと挑む……。

 しかしガラガラヘビはネリーの首に噛みつき、場は騒然……。
 そんな様子を、ジャック・コンラッドはうっすら微笑みを浮かべながら見ているのだった。背景には穏やかな音楽が流れ(対位法)、人々の動きがスローモーションになる。
 これはなんなのか?
 ジャック・コンラッドにとって、この状況の“狂騒”自体が映画だった。前半シーンでコンラッドは映画の撮影現場について、「世界で最も魔法に満ちた場所だ」と表現している。コンラッドにとって映画とは、「カメラに映ったもの」は当然として、その背後にある狂騒も映画だった。常にハイテンションで、撮影中の事故で人々が怪我をして、場合によっては死人も出る……そういう状況を含めてすべてが映画だ……というのがコンラッドの認識だった。非現実的状況こそが映画。コンラッドはいま「映画の中にいる」という気持ちになっているし、自分が映画の当事者という気分になっている。

 そこで前半シーンのこの視線の意味もわかってくる。この場面でマニーはネリーに一目惚れするわけだが、その理由はネリーの存在に「映画」を感じたから。この時代の映画人にとって、この屋敷の中で繰り広げられる乱痴気騒ぎそのものが「映画」だった。映画的空間であり、映画的瞬間だった。ネリーはあっという間にそんな「映画的空間」の一人となっていたばかりか、その只中で輝く存在になっていた。
 ああ、憧れている映画の世界だ……。マニーが魅了したのは、ネリーという存在の中にある「映画的なもの」だった。マニーは映画に憧れを抱いているから、ここで一目惚れをした。
 しかしマニーはネリーに対して一目惚れするけど、これ以降アプローチらしいことはまったくしない。仕事で忙しかったから……というのもあるけど、あえて触れずにおいたのは、ネリーがあくまでも「映画の向こうの存在」だったから。「踊り子に手を触れてはいけませんよ」的なものではなく、自分は現実世界、彼女は夢幻の世界の住人……くらいの意識があったのだろう。ネリーを映画的存在に置いておくためには、むしろ触れない方がいい。

 もう一つの場面。ネリーにも同じような目線のアップショットがあった。初めて映画の撮影現場を見て茫然としている瞬間。映画とは、「カメラに映ったもの」が映画ではなく、現場で起きている状況そのものが映画なのだ、と。この場面ではネリーは表情を作っていないから、どう感じたか読みづらいが、ニュアンス的にはネリーのまなざし、コンラッドのまなざしと同じものだろう。

 しかしこの場面を最後に、この映画が語る「映画的なもの」が喪われていく……。映画的な狂騒が描かれたのはこの場面が最後。「かつてあった古き良き時代」の残滓のようなものがこのシーン。
 というシーンが全体の1時間30分といったところ。3時間の映画でちょうど中間地点となっている。ここを起点に、この映画のトーンはいっきに変わっていく。

解説 後半


 中間地点を越えて、また映画撮影のシーン。この場面は、実在する映画のワンシーンらしいんだけど……。ジャック・コンラッドはすでに以前のような大作映画の主役を任される……という状況になかった。「これ面白いの??」というなんだかわからない映画に出演することになる。

 いくつかのシーンを飛ばして、この映画の中でもっとも退屈なシーン。映画業界の内部は急速にホワイト化が進んでいた。以前のネリー・ラロイは“奔放さ”で受けていたのだけど、たった1年で飽きられ、「モラル重視」の時代感覚に合わせて淑女になるよう教育を受けていたのだった。
 こう変化したのは、映画の業界が“出世や成功を夢見る若者やならず者の集まり”という状態から、普遍的なセレブ階級の世界に引き上げられたから。ある意味、以前よりもより大きな社会に認められてきた証……でもある。
 しかしセレブ階級の社交界というのはとにかくも退屈。一見するとお上品に振る舞って囁くように喋っているけど、やっていることは腹の探り合い、ゆるやかなマウントの掛け合い……。セレブ階級に夢見ている人は多かろうと思うけど、実際にはかなりえげつない世界でもある。そういうセレブ階級の本質をばっちり描いている。
 このシーンが退屈に見えるのは、退屈に見えるように演出しているから。退屈に見えなければ失敗。登場人物達が退屈に感じている……という気分をしっかりと表現しているので、見事なくらい退屈なシーンになっている。

 そのセレブパーティに出席していたジャック・コンラッドは会う人会う人に「元気出せよ」と言われる。しかしなんのことか、誰も話してくれない。「いったい何の話だよ!」とコンラッドは苛立つ。
 コンラッドは夫婦仲を立て直すために旅行に出ていたために知らなかった。コンラッド主演の最新作が失笑されていたことを……。その様子を見て、コンラッドは愕然とする……。

 さて次のシーン。シークバーを見ると、ちょうど「2時間」となっている。テロップで「8:00」と出ているが、このシーン設計にどんな意味があるのか?
 実はこの映画、中間地点1時間30分を境目に、前半と後半似たようなシーンを意図的に描いている。試しに1時間半を中間地点にシークバーを戻してみるとどのシーンに当てはまるのか?

 このシーンの最後の方に引っ掛かるように作られている。
 といっても『TENET』のように綺麗な鏡構造に作られているというわけではないので、かっちり当てはまるようには作られていない。しかし1時間半を中間地点にして、前半と後半、似たようなシーンを描いて物語が萎んでいく……という構造になっている。その辺りを意識して見ると、後半のシーン一つ一つの狙いが見えてくる。

 このシーンもいろいろ事件は起きるのだけど、それはさておき、気になったのはこのシーン。ゴシップ記者とコンラッドが語り合うこの場面……。
 あれ? コンラッドを撮っているほうのカメラ、ピンボケしてない??

 一方のゴシップ記者はしっかりとピントが合っている。どうしてこんな演出をしているのか?
 対話が進んでくると、次第に意図が見えてくる。

ゴシップ記者「スターは概念なのよ。ジャック・コンラッドは100人でも現れる。私のような人間も無数に。このような会話も何百回となく繰り返される。抗えないのよ。わかるわ。つらいわよね。忘れられていくのは。でも100年後、私たちは消えても、誰かがあなたの映画を映写機に掛ければ、あなたは蘇る。その意味がわかる? 今年撮られた映画のすべての者はいつか死ぬ。でもそれらの映画はいつか倉庫から出され、“亡霊”たちは豪華な晩餐や密林の冒険や戦争を繰り広げる。50年後に生まれる子供は、銀幕に映るあなたの姿を見て、友人のように感じるのよ。その子が生まれる前に死んだのに。与えられた幸運に感謝なさい。現世での時は過ぎても、天使や亡霊達として永遠を生きられるのよ」

 つまり、コンラッドはもう現世に生きていない。ここにいるけど、ここにいない。つまり“過去の人”になっている。時代に相応しくない男。
 いつかコンラッドが出演したフィルムを誰かが見るかも知れない。その時だけ蘇る、過去の亡霊……コンラッドはすでにそういう人間になっている。コンラッドはフィルムの中だけの人間だから、この場面のコンラッドはややピンボケして写されている。
 なぜコンラッドの演技は失笑されたのか? 喋りの芝居が下手だったからか? 違う。時代遅れなのだ。時代が変わると、過去のものはギャグにしか見えなくなる。それが“時代認識の変化”というやつだ。時代の変化が来ると、その前の時代に「かっこいい!」ともてはやされた表現がまるごとギャグになる。パロディのネタ扱いになる。映画がサイレントからトーキーになって、ものすごい勢いでそういう時代の変化が来てしまった。コンラッドはどうあがいても“過去の人”。何をやってもパロディにしか見えない。コンラッドの時代は終わったのだ。

 とうとうコンラッドにやってくる出演依頼は誰も出たがらない三流映画の脇役だけになってしまった。
 その撮影の最中、コンラッドはカメラの向こう側を振り向く。たくさんの人がいるけれど、撮影をまったく見ていない人、お喋りに夢中な人、あくびをしながら見ている人……。なんだか「映画を撮影しているぞ!」という熱気がまったく感じられない。
(この“眼差し”は映画の中間地点で、ネリーがヘビに噛まれている場面を見ているコンラッドの眼差しと対比になっている)
 実は現代の大作映画の撮影もこんな様子。人が一杯いて、その中心のスタッフは忙しそうにしているが、それ以外のなんとなくいる人や、見学に来ているプロデューサーという人は、特に撮影を見るというわけではなく、お喋りに夢中になっていたりする。サイレントからトーキーに変わって、なにかが変わってしまった。「魂」のようなものが抜けてしまった。

「すごいぞ。世界で最も魔法に満ちた場所だ」

 かつてコンラッドはマニーに映画の撮影所についてこう語った。映画はカメラの中だけで作られているのではなく、撮影所そのものがすべて魔法だった。撮影所そのものが映画だった。だから当たり前のようにドラッグがそこら中にあるし、撮影中に人が死んだり、セックスしたりする人もいる。そういう狂騒がみんな“映画”だった。
 その映画的なものが、もうここにはない……。コンラッドが「映画的だ」と信じていたものがない。コンラッドはそのことに気付くのだった。

 一方、ネリー・ラロイとマニー・トレスはどうなったのだろうか。いよいよ女優としての仕事がなくなったネリーは、ギャンブル依存に。そこで大量の借金を作ってしまう。それでマニーに救いを求めてきたので、仕方なく“金を作って”ギャングのボスに会いに行く。
 そのギャングのボスはトビー・マグワイア。スパイダーマンだ! 本作の製作総指揮でもある。風貌があまりにも違っていたので、気付かなかった。

 ネリーはギャングのボスに誘われて、地獄の底のようなパーティに連れて行かれる(画面が暗くて何が描かれているのかほとんどわからないけど。……わかっちゃダメなんだけどね)。この作品は1時間半を中間地点にして前半と後半、同じシーンが描かれているから、このシーンは前半シーンの乱痴気騒ぎに対応して描かれている。
 かつて映画業界の中で営まれていた乱痴気騒ぎ……しかし映画業界が浄化してしまったために、乱痴気騒ぎはギャング達が取り仕切るものに変わっていた……という感じかな。シーンは真っ暗闇の地下に入っていく……という始まり方なので、本当に“地獄”っぽく描かれている。

 地獄そのもののようなパーティから脱出して、マニーはネリーを連れてメキシコへ逃げ出そうとする。その最中――ネリーは近くでやっている知らない人の結婚式パーティのようなところに飛び込んでいく。
 そのネリーを見ているマニーの眼差し。

 最初のこのシーンと対応している(表情がまったく一緒でしょ)。
 この時、マニーは何を想ったのか――それは「確かにそこに“映画”が存在している」……ということだった。映画の業界はあっという間に浄化し、綺麗で穏やかなものになっていた。かつてのような狂騒はもうどこにもなくなっていた。それは時代の要請だから、そういうものだ……とマニーは思っていただろう。しかし踊っているネリーの姿を見て、ハッと「映画だ!」という感動を思い出す。
 しかしそこはかつてのように大スターたちが乱痴気騒ぎするパーティ会場ではなく、どこの誰かもわからないような結婚式パーティの中。もうそういう場所でしか「映画的なもの」はなくなっていた。

 その後、マニーが荷物を取りに行っている間に、ネリーはそっと姿を消す。

 ニューヨークのシーンで、ネリーは車の中でこう語っていた。自分が予言した通りになった。
 映画というのは真っ暗闇の中に光を投射して浮かび上がるもの。ネリーはある意味で映画の申し子なので、闇の中に消える……というのは正しい。
 結局、ネリーがスター女優だったのは、トーキーが発明されるまでのたった1年の間だけ……。パッと華開いてパッと消えた……そんな女優だった。

 コンラッドのその後はどうなったのだろうか? とあるホテルのロビーで、偶然にもフェイと会う。

 覚えているだろうか? 最初のこのシーンと対応したシーンとなっている。何度も話すように、この映画は前半と後半のシーンが重なるように作られているので、どうしてここでフェイとの対話シーンが出てくるのか……というと前半シーンにあったから。
 フェイはある事情で映画会社をクビになっていた。それがフェイにとって転機になっていた。むしろフェイは以前より成功していた。
 しかしコンラッドは……。
 コンラッドは最初のシーンで「映画は変わらなくちゃいけないんだ!」と理想を語っていた。トーキーが発明され、望み通り映画は変わった。新たな時代がやってきた。しかしそこに自分の居場所はなかった……
 コンラッドとネリーは、「その以前の映画」の申し子だった。しかしトーキー以降はどちらも望まれない才能だった。
 時代が変わるときに、ふらっといなくなる人……。この業界にはそういう人はたくさんいる。色んな俳優や映画監督が気がつけば姿を消した。コンラッドもネリーも、そういう人間になっていくのだった。

 ラストシーンです。1952年。マニー・トレスは数十年ぶりにカリフォルニアを訪ねていた。もう映画の業界には関わっていなかった。映画もずっと見ていなかった。でも、久しぶりに映画館に入ってみる。
 そこで上映していたのは『雨に唄えば』。サイレント映画がトーキーに移り変わる時代を描いた作品……ということだけど、私はこの作品をまだ見ていない。
 この映画を見ていて、マニーはハッとする。自分がかつていた映画の業界、サイレント映画がトーキーに移り変わる時代を思い出す。そして映画の中で肯定されたという気持ちになって、涙を流す。
 デイミアン・チャゼルは『ラ・ラ・ランド』でも同じ手法を使っていたけど、この場面は要するに『ニュー・シネマパラダイス』。あの時は色々あったけれど、しかしふっとあの時のことを思い出して、肯定された、つまり「赦された」という気持ちになる。
 いろいろあったけれど、映画産業は今も健在。その後も発展をし続け、世界中が夢中になって見るものになっていった。自分がその業界にいたことは無意味ではなかった。そのことを確かめて、映画は終わるのだった。

映画の感想


 はい、映画の解説はここまで! 長かったね!
 解説が長くなったのは、「この映画、あまりにも理解されなさすぎでは?」と感じたから。いくつかこの映画のレビューを見たのだけど、みんな漠然としている。「面白くない」「傑作だ」という意見どちらを見ても、「どの部分が?」というところがぼんやりしている。あっ、みんなよくわからずに言ってるな……と感じたので、今回は長めに解説を書くことにした。
(書き上げるのに5日もかかったよ……)
(黒人演奏家シドニーについて書かなかったのは、作中で一番わかりやすいところだったから。解説に含めなくていいでしょう……という判断)

 では個人的に映画について思ったこと。長い! この映画、長いですわ。単に尺が3時間もある……ということだけではなく、「長く感じてしまう」作り方をしている。この映画はそこで損をしている。
 ここでちょっと他の人のレビューをピックアップしてみよう。

「チャゼル監督はこの映画の後半、どこに向かわせたいのか見当を付けていない」『ヴァニティ・フェア』誌のリチャード・ローソン

「映画は始まって1時間かそこらはかなりの勢いで進んでいき、ほとんどカーニバル状態だ。(中略)第1幕といえる部分の熱狂が冷めると、残念ながら、チャゼルのファンタジーの語り方にはまとまりがなくなっていく」『IGN』Donatobomb

 要するに前半1時間。マニーがトーキー映画を観て「映画が変わるぞ!」という辺りまでみんな把握しているけど、それ以降は薄らぼんやりしています……と。それ以降はどういう話だったかわかりません……と。たぶん、ほとんど人がこの映画に躓いたのはその部分だ。これがこの映画の損をしている部分。
 でもよくよく映画を確かめるとわかるが、それは意図的なものだった。決してデイミアン・チャゼル監督がコンロールを喪って、「自分でもなんだかわからないものを作ってしまった」……というのではなく、すべて意図的なものだ。
 まずカメラの使い方を見てみよう。前半1時間くらいというのは、常にめまぐるしくカメラが動いている。しかし「映画が変わるぞ!」のシーンの後、カメラの動きが止まる。

 このシーン。固定カメラが中心になって、お話しも同じ話題をえんえん続ける。トーキー映画の撮影がいかに厄介だったか……という表現のためにこういう演出になっている。
 しかしこのシーンはまだ“動いているほう”だった。

 ここのシーンになるとカメラがまったく動かない。事件も起きない。映画業界がセレブ階級に取り込まれていく……その退屈さが表現されている。

 映画の全体を見ていても、意図しているのは「衰退」と「停滞」。これを表現しているのだから、後半の展開がつまらなくなっていく……というのはしっかり意図的なもの。映画の業界がつまらなくなってしまった……ということを表現したいわけだから、ばっちり狙い通りの映像が作られている。ただ狙い通りうまく撮れすぎてしまっている……そのおかげで批評家達の判断を狂わせてしまった。
 それに、映画を俯瞰して見ると、この作品はかなり合理的に、計算してシナリオも練られているし、カット構造もやはり計算して作られている。1時間半くらいを中間地点にして、前半と後半、意図的に似たようなシーンを描きつつ、映画が萎んでいき、かつてのスター達が注目されなくなって去って行く姿が描かれている。当事者達が感じている衰退と「こんなはずじゃなかった」という気持ちそのものを演出的に表現されている。そういう構造である……ということは、普通に見ればわかるはず。こういう構造だから後半が長く感じる……というのは仕方ないが、すべて意図的なもの。
 というこの話は、映画批評のプロであれば普通に理解して欲しかった。おかげでこの感想文がやたらと長くなってしまった。私、映画感想文を書いているだけの素人だよ。これだけの長文書いても1円ももらってないんだから!(しかも無料で読める!) 素人に解説させるんじゃありません!
(評論家って奴はどうして「わからなかった」というときに素直に「よくわかりませんでした」って言えないんだろうか。回りくどい書き方をして、自分の無理解をごまかそうとする。そういう人がプロの評論家名乗っちゃいけません)
 こういうところを見越して、デイミアン・チャゼル監督はかなりコミカルに、わかりやすく描いていたのだけど……。残念ながら映画批評のプロもきちんと理解できていない。この映画の本質が理解されていないのが残念だ。

 ただし、長く感じるというのは間違いなく、最初に見た時、「まだ続くのか?」という感じになった。映画館で見るのはしんどかっただろう。この作品はビデオ向き。しかし映像は大スクリーンを想定してがっちり作られている……というのがこの作品の難しいところ。
 映画館で見ると「いつ終わるんだ、この映画?」となるが、家庭用のモニターで見るには画面が小さすぎる。なんともいえない葛藤を抱えた作品だ。

 それで、こうやってそれぞれのシーンの意味を確かめながら見ると――言語化できないその時代にあったかもしれない哀愁が刻み込まれている。かつて「夢」そのものだった映画。どこか壊れた狂騒の世界だったが、だからこそ夢の世界だった。しかしトーキーを切っ掛けにすべてが変わってしまった。「変革」を夢見ていたはずなのに、それを語っていた当事者が居場所をなくして静かに去って行く……。私たちはそんな人達の「夢の跡」を気楽な気持ちで見ている。
 夢には失望が付きもの。その失望に直面してしまった人々を描いている。誰も気に停めることもなかった「去って行く人々」を描いている。
 といっても、この映画に描かれた「トーキー時代の哀愁物語」は所詮、作り物に過ぎない。そうかも知れないが、違うかも知れない。後の人が考えた、「きっとこうかも知れない」という物語だ。
 歴史物語は描かれた時代をもっとも強く投影する。真にその時代について語られたものは存在しない。この映画が描かれた感情も、すべて虚構。その時代の人々が本当に思ったことの正解を知ることはできない。
 ただ、こういう人々がいたかも知れない……という切っ掛けだけは作る。
 この映画の2人の主人公――ジャック・コンラッドもネリー・ラロイもすこし小躍りしながら、後ろ姿を見せて去って行く。きっと死んだんだろう……という示唆はあるが、それそのものは描いていない。そのように描くのは、2人は最後まで映画の中の虚構人物だったから。2人とも虚構の世界の人間として死を選んでしまう。

 そういう物語を、確かな構成力で描かれた作品。この作品は誕生と同時に古典というべき力強さがある。残念ながら今は批評家ですら理解されず、興行的に失敗した本作だが、やがて理解が追いつき、再評価の時期が来るだろう。その時、やっとこの映画に描かれた感情に気付いて、人々はハッとするだろう。去って行った人の気持ちをようやく理解するのだから。

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